原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

尖閣ビデオ流出問題において一番愚かなのは誰か?

2010年11月07日 | 時事論評
 「このビデオ、元々事件直後に公開しとけばよかっただけの話じゃないの?」
 と一国民として今さら言いたくもなるのが、先だっての「尖閣ビデオネット流出事件」である。

 そう思っていた矢先、同様の世論が巷に溢れている模様だ。


 先だっての11月4日に尖閣諸島沖の漁船衝突を撮影したとみられるビデオ影像がインターネット上の「ユーチューブ」に流出した問題を受けて、検察当局は石垣海上保安部が撮影、編集した疑いが濃厚であり、かつ地検、高検、最高検公安部の捜査担当者もデータを持ち出すことが可能であったとみて、捜査を進めているとのことである。


 それにしても「ユーチューブ」に問題影像が流出したあくる日の報道は、いずこのメディア媒体も早朝からこの影像を丸一日中“嫌と言うほど”繰り返し流すことに専念していたものである。
 「政府の機密文書であるはずの尖閣諸島中国漁船衝突影像がご覧のようにネット上に流出しました! 中国漁船が海上保安庁の巡視船に激しくぶつかる様子がはっきりと撮影されています! 一体誰がこれを撮影して流出させたのでしょう!」とのナレーションと共に、 中国漁船が巡視船にぶつかる瞬間の影像をクローズアップして何度も何度も繰り返し、まるでスペクタクル映画でも公開するごとく“面白おかしくショーアップして見せていたものである。 
 NHKとてそうだった。“一応”政府の機密文書との認識があるならば、その良識に従って影像なしのニュースであってもよかったはずだ。 であるにもかかわらず昼のニュースでも夜のニュースでも、民放共々この流出した影像を流すのに躍起になっていたものだ。
 新聞とて同様だ。この日の夕刊の一面トップは、この流出影像から中国船が巡視船に衝突する瞬間を捉えた写真を大々的にクローズアップしたものだった。
 「もう、うんざりだよ」と言いたくもなる。

 そこで今回の影像流出事件における“愚か者”の一人は、まず「マスメディア」であると吊るし上げることにしよう。
 原左都子が冒頭で述べた私論のごとく、政府が機密扱いにしているビデオ影像は元々国民に公開されるべきだったとの見解にマスメディアが立った上でしつこいまでも流出した影像を流す手段に出たならば、その意図を伝えるべくナレーションをするべきである。 ところが現在のところ決してそうではないのだ。あくまでも、捜査当局が“犯人探し”に入っていることを強調する報道趣旨のようなのだ。
 このマスメディアの実態はどう考察しても“愚か”過ぎる。
 極論ではあるが、今回の流出事件はもしかしたら影像流出者とマスメディアの共犯なのかと勘ぐりたくもなる。この影像を国民に大っぴらに流すことにより誰が得をするのかと推測するに、スポンサー収益が上がるマスメディアであると結論付けるのも一理あるからだ。


 次に考察するべきは、このビデオを撮影、編集したとされる石垣海上保安部である。
 私論としては、この切羽詰る尖閣諸島衝突現場の巡視船に乗り合わせた保安官の勇気ある撮影行動に拍手申し上げたい思いである。 最悪の場合、激しい衝突によって船が炎上沈没するやもしれない。 自らの命の保障もない危機的状況下にある中で、長時間に及び撮影を完遂した保安官としての責任感は褒め称えられるべきであろう。
 そして、その影像を今回の中国船衝突事件の証拠物件として編集して検察あるいは政府に提出するのも、石垣海上保安部の任務範囲内だったことでもあろう。
 石垣海上保安部内部からの影像流出事実がないならば、今回石垣海保が責めに問われる筋合いはまったくないはずである。 


 最後に、今回の情報流出事件における“愚かさ”が一番問われるのは、皆さんもう既にお察しのことと思うのだが、それは日本「政府」である。
 既に原左都子の結論は冒頭で述べている通り、今回の尖閣諸島中国漁船衝突事件のビデオは事件直後に公開しておくべきだったのだ。
 何故にそれをしなかったのか? それは、政府の対中国対応が“軟弱腰砕け”であるためである。

