「歴史の回想・明徳の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
明徳の乱は。1391年(明徳2)も山名氏清・満幸らが室町幕府に背いて挙兵し、討たれた戦乱。南北朝期、山名氏は一時足利直冬党に属して山陰地方に勢力を伸ばし、一族で11か国の守護を兼ねて六分の一殿と呼ばれた。将軍足利義満は惣領山名時義の死を機に強大な山氏一族の勢力の削減を図った。まず1390年山名氏清・道幸らに命じて同時煕・氏之を討たせたが、時煕らが降伏すると、逆に彼らを起用して満幸を退けた。そこで翌年末、満幸は氏清・義理らを誘って藩幕府の兵を起こし、京都に迫った。義満は自ら馬廻り(直属軍)3000騎余を率いて出陣するとともに細川・畠山・大内らの大名を集結し、洛西に反乱軍を迎え撃ってこれを破った。氏清は討ち死に、清幸は参院に逃れたが後に討たれた、義理は遁走して出家し、山名氏は時煕が但馬、氏之が因幡の守護を保つのみとなった。この乱の結果、幕府権力の強大さが明らかになり、余勢をかった義満は翌1392年南北統一を実現した。
「木曾義仲の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍」」
「源義仲」(木曽義仲)(1154~1184)平安後期の武将。木曽義仲とも呼ぶ。父は源義賢(?~155)母は遊女という。通称木曾冠者。1155年(久寿2)父義賢が甥の義平に武蔵国大倉館で討たれたため、2歳の義仲は乳母の夫中原兼遠に抱かれて信濃国木曽に逃れ、その庇護に下に成人。した1180年(治承4年)以仁王の令旨に呼称して挙兵、父の故地上野国に侵入するが、既に源頼朝の勢力を関東を制しているのを知って信濃に退く。義仲は奥州藤原秀衡と連絡しながら、翌年8月に平氏方の越後守城長茂を信濃国横田河原に破り、同年9月には越中国水津に平通盛軍を撃退して北陸道を掌握する。1183年(寿永2)10万にも及ぶ平氏の追討軍に対処するために、嫡子源義高(1173~1184)を頼朝の元に人質として送り、対立していた頼朝と和睦を結ぶ。同年5月越中国倶利伽羅峠の戦い、加賀国篠原の合戦で平氏を打ち破り、7月には延暦寺大衆と連携に成功し、兵士を都落ちをさせる。叔父行家とともに入洛した義仲は、平氏追討・洛中警固の院宣を得る。しかし、義仲軍は畿内での乱行をめぐって後白河法皇との溝が深まり、義仲が、水島・室山に平氏を討ちに出ているすきを見て、11月に院近臣が反義仲の兵を挙げる。義仲は急遽帰洛してこれを鎮定、法王を五条内裏に幽閉し、摂政藤原基通以下の解官、藤原師家を摂政・氏長者につけ、自らは院御厩別当となった、この戦いでの頼みの延暦寺大衆も敵に回した木曽義仲は一層孤立したたため、平氏との和睦を模索したが失敗、翌1184年(元暦元)正月、征夷代将軍に任じられた直後、頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れ、近江国粟津で打ち取られた。
「歴史の回想・御館の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「御館の乱・御館は新潟県上越市にあった城館。かつて越後の中心地として府中あるいは府内と呼ばれていた一角、今日のJR直江津駅の西南方、関川の自然堤防上にあった中世の城館である。東西約250m・南北約300mの規模を持ち、主郭を含め5つの郭で構成されていたもので、越後では最も規模の大きな城館とされる。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を居城としていた関東管領の上杉憲政は1551年(天文20)3月、小田原北条氏(北条氏康)が上野に侵攻したことから、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れた。謙信は憲政を迎え、その居館(関東管領館)として、弘治年間(1555~58年)に居城の春日山城(上越市)の城下に建設したといわれている。謙信はこの館を外交館としても使用した。その後、御館は謙信の死後の1578年(天正6)、上杉景勝と上杉景虎の2人の養子が争った御館の乱の主戦場の一つとなった。御館の乱では景勝が春日山城を拠点としたのに対し、景虎は春日山城を脱出して御館を拠点とした。翌1579年(天正7)2月18日、景勝は御館を包囲して食糧を遮断し、3月17日に一斉攻撃を行い、御館は炎上・落城した。このとき、上杉憲政は春日山城に和議交渉に向かう途中で景勝の兵により殺害された。上杉景勝が豊臣秀吉により会津へ移封された後、この地に入った堀秀治は御館跡を利用したともいわれるが、1599年(慶長4)時点ですでに耕地になっていたといわれる。1964年(昭和39)に行われた跡地の発掘調査で、建物や庭園、井戸跡が見つかり、櫛や簪のほか鉛製の銃弾なども発見された。現在、御館跡の一部が御館公園となっている。園内には御館があったことを記した石碑が建っている。JR信越本線・北陸本線直江津駅から徒歩約10分。
