「三浦氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
相模国三浦郡を拠点とした中世の武家。平安後期から竈く時代に活躍し、鎌倉幕府の有力な御家人となって、三浦党、三浦輩などと呼ばれた。桓武平氏良文流または良正流を出自とする。前九年・後三年の役以降の、保元・平治の乱などを通じて、源氏との主従関係強め、平安末期には相模国の有力在庁官人として衣笠城を拠点に勢力を拡大した。義明の時に「三浦大介」と称した。一族を挙げて源頼朝の挙兵に強力、幕府樹立後は北条氏と共に、有力御家人の双璧とされた。和田・大多和、多々良、長井、佐原の諸氏は三浦一族の一族として著名。三浦義澄、三浦義村そして三浦泰村と隆盛を迎え、相模を始め河内、紀伊、讃岐、土佐各国の守護職を占め、幕府に有っては評定衆に任じられ、宿老的存在とされた。宝治元年(1247)執権北条時頼に挑発されて挙兵、惣領家は泰村以下一族が滅亡(宝治合戦)。その後、三浦氏の主流派佐原義連の孫盛時に継承されたが、時継の時に継承されたが、時継の時に中先代の乱で北条時行に属したため衰退。三浦義同の時には一時的に勢力が拡大したが、永正13年(1516)北条早雲(伊勢宗瑞)に滅ぼされた。
「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
「蜂須賀氏」(はちすかうじ)安土桃山時代から江戸時代の大名。出自は、尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)を領した土豪武士。蜂須賀小六正勝が桶狭間(おけはざま)の戦いに織田信長を助けたときから頭角を現し、豊臣秀吉をもよく助け、1 天正9年(1581)に播州龍野に封じられて大名となり、嫡子家政の子蜂須賀至鎮が慶長5年(1600)徳川家康の養女を娶って家督を相続。関ケ原の戦いに家政は西軍に与したが出陣せず、至鎮が東軍に属し、本領を保った。1600年に阿波国一円を知行された。さらに家政の嫡子至鎮が元和1年(1615)に淡路を加増されたことによって、徳島藩25余万石の大大名に列せられた。その後は忠英、光隆、綱徹、綱矩、宗員、宗英、宗守、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕を経て、茂韶のとき(1869年)版籍を奉還することによって、270年続いた蜂須賀氏の阿淡両国支配に終止符が打たれた。
「斎藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
斎藤氏の流れは大きく分けて二つの流派があって、
①中世の武家。藤原利仁の子、叙用が斎宮頭に任じられ、その子の孫が斎藤氏を称したと言う。加賀斎藤氏、越後斎藤氏などがその系統である。越前の疋田斎藤氏の為永の子孫長定浄円は鎌倉幕府に仕え、嘉禄元年(1225)評定衆に列した。為永の兄弟竹田頼基の子孫には、六波羅奉行人となる者が多く出て、室町時代に代々幕府奉行人となった。特に基能は政所執事代・恩賞奉行人に、親基は政所執事代となり、日記「斎藤基日記」を残している。
②また越前の河合斎藤氏の子孫とされる美濃斎藤氏は、室町地代代々美濃守護代を務めた。特に妙椿は、応仁・文明の乱において西軍に着いた守護土岐成頼の下で活躍した。戦国時代になると、斎藤氏の家宰長井氏の出身とされる道三が斎藤を名乗り、美濃の戦国大名として活躍するが、孫の龍興の代に織田信長によって滅ぼされる。
「井原西鶴と近松門左衛門」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
井原西鶴と近松門左衛門は浪速で活躍した文学者で少し趣が違うが浄瑠璃などの劇作家として、また年齢的にも西鶴が11歳年上で互いに相手を意識し丁々発止の浪速の演劇興行を競い合ったようだ。