 ただしここで断っておくが、原左都子は(一般国民が今騒いでいるがごとくの)決して対中国関係強硬派ではない。
 今回の記事はその理由の多くを語る趣旨ではないため少しだけかいつまんで言うと、それは過去における我が国の中国に対する侵略の歴史故であり、現在の日本の政治経済の弱体化故である。 今の日本は国際関係における優位性を大いに失っていることは事実だ。その現実を省みずして決して世界に厚顔無恥を晒してはならない思いが原左都子は強いのだ。
 (繰り返しますが、今回の記事は対中国関係について私論の詳細を述べる趣旨で綴っておりませんので、その種の異論反論コメントはお控えいただけましたら幸いです。)
 
 今回の流出ビデオは中国においてもメディア報道されている。それを見た中国国民感情とは今までと何ら変わりはない。むしろ(尖閣諸島が自国の領土と認識している中国国民にとって)自国の領土を守りきるために日本の巡視船に衝突した船長は相変わらず英雄扱いである。
 そんな中国の国民感情も政府は重々予想できていた事である。 それを承知の上で、スマートな対中国対応を志すべきであるが、今の日本政府はその力量が発揮できる人物が一人とて存在しない。

 アメリカのオバマ大統領も米国中間選挙で敗北して当てにできない現状において、この国の政権は一体今後何にすがって国際関係を正常化するのだろう?

 少なくとも、今回の影像流出事件の弱者的立場に追い込まれている石垣海保に責任をなすりつけて、政府の“対中国軟弱政策故の影像機密政策”を政権が正当化することだけはやめて欲しい思いの原左都子である。
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東京都 狛江市民祭「ディスコ大会」のお知らせ

2010年11月06日 | お知らせ
 「原左都子エッセイ集」開設後間もない3年ほど前に “70年代ディスコサウンドで踊ろう!”と題して綴った記事(2007年10月の音楽カテゴリーバックナンバーを参照下さい。)に、何ヶ月か前に mitoさんとおっしゃる方からコメントを頂戴したのが私にとっては今回の「狛江ディスコ大会」の事の始まりでした。


 その後、先だっての10月2日に 当ブログのお知らせカテゴリー記事において “続 70年代ディスコサウンドで踊ろう” と題して再び公開させていただいた通り、mitoさんが指導者として活躍されている東京都狛江市青年教室が教育委員会協賛という形で、いよいよ来る11月14日(日)に狛江市民祭「ディスコ大会」本番が開催される運びとなりました!

  
 以下は、本日(11月6日)午前中に、狛江市青年教室(略して「狛プー」)メンバーの方から「原左都子エッセイ集」バックナンバー “続 70年代ディスコサウンドで踊ろう!” 宛 に頂いたコメントを、そのままコピーして公開させていただきます。




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狛プーメンバーのトトロさんが、
(狛江市)社会教育主事の岩崎さんからの依頼で、
メーリングリストに次のとおり
代理投稿してくれました。

 原さんをはじめ、皆さんのおいでを
お待ちしております。

皆さん、お元気ですか。
14日(日曜)は狛江市民まつりです。
狛プーも「70年代ディスコ」をやります。
スケジュールは以下の通りです。
終わったら飲み会も予定しています。
皆さんの参加をお待ちしています。

何かあれば、公民館の岩崎まで連絡ください。
03-3488-4411

14日(日曜)
11時~12時
 公民館視聴覚室(地下)で練習
14時
 公民館受付前集合→会場へ移動し
 ディスコタイム

終了は15時と聞いております。
 
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 先月末に「狛プー教室」の市民祭準備の“ひとこま”のみに参加させていただいた原左都子ですが、皆さんダンスに燃えていらっしゃることは肌で感じさせていただいております。


 ディスコダンスをはじめ素人が集って踊るダンスの存在意義をここで再確認した場合、おそらく音楽好きが集まってダンスという身体表現により楽しい時間を共有することにあるのでしょう。



 無類のダンス好きの原左都子も11月14日(日)の本番には是非共参加させていただきたく思っております。  70年代ディスコファンのみならず音楽ダンス好きの皆さん、どうか当日は「狛江市民祭ディスコ大会」へ足を運ばれますように!!
  
 原左都子も現地でお待ちしておりま~~~す!!  

