33:沢村宗十郎の名古屋山三と三世瀬川菊之丞の傾城かつらぎ
この図は寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」の出演俳優を描いた作である。
この図で気のつく第一のことは、その色彩が背色の白雲母摺と対映して他の写楽の作品と比較して最も派手であるということである。
名古屋山三の着物の宝づくしの模様も派手であり、かつらぎの薄紅の着物も派手である。
しかしこの派手さを、かつらぎの打掛の黒が中央に位置して、しっかりと引きしめて、この絵を安定させているのは流石である。
第二に気のつくことは、その構図の機能美である。
左上から画面を三角にとった思い切った構図に加えて、この絵はいくつかの三角形の集積によってなっていることである。
さらに三角形の右辺を五段に段階をつけて単調をふせぎ、同時に調和を見せている。
三角形を基調とする構図は写楽独特のもので、他の図にも見られるが、本図が最もその特徴を見せている。
以上の配色に対する神経と、構図上の機構美(空間の利用といってもいい)によってこの絵は生き生きと整っている。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この図は寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」の出演俳優を描いた作である。
この図で気のつく第一のことは、その色彩が背色の白雲母摺と対映して他の写楽の作品と比較して最も派手であるということである。
名古屋山三の着物の宝づくしの模様も派手であり、かつらぎの薄紅の着物も派手である。
しかしこの派手さを、かつらぎの打掛の黒が中央に位置して、しっかりと引きしめて、この絵を安定させているのは流石である。
第二に気のつくことは、その構図の機能美である。
左上から画面を三角にとった思い切った構図に加えて、この絵はいくつかの三角形の集積によってなっていることである。
さらに三角形の右辺を五段に段階をつけて単調をふせぎ、同時に調和を見せている。
三角形を基調とする構図は写楽独特のもので、他の図にも見られるが、本図が最もその特徴を見せている。
以上の配色に対する神経と、構図上の機構美(空間の利用といってもいい)によってこの絵は生き生きと整っている。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大首絵の構図も良いですが、こうした全体を描くのも
良いですね。写楽。特徴ある絵のタッチに当時の人
もそうでしたでしょうけど、現代に生きる我々も魅了さ
れますねぇ。
さて、本日昼過ぎまで職場。その後長岡へと向かう
予定です。
土曜日から上京して先ほど帰ってきました。
返事が遅れましたことをお詫びします。
東京は活気があり、人人人でした。
初日は東京丸の内、昨日がお台場、今日が銀座でした。