井原西鶴は江戸時代前期の俳諧師、浮世草子作者。大坂人。出自、家系図等不詳。伊藤梅宇の「見聞談叢」(1738年)によれば本名平山藤五。大坂の裕福な町人の弟子であったが、家業を手代に譲り自由気ままに暮らし諸国を遊歴する傍ら俳諧、浮世絵草子等の文筆に従事したという。自ら記して1656年(明暦2)15歳の頃から俳諧を学び、21歳のときには点者として独立したいという。俳号は鶴氷。はじめ貞門俳諧を学んだらしいが、のちに談林は俳諧の祖西山宗因に師事した。1673年(延宝元)32歳のとき大坂生玉において「生玉万句」を興行「阿蘭陀流」とされる軽妙奇抜な軽口・狂句の俳諧を天下に呼号した。この年冬に西鶴と号した。1675年4月3日妻没す。あとに3人の幼児が残された。悲嘆にくれた西鶴は追善のために「俳諧独吟一日千句」を手向けた。西鶴はこの年の内に法休し、家業を手代に譲ったものこの頃とであろうと考えられている。速吟を得意とした西鶴1677年は、生玉本覚寺一夜1600句を独吟「西鶴俳諧大句数」矢数俳諧を創始し1680年生玉南坊にて4000句「大矢数」1684年(貞享元)には住吉神社において2万3500句の独吟を達成している。1682年(天和2)処女作「好色一代男」を刊行し、新風を巻き起こした西鶴は以後浮世絵草子に転じて数々の作品を残した。好色物「緒艶大鑑」「好色一代女」「男色大鑑」武家物「武道伝来記」「武家義理物語」「新可笑記」雑話物に「世間胸算用」など数々の多彩な作品を書き残した。1693年8月10日没。享年52才。大坂誓願寺の墓門人北条団水、下山鶴平によって建立された。亡くなった時には西鶴の一家は離散していたらしく家庭的には不遇な障害であったと考えられる。
「近松門左衛門」(1653年~1724年)江戸時代の劇作家。本名は杉森信盛。越前国吉江藩士信義の次男。出自については諸説はあるが、現段階では福井が確実視されている。1667年(寛文7)頃、父が浪人して上京したため一家とともにこれに従い、やがて一条恵観などの公家に奉公し、この時期に文学的教養を身に着け、また芸能とも親しむようになったと思われる。演劇の世界に入った時期は不明であるが、最古の確実作は1683年(天和3)宇治座上演の浄瑠璃「世継曽我」で近松は当時京都の人形浄瑠璃界で活躍していた宇治加賀掾の下で修業し、すでに20代後半頃には執筆していたと考えられる。1685年(貞享2)大坂竹本座初演「出世景清」は近松が竹本義太夫のために書き下ろした最初の浄瑠璃であり、登場人物の人間性が豊かに描かれた名作であり高く評価され、後年この作品以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼ぶ習慣が生まれた。一方、この頃から歌舞伎作品も書いていたといわれているが、現在確認できる最古の作品は1693年(元禄6)都万太夫座で坂田藤十郎が演じた「仏母摩耶山開帳」である。以後10年間は浄瑠璃より歌舞伎に、それも藤十郎のために「傾城仏の原」「傾城壬生大念仏」などの元禄歌舞伎を代表作を、時には一座の道化方金子吉左衛門と協力しながら提供している。1703年、竹本座上演の「曽根崎心中」近松最初の世話物の浄瑠璃で主人公の悲劇を生き生き描いた内容が評判を生んだ。近松門左衛門の脚本で経営状態が苦境に陥っていた竹本座を救ったという。その後「冥途の飛脚」「心中天の網島」「女殺油地獄」など数々の名作を残し1724年(享保9)11月22日に没した。墓は播磨国尼崎の広済寺に建てられ、大坂の妙法寺にも墓が残されている。
「歴史の回想・観応の擾乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将に北進を続けた。12月、幕府の危機を救うために高師直の軍勢を投入させた。南北両軍は翌年1月四条畷で激突、師直軍はこの合戦で正行軍を壊滅させるや、直ちに吉野に侵入し行宮をはじめ蔵王堂以下の諸寺社を焼き払った。吉野攻略の成功によって幕府内における師直の声望が高まった。この状況を危機感を深めて直義は1349年6月、師直の室辞職罷免を尊氏に強請した。師直はこれに屈することなく、同年8月には自派を京都に結集、直義の所に逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、逆に直義の政務を取り上げ、鎌倉から足利義詮を上洛させて政務につかせるように要求した。尊氏は、紛争を早急に解決しょうと、直義派の武将上杉重能、畠山直宗を越前に流刑、のちに殺害した。