学校における“いじめ自殺”撲滅のために

2010年11月04日 | 教育・学校
 先月10月23日に、群馬県桐生市の小6女児が自宅で自殺を図った。
 
 その自殺に関して女児の家族は学校でのいじめが原因として訴えているにもかかわらず、(いつもの事ながら)学校側は責任逃れの観点から依然その回答をうやむやにしたまま、マスメディアや世間がこの事件を忘れ去るのを待っているかのようである。

 今回の例の場合、自殺した本人が学校でのいじめの実態やそれに対する担任の対応等に関してその不満を家族に再三詳細に伝えていたようだ。 この実態に保護者である家族も心を痛めつつ、娘のいじめ脱却対策として中学進学時点での転校を視野に入れていたとの報道もある。


 この女子児童は、小4時点で愛知県より桐生市の小学校へ転校してきたらしい。5年生に進級して以降欠席が増え始め、6年生になった後自殺直前の10月に再び休みがちとなり、そして23日に自ら命を絶ってしまった…  とのいきさつであるようだ。

 女子児童がこの夏休み中にしたためて、(何故か)投函せずに手元に留めていた愛知県の友人に宛てた手紙が先だって朝日新聞紙面で報道されたのだが、その手紙によると中学校に進学する来春大阪へ転居することを心待ちにしていた様子が伺え、女児亡き後辛く重い内容の手紙である。
 死ぬほど辛い学校なんか行かなくたって後々の人生どうにでもなるのに、“いじめ”などという取るに足りない事象で自殺などせず、何とか転居までの後5ヶ月命だけは繋いでいて欲しかった思いの、何とも無念な(元々学校嫌いな)原左都子である。


 実は我が娘も小学校低学年時に公立小学校において度重なるいじめに遭っている。
 我が子の場合、生まれ持っての特殊事情を抱えている事に関しては既にバックナンバーにおいて再三綴っているが、特に小さい頃程その特質が表面化していたことは認める。 表向き静かでおっとり気味の我が娘は、おそらく公立小学校における未熟な児童達にとって“いじめ対象”として“恰好の獲物”だったことであろう。 そんな周囲の幼き児童達の行動パターンや気持ちも分からなくはないが、親としては“いじめ”など何が何でも許せるものではない。

 その頃の、母である原左都子の“いじめ対応”は凄まじいものがあった。
 学校等種々雑多な子ども達が集まる集団組織内に於いて、事情を抱えた幼き我が子が“いじめ”に遭うであろうことは元々想定内であった私は、とにかく娘との日々の会話を充実させ“いじめ”を芽から摘むことに精進したものだ。 そして実際に“いじめ”に遭ったらしき情報を娘から得た時には、その直後に学校に一報して担任と連絡を取り合ったものである。 我が家の場合、娘が入学前より学校と面談の機会を得ていた事等も幸いして、当時の担任の先生が即時対応してくれたのが幸いだった。 
 小学校3年時に転校した我が娘であるが、その後大きなないじめには遭っていない様子である。 親の立場で観察していると、本人自身にいじめに対する免疫力が出来たとも言えそうだ。 あるいは小さい時から母の私の即座の対応を見ていた娘には、もしもいじめに遭った時でも“親が助けてくれる!”との安堵感がその背後にあったと捉えられるのかもしれない。

 それでも、その後も小さないじめらしき被害には我が娘は遭遇し続けている。
 例えば小6の時に学帽や体操服がなくなったり、あるいは手提げ袋が切り裂かれる種の被害に遭っている。 その際には私も娘と共に直接学校へ出向き、一緒に喪失物を学校中探し回ったものである。 その姿を見つけた前年度までの信頼できる担任が「どうされましたか?」と声をかけて下さって「娘が体操服を失くしたと言うので、一緒に探しに来ました」と応えたものである。 ただ教員経験のある私は、既に担任を外れている先生の対処は複雑なものがあろうと察していた。  肝心の小6の担任に関しては(申し訳ないが原左都子が対等に話そうと思うレベルには程遠い)信頼に値しない人物であったこともあるのだが、娘には「おそらく私立中学へ進学予定であることを級友に妬まれている。物品被害で済むなら今は大騒ぎしない方がいい。」云々と言い聞かせて何もなかったふりをさせ、その後難無きを得て晴れて卒業に至ったものである。 
 その後も理由は不明だが、娘が私立中学生になって以降も上履きに画鋲を入れられたり、下駄箱に嫌がらせもどきの手紙を入れられたりする被害には遭っているようだ。 既に自己判断力を身に付けるべく成長している娘に対し「実害なければ無視、無視! 一切気にしないで、自分のやるべき事に集中しよう!」との私のアドバイスで、今に至って尚病気以外で欠席することもなく高校に通う娘である。


