11月中旬に 佐世保と松浦に帰る。
福岡→佐世保→松浦→福岡
佐世保から松浦へ、
昔の通勤の時のように、家から車で、妙観寺越えをする。
しかし、いまは、トンネルが出来、時が早くなった。
私の佐々、佐世保の生活では、山を越えて、松浦の職場に向かうのが、
日常であった。
永ちゃんの音楽を、朝はテンポのいいロック、帰りは、癒しのためか、
バラード その毎日だった。
下の道は、国道で街並みをはしるのであるが、時間がかかるので
自然に、短時間を選択する。
佐々の時代は、山越えはひとつ、吉井から福井峠から松浦へ
佐世保時代は、妙観寺越えで吉井町にでて、福井峠、
松浦へ。
山道を走らせるのは、仕事でも多大にあった、
志佐町から、上志佐、世知原、
また、江迎方面、鹿町方面、すべて、山越えである。
海と山々に面したMATURAの宿命であるかのように、
事を成すために、私たちは、山を越えて走った。
それが普通であり、あたりまえであった。
365日を支えた仕事は、仲間たちと交代で、保守のため、
管内保守のため、車を走らせた。
そして、民家へ、高所作業へ
その足跡は、今も残る。
光が来る前に、私たちは設備を守り、維持してきた
そして、光が来て、その設備に光が走る。
道がないと、車が走れないように、
光も道がないと、しっかりと送れない。
こういったことを、考えつつ、
懐かしい山々の風景をみつめていた
2008年11月の私がいる。
永ちゃんも、走り続けている、
私も走り続けたいものた。
少し、懐古的になったが、
私の「山越え」の話である。
福岡→佐世保→松浦→福岡
佐世保から松浦へ、
昔の通勤の時のように、家から車で、妙観寺越えをする。
しかし、いまは、トンネルが出来、時が早くなった。
私の佐々、佐世保の生活では、山を越えて、松浦の職場に向かうのが、
日常であった。
永ちゃんの音楽を、朝はテンポのいいロック、帰りは、癒しのためか、
バラード その毎日だった。
下の道は、国道で街並みをはしるのであるが、時間がかかるので
自然に、短時間を選択する。
佐々の時代は、山越えはひとつ、吉井から福井峠から松浦へ
佐世保時代は、妙観寺越えで吉井町にでて、福井峠、
松浦へ。
山道を走らせるのは、仕事でも多大にあった、
志佐町から、上志佐、世知原、
また、江迎方面、鹿町方面、すべて、山越えである。
海と山々に面したMATURAの宿命であるかのように、
事を成すために、私たちは、山を越えて走った。
それが普通であり、あたりまえであった。
365日を支えた仕事は、仲間たちと交代で、保守のため、
管内保守のため、車を走らせた。
そして、民家へ、高所作業へ
その足跡は、今も残る。
光が来る前に、私たちは設備を守り、維持してきた
そして、光が来て、その設備に光が走る。
道がないと、車が走れないように、
光も道がないと、しっかりと送れない。
こういったことを、考えつつ、
懐かしい山々の風景をみつめていた
2008年11月の私がいる。
永ちゃんも、走り続けている、
私も走り続けたいものた。
少し、懐古的になったが、
私の「山越え」の話である。
ほんと 突っ走ってきましたね
懐かしい!!!