「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。
「歴史の回想・長篠の戦い」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。
「上杉謙信の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説得によって撤回。同年8月守護上杉氏の財政機関である公銭方の大熊朝秀が兵を起こすが失敗して甲斐に逃亡。翌年、相模の北条氏に圧迫されて越後に逃れてきた関東管領の上杉憲政を受け入れる。1559年(永禄2)上洛し幕府から文書裏書免除、塗輿使用の特権を得る。1560年憲政とともに関東に遠征し、よく561年3月に北条氏の本拠小田原城を包囲。その間鎌倉栂岡八幡宮に参詣し、関東管領の就任を明らかにして、ここに上杉政虎と改名する。この時初めて越後の公権力を一元化に掌握する地位につく。同年、関東から越後の帰るとすぐに信濃に出陣。その報を受けた武田信玄の軍勢と9月10日に川中島の対戦した。この4回目の時、川中島の戦いは激戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。1568年、越後揚北の有力領主本庄繁長が、震源に呼応して挙兵したが、謙信は翌年1562年2月に本所氏を外曲輪を破却。繁長が伊達輝宗、蘆名盛氏を通じて和議を申し入れたために4月に軍を引き、同氏を抑え込むことに成功した。1572年、西上を図る信玄と対戦する織田信長と同盟し、越中に出兵し越年。翌年一向一揆と和睦して富山を接収して帰国した。
「後醍醐帝の建武新政」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
後醍醐天皇(1288年~1339年)鎌倉末期から南北朝時代の天皇。1318年(文保)~1339年(暦応2・延元4)在位。後宇多天皇の第二皇子、母は藤原忠継の女談天門院忠子。諱は尊治。1308年(延慶元)花園天皇の皇太子となり、1318年即位。1321年(元亨元)12月後宇多法王の院政を廃して記録書を再興親政を開始た。吉田定房、北畠親房らを側近とし、さらに家格にとらわれず日野資朝・俊基らを積極的に登用した。生前みずからの諡号を「後醍醐」と定めていたようで、延喜・天暦の治を行った醍醐・村上天皇の治政を理想としていた。宋学を深く学び、宋朝型の君主独裁政権を目指していたとも言われている。天皇は諸政の刷新に努めたが、その実をあげるためには、皇位継承問題に容喙する鎌倉幕府の存在が障害であった。天皇は討幕の計画を練るために無礼講や宋学の購書会を開いて同氏と糾合した。しかし、この計画は事前に漏れ、1324年(正中元)9月、六波羅探題軍の急襲によって土岐頼兼、多治見国長らが殺され失敗した。天皇は、こののちも討幕の意思を変えず、子の尊雲法親王を天台座主としたり、畿内の大社寺の兵力を味方に引き入れようと努力した。日野資基を山伏に変装させ諸国の政情や武士たちの経済力を調査させた。1331年(元弘元)4月、吉田定房の密告によって、またもや討幕の計画が発覚した。鎌倉幕府は直ちに長崎高貞らを上洛させ、日野俊基、円観、文観らを逮捕した。同年8月、天皇はかろうじて京都を脱出して笠置に布陣して、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。しかし、幕府の大軍の前に笠置砦は旬日を経ずして陥落し、天皇は捕らえられて翌1332年3月、隠岐へと流刑になった。隠岐の配所に従ったのは阿野廉子や千種忠顕らであった。こうして討幕運動は鎮圧されたかに見えたが、同年11月頃から、吉野で護良親王が、また河内千早城で楠木正成らが挙兵すると、諸国の反幕運動が急速に展開した。諸国の悪党の蜂起によって幕府の支配機構は麻痺した間隙をぬって、1333年2月、天皇は隠岐を脱出して伯耆名和湊の海商名和長利の助けを受けて船上山に立て籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。足利高氏は同年4月下旬に天皇に応じて反幕府の旗幟