1350年(観応元年・正平5年)になると直義派の武将たちが各地で蜂起し、同年10月に、直義は京都を脱出して大和に赴き南朝に帰服した。かくして、尊氏・師直派らは直義派との全面武力対決になった。よく351年2月、摂津打出浜の合戦において高氏派は敗れ、師直・師泰らは武庫川で上杉能憲に殺害された。打出浜の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することになったものの内訌は鎮静化に向かわず、その後も尊氏・義詮派と直義派は全国各地で合戦を繰り返した。そのため尊氏は南朝と和睦し正平統一、駿河・伊豆で直義軍を破り、1352年正月鎌倉を占拠したうえで、2月に直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。
「真田幸村の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
真田幸村(1567年~1615年)安土時代から江戸初期の武将。真田昌幸の次男。幼名御弁丸、後に源次郎。左衛門佐を名乗る。名は信繁、後年幸村の名で知られる。1587年(天正15年)父昌行が豊臣秀吉に属するに及んで幸村も出仕し、秀吉の配下の大谷吉継の娘を妻として豊臣家と縁故を深めた。1600年(慶長5年)上杉討伐のために会津に向かった徳川軍に父や兄に従ったが、途中石田三成の挙兵を知って父とともに引き返し、上田城に籠って反徳川の旗を挙げ、徳川秀忠の率いる大軍を引き付けて関ヶ原の戦いに参加させず、三成方(西軍)を助けた。西軍の敗北により命が危うくなったが、妻が本多忠勝の娘だったために東軍に味方した兄信之の戦功に免じて死は逃れ、父とともに高野山麓の九度山村に蟄居させられた。1614年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、最も危険な城南天王寺口に出城を築いて徳川方をしばしば悩ませたが、幸村らの主戦論を押し切って淀君らによっり不利な条件の講和を結ばれた(大阪冬の陣)。翌年の夏の陣では幸村は道明寺、天王寺と転戦、一時は徳川本陣にまで迫って家康本人に狼狽させたが、越前松平忠直の家臣西尾仁左衛門の槍に討たれて戦死した。
「歴史の回想・月山富田城の戦い」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
「月山富田城の戦いとは」(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。
この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。
尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。
家督相続
永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。幼名が、父祖たちも用いた又四郎でなく三郎四郎であったのは政久の長男にあたる兄がいたからである(ちなみに晴久の子の義久も同様である)。
しかし、政久の嫡男(跡取り)となる筈であった兄(名乗りは又四郎か)は夭折。これに伴い次男の三郎四郎が代わって政久の跡目と成る。さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。このため祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった。元服後の初名は詮久(あきひさ)と称した。
大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。
この頃、尼子氏は重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗した事で、毛利氏の大内氏への転属を許し、備後国や安芸国への支配力低下を招いていた。
享禄3年(1531年)、叔父・塩冶興久が謀反を起こす。同年5月28日付の大内氏家臣・陶興房の書状には大内氏が塩冶興久・尼子経久の両者から支援を求められ、最終的には経久を支持していることから、経久の代には大内氏と和睦していたことが判る。
