【原文】
最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑、二献に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、主方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣はされけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。
【現代語訳】
北条時頼が鶴岡八幡宮へ参拝したついでに、足利義氏のところへ、「これから伺います」と使いを出して立ち寄った。主の義氏が用意した献立は、お銚子一本目に、アワビ、お銚子二本目に、エビ、お銚子三本目に、蕎麦がきだった。この宴席には、主人夫婦の他に、隆弁僧正が出席して座っていた。宴もたけなわになると、時頼は、「毎年頂く、足利地方の染め物が待ち遠しくて仕方ありません」と言うのだった。義氏は「用意してあります」と、百花繚乱に染め上がった三十巻の反物を広げ、その場で女官に、シャツに仕立てさせて、後で送り届けたそうだ。
それを見ていた人が最近まで生きていて、その話をしてくれた。
それを見ていた人が最近まで生きていて、その話をしてくれた。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。