を鮮明にし、5月7日には播磨の悪党赤松氏と協力して六波羅軍を壊滅させた。東国においても、5月8日新田義貞が上野国生品神社に挙兵し、21日には鎌倉を攻略し、幕府を倒幕させた。天皇は京都に還幸、綸旨を絶対視「朕の新儀は、未来の先例」との自負を持って政局の運営に当たった。その後中先代の乱や尊氏の西走、湊川戦、建武の乱、南北朝に分かれ戦いが繰り広げられ、後醍醐天皇は南朝を樹立し吉野に拠点に、堺浦合戦・越前「藤島の戦」など新田義貞の戦死など勢力を挽回することは出来なかった。1339年8月、義良親王に譲位し、朝敵討滅、京都奪還を遺言して吉野で病没した。
「鍋島氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
「鍋島氏」(なべしまうじ)
近世大名、肥前佐賀藩主の家系に連なる一族。藤原秀郷流、少弐氏の子孫とも伝えられる。14世紀末京都北野から、肥前国佐賀郡鍋島村に土着した長岡宗元に由来しる。北九州の豪族龍造寺氏の家臣として、16世紀中ごろより頭角を現す。龍造寺隆信に仕えた鍋島直茂(なおしげ)は、大友・有馬らとの抗争で戦功をあげ、1584年(天正12年)の隆信戦死後は、その子政家(まさいえ)を補佐した。一方、九州に支配を広げた。実権は鍋島直茂に移って行った。その後、龍造寺氏の家督を相続鍋島体制が確立した。本藩鍋島氏は35万7千石余、豊臣秀吉とも独自に誼を通じて、豊臣氏直轄領長崎の代官に任じられるなど重用され、朝鮮侵略に際しては、加藤清正とともに先鋒を務めた。1590年に政家が隠居するとともに、直茂はその子高房を補佐し、事実上は支配の実権を握った。さらに直茂の子勝茂(かつしげ)は、龍造寺家の断絶によってその家督を継ぎ、佐賀藩35万7千石余を名実ともに領するに至った。藩政では「佐賀の乱」で内紛と干ばつで藩内は混乱した。支藩として、小城藩(7万3千石余)、蓮池藩(5万2千石余)、鹿島藩(2万石)が分出した。明治に至り、侯爵、支藩は子爵となった。
「足利義満の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
室町幕府3代将軍。1368年(応安元)~1394年(応永元)在職。2代将軍足利義詮の子。母は、石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。政所執事伊勢貞継邸で誕生。1361年(康安元)12月、南軍の入京により、赤松則祐に助けられて播磨白旗城に逃れた。1367年(貞治6)12月、義詮の死によって家督を継ぎ、よく368年(応安元)4月、元服、12月に征夷大将軍に補任された。細川頼之が補佐役になって幕政政治を指導した。1378年(永和3)3月、北小路室町光明院御所跡に造営していた新邸(室町殿)が完成した。義満は二条良基・西園寺実俊らを招いて竣工の祝いの宴を開いた。新邸の庭には鴨川の水を引き入れて池を作り、近衛家庭前の糸桜をはじめ諸家愛蔵の由緒ある花木が植えられたので、世人はこの邸を花亭とか花御所などと呼んだ。室町幕府の名も、この室町殿に由来している。1379年(康暦元)南軍の軍事行動鎮圧するために、大和に出陣中の土岐頼康、斯波義将ら有力守護菅で、幕政を壟断する管領細川頼之排斥運動が顕在化した。同年4月、反頼之派の有力守護達は花の御所を包囲し義満に頼之に罷免を迫った。義満は彼らの要求を受け入れて罷免した。この事件には義満の頼之の軌範を脱却しよう義満の思惑も多分絡んでいたのであろう。義満は斯波義将を管領に任じ、春屋妙葩を南禅寺の侍従とした。大きな課題は南北統一の名目のもとに南朝政権を完全に解体することであった。大内義弘らの仲介で南北朝合一を実現した。1394年(応永元)12月17日この義持に将軍職譲り、同月に太政大臣に叙任された。1399年10月に大内義弘が挙兵した(応仁の乱)この乱が義満が西園寺家から譲り受けた北山山荘でその造営にあたって義弘が土木事業の役を拒んだことにあったといわれる。対立は貿易で巨額な利益を経済力に「日本の国王」への道を歩み始めた大内氏が許せなかった。朝廷からも将軍と認めらえ絶頂期、北山第に碁小松天皇を招いて連日のように宴を開いていた日々を過ごす義満は突如急死し、足利幕府内は後継者も決まらないまま混乱をした。
「北条早雲の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