「大谷吉継の群像アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「大谷吉継の群像」大谷吉継(1559年~1600年)安土桃山時代の武将。越前国敦賀城主。豊臣秀吉に仕え、1586年(天正14年)九州平定に際し扶持方渡奉行を務める。1589年敦賀に入部、はじめ敦賀郡の2万石ほどだったらしい。1590年小田原攻めに従い、浅野長政や石田三成と検地奉行を務めた。同年末、越前国南条・丹生・今立3郡内の63村、2万6944石を加増された。敦賀の町を整備し、伏見城のいわゆる「太閤板」(北前船で運ばれた普請用の秋田杉の板)の運送を宰領。文禄の役では朝鮮に出兵し、増田長盛、三成とともに三奉行と称された。明との交渉にもあたった。1598年(慶長3年)太閤検地ののち3000石加増され、5万国となった。関ヶ原の戦いに三成に与して敗死。
「細川忠興の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
細川忠興(1563年~1645年)安土桃山時代から江戸時代の初期。初代小倉城主。細川藤孝(優斎)の長子。足利義輝の命により細川輝経の養子になる。幼名熊千代のち与一郎。織田信長の雑賀一揆討伐が初陣。信長の嫡子信忠より一字を与えられ忠興と名乗った。明智光秀の娘玉子を妻に迎え、1580年(天正8)重なる軍功で丹後半島12万石を与えらえた。11582年本能寺の変に際し光秀に誘われたがくもせず、秀吉についた。1585年羽柴の姓を許され、1592年(文禄元)朝鮮に出陣、1596年(慶長元)参議従三位に昇進し越中守になる。秀吉の死後徳川家康に属し、1600年三男忠利を人質に江戸に送った。同年関ヶ原の功により豊前一国、豊後のうち国東・速見2群30万石に封じられて中津城に入り、1602年小倉城に移った。1615年(元和元)大坂の陣の出陣、羽柴姓から細川姓に復した三斎宗立と号し中津城に移った。1632年(寛永9)忠利の肥後熊本城に転封により四男細川立充を伴って八代城に入り隠居領3万石をもった。立充の子行孝は忠興の死後翌年支藩宇土藩を創設して忠興の遺領を伝えた。秀吉の下では武将派に上げらえたが、茶の湯、和歌、有職故実に通じた文化人であった。
「藤堂高虎の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「藤堂高虎」(1556年~163年)近世大名。藤堂氏初代。高虎の次男、母は多賀氏。幼名右与吉、通称楊衛門。近江国犬上郡藤堂村を本貫とする。はじめは浅井氏に仕え、同氏滅亡後は織田信長に属し、後に大和郡山城主の豊臣秀長の重臣となる。秀長の下で山奉行として活躍し、彼の没後は豊臣秀吉に仕え伊予7万石、関ケ原では徳川家康に属して同国今治20万石、1608年(慶長13年)には伊賀一国・中部伊勢22万950石を領有する(津藩)大坂の陣で恩賞として1615年(元和元)に5万石を、さらに1617年には5万3000石を加増された。大坂城包囲のために築城(天下普請)を中心的に関与した。また東照宮の造営や徳川秀忠娘東福門院の入内などにも尽力した。
「武田信玄の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
武田信玄(1521年1573年)甲斐の戦国大名。武田信虎の長男。通称は太郎。名は将軍足利義晴の偏諱をうけて武田晴信、出家して信玄と号した。官途受領は、大膳大夫、信濃守。はじめ扇谷上杉朝興の女としたが早世したため、1536年(天文5)京都の公家三条公頼の女を性質に迎えた。1541年6月、父武田信虎が今が義元に嫁いだ自分の女に会いに行ったとき、甲斐・駿河の国境を閉鎖し父を追放自ら武田氏を継いだ。その翌年には信濃を侵略して諏訪頼重を攻め、偽って講和したうえで頼重を殺害した。その後、頼重の女を側室に迎え、この側室との間に後に家督を継ぐ武田勝頼が生まれている。1547年「甲州法度之次第」26か条を制定して領国支配の規範としたが翌年2月14日、信濃上田原戦いで村上義清と戦って敗れ、かつて、同じ年、塩尻峠・勝弦峠の戦で小笠原長時を破り、信濃進出を確実なものにした。