35:三世坂田半五郎の子育観音坊と三世市川八百蔵の不破伴左衛門
この図は、寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」に出演した俳優を描いたものである。
この絵ほど歌舞伎の独特の見得の美しさを感じさせる作はない。
それほどに歌舞伎の舞台の瞬間美が見られる。
その二人の見得の美しさを、写楽はくの字とへの字の交錯によって成立させている。
即ち半五郎のくの字、八百蔵のへの字の姿態美である。
そしてこの二人が八百蔵の刀によってがっちりと結び合って渾然の美が形成されているのである。
配色は、半五郎が紋綸子と鼠の僧衣という単純に対し、八百蔵の織物の上下の複雑な色調の対映、これがこの絵をまた美しいものにしている。
写楽の配色の神経のこまかさがここにも現れている。
第二期の二人立大判作品中では、最も画面にもり上がる生き生きとした芸術美を感じさせる傑作といえよう。
なお、不破判左衛門の上下の模様、雲の模様は、歌舞伎の古くからある不破、名古屋の狂言以来、不破の役の定まった模様である。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この図は、寛政六年七月都座の「けいせい三本傘」に出演した俳優を描いたものである。
この絵ほど歌舞伎の独特の見得の美しさを感じさせる作はない。
それほどに歌舞伎の舞台の瞬間美が見られる。
その二人の見得の美しさを、写楽はくの字とへの字の交錯によって成立させている。
即ち半五郎のくの字、八百蔵のへの字の姿態美である。
そしてこの二人が八百蔵の刀によってがっちりと結び合って渾然の美が形成されているのである。
配色は、半五郎が紋綸子と鼠の僧衣という単純に対し、八百蔵の織物の上下の複雑な色調の対映、これがこの絵をまた美しいものにしている。
写楽の配色の神経のこまかさがここにも現れている。
第二期の二人立大判作品中では、最も画面にもり上がる生き生きとした芸術美を感じさせる傑作といえよう。
なお、不破判左衛門の上下の模様、雲の模様は、歌舞伎の古くからある不破、名古屋の狂言以来、不破の役の定まった模様である。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
確かに今年は例年より寒いですね。
当分寒さは続くでしょうね。
こちらは上天気でした。
いよいよ冬休みも終わり今年も明日から本格稼働ですね。
現役時代のような緊張感はありませんが・・・・・・。
若い方の就職に少しでもお役に立てばと思っています。
1枚の絵から想像を高めさせる写楽の凄さを、
またも感じさせていただきました~!
元旦から寒さこそあれ、澄んだ空気により、
富士山を眺めることができましたが、
今日は、富士山もお隠れになりました。
いつも、ありがとうございます~♪
>説明のできぬ、人助け系の事情です。
お疲れ様です。
新年早々大変ですね。
ご丁寧にお知らせいただきありがとうございました。
佐渡に戻った四日からサイト管理の
できぬ事情が発生しました。もちろん
仕事もしていますが、気分的に他のこ
とを考える余裕がないというのが実情
です。今朝もまず仕事ではないそちら
のことを優先すべく出かけます。取り
急ぎ、事情をお伝えすべく、皆さんの
サイトにコメント入れさせてもらって
います。
追伸:基本的には説明のできぬ、人助
け系の事情です。