北条早雲は室町から戦国時代の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の名字は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵瑞の庵号、入道ののちは早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名は長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自は備中伊勢氏設、京都伊勢氏、伊勢国出身説などがあるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(現岡山県井原市)を所領した備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の貞国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったという。上洛して足利義視に仕え、伊勢を経て駿河今川の下に下向し、1476年(文明8)義忠没後の今川家の家督争いに姉北川殿、義忠嫡子今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功した。その任を果たして上洛し、1483年から1487年(長享元)将軍義尚の申次衆を務め、この間建仁寺、大徳寺の門をたたいている。1487年範満を討って氏親の家督継承を成功させ、その功により富士下方12郷を与えらえた。興国寺城主となった。1493年(明応2)伊豆に乱入したが、これは細川政元が将軍義稙を廃し、堀越公方足利政和の次男義高を擁立するクーデターと連動して行われたと考えられる。早雲は追放した足利茶々丸は、義高にとって母円満院の弟であった。その後も早雲と伊豆奪回に戦い続けて堀越公方の足利氏は滅亡した。早雲は大森氏による小田原城を攻略し、相模に進出し、両上杉家を巧みに利用し三浦氏を敗走させ岡崎城、住吉常攻めて鎌倉に入った。その後、玉縄城を築き領土を拡大し三浦親子を打ちのめして滅亡させた。相模全土を手中に収め1518年家督を嫡男氏綱に譲り、翌年8月15日韮山で没す。」
「伊達政宗の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
伊達政宗(1567~1636)戦国・近世初期の武将。出羽国米沢城主、陸奥国岩出山城主を経て仙台城主。伊達輝宗(1544~1585)の長男として米沢城に生まれる。母は山形城主最上義守の娘義姫。1584年(天正12年)10月、家督を相続。政宗は幼い時、疱瘡を病み右眼を失明。のちに唐書に言われる片目の英雄である独眼竜といわれた。南奥州の征服者を目指し1589年磐梯山のふもと摺上原に蘆名義弘の軍を破り、白川氏・石川氏などを服属させ、居城を会津の黒川城に進めた。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で旧蘆名領は没収され米沢に戻った。さらに1591年旧葛西・大崎領12郡を与えられた代わりに本領6郡が没収され、米沢から陸奥国玉造郡岩出山に移された。その後、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いに際し本領回復の判物を与えられたが、回復したのは苅田郡2万石の三であった。陸奥領60万国に近江領・常陸領を加えて1634年(寛永11年)仙台藩62万国が確定した。
「源義経の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
源義経(1159年1189年)平安後期から鎌倉初期の武将。源義朝の九子。幼名牛若丸。母は九条院雑仕、常盤御前。平治の乱(1159年)で父義朝が敗北し、母兄たちとともに捕らえらえてが、出家を条件で一命を救われ、洛北鞍馬寺に預けられた。成長して同寺を脱出して、水から元服して九郎義経と名乗り、平氏と一定の距離をとって奥州平泉藤綿秀衡に庇護を受けた。1180年(治承4)兄頼朝が関東で挙兵すると、わずかな手勢で平泉を発ち、黄瀬川の陣で頼朝と初めて対面する。1183年、兄範頼とともに頼朝の代官になって西上。1184年(元暦元)正月、先に上洛して畿内・西国を混乱に陥れていた源義仲を近江に討ち、ついに播磨国一の谷に陣をして平氏の鵯越の奇襲をもって大きな打撃を与えた。その後、頼朝の命で洛中治安にあたったが、頼朝の許可なく朝廷から検非違使・左衛門少尉の官を得たため、頼朝の怒りを買い、平氏追討使の任を解かれた。