越後の上杉謙信とは前後5回戦い、同時に背後の安全を保つため、相模の北条氏康と同盟を結び、女を氏康に嫁がせている。1561年(永禄4)の第4次川中島の戦が、5回の中で一番厳しい戦いとなり、信玄の弟信繁が討ち死に。そのあと、信玄は「北進策」をあきらめ「南進策」転じ、駿河の今中氏真を攻略、その過程で、氏真の妹をめとっていた嫡男義信を自刃に追い込んだ。1568年、駿河を奪取、ついて遠江に進出して徳川家康と敵対する石山本願寺と結んで天下統一を進める信長に対する包囲網を強めていった。1572年(元亀元)2万5000の大軍を率いて遠江に侵入三方ヶ原で家康を破り、さらに西に進んで病が悪化し、翌年甲斐に兵を戻す途中、信濃の駒場で没した。死因はこれまでは労咳、すなわち肺炎(結核)とされてきたが、最近の研究では胃がんとする説が有力である。
「明応の政変」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。
「島津義久の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「島津義久」(1533年~1611年)戦国大名、島津家16代、島津隆久の長男。幼名虎寿丸、通称又三郎、はじめ忠良。1552年(天文21)将軍足利義輝より諱を賜り義辰と称し、後に義久に改名。1566年(永禄9)家督を継ぐ。1577年(天正5)伊東義祐を破り、薩摩・大隅・日向を統一。1585年弟義弘を守護代として九州統一を進めたが、豊臣秀吉の九州平定にあい、1587年5月、剃髪して竜伯と号し降伏した。関ヶ原の戦後、徳川方と折衝し、1602年(慶長7)4月家康より薩摩・大隅・日向緒県郡の本領を安堵された。
「豊臣秀次の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
豊臣秀次(1568年~1595年)安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥。通称孫七郎。父は三好吉房、母は秀吉の母の姉。1584年(天正12)小牧・長久手の戦に出陣し、敗れて有力家臣を失い、秀吉に叱咤された。しかし、翌年秀吉から近江に43万石の領知と山内一豊以下4名の宿老を付与され、八幡山に城を築いた。1590年秀吉の東国平定に際しては尾張清洲城に入り、宿老たちは東海道の要所に進出、豊臣政権の対東国最前線に配置された。実子に恵まれなかった秀吉が関白になると、羽柴秀長らとともに昇殿、1586年の右近衛中将から中納言、内大臣、左大臣と昇進。1591年には関白職を譲られ、後継者の地位についた。1593年(文禄2)秀頼が生まれると、実情は一変し、太閤として実権を握る秀吉と関白秀次権力との間に矛盾が表面化し、尾張の蔵入り地に太閤奉行衆の介入を受けるに至った。秀次に日本国の五分の四を与えるとか、秀次の娘と婚約など秀吉側から提案されたが、実現しないまま、1595年7月に謀反の罪で高野山に追放され、切腹させられた。妻子妾子女30余名も三条河原で悉く斬られた。秀次は調停に書籍を献上し、能の謠本百番の注釈など、作らせるなど、伝統文化の保存と継承した貢献した側面があった。正親町上皇の諒闇中に狩猟を行う軽率な性格があり、こうした結果を招いたといわれている。
「朝倉義景の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
朝倉義景(1533年~1573年)越前の戦国大名、朝倉氏5代当主。孝景の長男、1548年(天文17年)に家督を継ぐ。延景と称したが、1552年に将軍足利義輝の一字を受けて改名。左衛門督。加賀一向一揆を攻撃してい、若狭の武田氏に支援の派兵している。他方では1561年(永禄4)に武威を誇示する大掛かりな犬追い物を催し、翌年には一乗谷に下向した元関白近衛尚通の子で大覚寺義俊を招いて曲水宴を開くなど、華美で文人風の儀礼を好んだ。1568年、前年に義景を頼って下向した足利義秋(義昭)の元服の役を務めている。この頃から本願寺とは和睦して織田信長と対立し、1573年(天正元)8月に近江で信長軍の追撃を受けて、越前大野に落ち延びたが、同月20日に自刃した。