戦況の変化を受けて翌1185年(文治元)頼朝から再び平氏追討が命じられると、2月に讃岐国屋島に陣していた平氏の背後から追い落とし、3月には長門国壇ノ浦で安徳天皇を頂く平氏一族を全滅させた。戦後処理ののち上洛したが、義経の武将として器量を恐れた頼朝は、屋島奇襲以来の梶原景時ら御家人との確執が顕在化したのを機に、景時の讒言を受け入れる形で義経の武功を否定した。義経に捕らえられた平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したが、直前の腰越で鎌倉入りを拒否され、名高い「腰越状」も受け入れられず、失意のまま帰洛した。義経はその後転々とし1187年奥州藤原秀衡の下に辿りつぐが、頼朝は奥州藤原秀衡の下に義経追討を命じ、1189年義経は藤原泰衡の奇襲を受けて衣河館で自害した。
「歴史の回想・石山合戦」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。①1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は苦境に陥り、義昭の斡旋により浅井・朝倉と和睦した。②1571年(元亀2年)~1573年(天正元年)まで。和睦は破れ、信長は浅井・朝倉と抗争を再開。近江門徒は浅井・六角を支え、越前門徒は朝倉を支えて戦った。やがて義昭は信長と対立、義昭は武田信玄を味方につけて信長の同盟を断行し蜂起した。しかし信長の攻撃に屈して和睦。義昭は信玄の病死後再び放棄するもはブレ、京都を追われた。浅井・朝倉も相次いで滅ぼされ、本願寺は信長に和睦を請い承認された。③1574年~1575年まで。義昭は京都を追われた後も幕府を再興を意図して抵抗をし続け、本願寺はこれにこたえて蜂起、また朝倉滅亡後織田方の支配する越前門徒が蜂起し、一国を制圧。信長は軍勢を大坂にはけんして本願寺を攻撃する一方、自ら門徒の拠点伊勢中島を攻撃し、立てこもる門徒を大虐殺し手一揆を壊滅させた。さらに翌年越前に大軍で攻め込み、一揆勢を全滅させた。本願寺は和睦請い、信長も承認した。
④最後は1576~1580年まで、毛利氏に扶助された義昭は、諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。毛利・上杉・武田が呼応して籠城し、諸国の門徒が兵士を送ったり、武器・金銭・兵糧を送るなど戦いを支えた。信長は軍勢を大坂に派遣、5年にわたる石山籠城戦始まった。しかし上杉謙信の死去や、当初優勢だった毛利の水軍の敗北などもあり、本願寺をめぐる戦況は悪化した。この状況のなかで信長は天皇に本願寺と和睦を願い出、天皇の斡旋によって本願寺顕如は信長に寺地を引き渡して1580年4月に退去した。これに反対した顕如の嫡子教如は義昭と結び抵抗を続行しようとしたがならず、4か月後8月に大坂の寺地を退去した。この戦いの結果、織田政権と本願寺教団とが強固になり、以後豊臣政権になっても関係は引き継がれた。
「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。
「伊能忠敬の足跡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
伊能忠敬(1745年~1818年)江戸後期の測量家。洋学の科学的な理論に基ずき沿岸の実地測量から精密な日本地図「大日本沿岸輿地全図」伊能図、を作成した。上総国山辺郡小関家に出生。幼名を三治郎と称した。母の亡き後、婿養子の父の実家であった武佐郡小堤村の神保家に移り、その後1762年(法暦12)18才の時、下総国佐原村の豪家であった伊能三郎衛門家に入り婿し忠敬と名乗る。そこでは酒造や地主経営のほか、米穀・薪の取引、店貸、金融、運送業などの諸営業を展開して家産を拡大した。また村役人として天明の飢饉状況の中で、貧民の救済活動を行ったり、利根川の洪水対策に尽力を尽くした。その功績をたたえられ領主旗本から名字帯刀を許され、三人扶持を給せられて士分格となった。1794年(寛政6)家督を譲り、通称を勘解由と改めた。翌年江戸深川黒江町に居を移し、幕府天文方の高橋至時に師事し、自宅に施設を整えて天体観測を継続した。そして1800年幕府の命を受けて蝦夷地の測量に入り、以後17年間10次にわたり日本国中の沿岸を実施測量をした。その測量の距離は4万キロ以上に及び、3種の方位盤によって約6万回の方位が行われた。「伊能図」の精密さは、庶地点で天体観測による緯度測定のほかに、精巧な器具を作成し、在来の測地技術をもって驚異的な頻度で実測したことによってもたらされた。この測量の様子は伊能図とともに幕府に献上された。