 我が家の実情はともかく、今後夢も希望も紡いでいくべくわずか12歳の小6の娘に、たかが学校での“いじめ”のせいで自殺などされたのでは、家族としてはたまったものではない。
 特にこの桐生市の事例の場合、学校でのいじめを家族が重々把握していてそれを回避するべく大阪への転居まで計画していた矢先の自殺である。 傍観者ながら、もう少し転居が早ければこの女児の命は繋がったのに…、 と悔やんでも悔やみきれない思いである。

 冒頭でも述べたが、我が子の尊い命と比べたら、義務教育とは言えども学校なんて所詮“取るに足りない”組織機関でしかあり得ないのだ。  それが証拠に、可愛い児童の一命が自殺という形で失われているにもかかわらず、あくまで学校自らの体裁を繕うことが優先されてしまい未だに学校側から“いじめ”の実態すら報告できないでいるのだ。

 「死」を視野に入れてまで苦しんでいる子どもを救えるのは、保護者である親しか存在し得ないことは明白な事実である。

 どうか保護者の皆さん、子どもの命を守り抜くのは何が何でも親である自分でしかないことを今一度肝に銘じ、普段からその観点で我が子に接して欲しい思いの原左都子である。
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トシちゃん、あなたは“ビッグ”です。

2010年11月02日 | 自己実現
 「原左都子エッセイ集」において、 トシちゃん を取り上げて論評する日が来る事を著者の私とて予想していなかったのであるが、先だって朝日新聞オピニオンページの「耕論」欄において現在の トシちゃん の興味深いオピニオンを発見したのだ!

 世の中には トシちゃん と名乗る人物は多数存在するであろうが、今回取り上げるトシちゃんとは、歌手の 田原俊彦氏 のことである。


 トシちゃんをマスメディアで見なくなってもう久しい。

 1980年に歌手としてデビューしたトシちゃんは、当時「たのきんトリオ」と称された近藤真彦氏、野村義男氏と共に、80年代の男性トップアイドルとして芸能界において揺ぎない地位を築いていた。 
 この頃の原左都子はもう既に「売れ残り」と後ろ指を指される年代に達そうとしていた時期である。 もはや男性アイドルにうつつを抜かす年頃は通り過ぎていたのであるが、そんな私の目にもブラウン管に映るトシちゃんは可愛かったものだ。  しかもトシちゃんのダンスは本物だった。歌に関しては高い評価を得ていなかったように記憶しているが、あの本格的なトシちゃんのダンスには元々ダンス好きの私も唸ったものである。

 マッチこと近藤真彦氏に関しては、80年代アイドルの地位を退いた後も今尚マスメディアを通して見かける機会がある。 彼の場合本業(?)である歌手としてもまだ活躍している傍ら、レーサーやトライアスロンの選手として自身の夢を追いかけ続けているようだ。 その姿や受け答えをメディアを通して垣間見るに、その意思の強さが本物である証拠のごとくの研ぎ澄まされた彼の内面に触れる思いがして、同じく物事に対する達成欲の強い私も刺激をもらったりもする。

 それからヨッちゃんこと、野村義男氏も印象的な人物である。 この人はアイドル絶頂期にして既にアイドルなどやっている場合ではないことを自覚したようで、自分が目指す方向に転換するべく変貌を遂げている。 その後はギタリストとして、そして音楽プロデューサーとして現在に至るまで活躍し続けているようだ。


 さて、いよいよトシちゃんに話を戻そう。

 上記のマッチとヨッちゃんに関しては、上記のごとく今尚その姿に触れる機会はある。 ところが、トシちゃんだけは久しくその姿をメディアを通じて見ることはない。
 そんな折に“世間に忘れ去られている”と思しきトシちゃんを硬派オピニオンページ「耕論」欄という表舞台に引き出した朝日新聞の何とも“粋な計らい”に拍手申し上げたい思いの原左都子である。

 ここで10月26日付朝日新聞朝刊「耕論」に掲載された 現在49歳になられている田原俊彦氏 の “マイケル亡き今、僕が一番” と題するオピニオンを以下に要約して紹介しよう。
 確かに今の僕にはヒット曲はないし、かつてのような人気もない。それを見た側が「テレビに出てないな。逆境なんだろうな。」等々思うのは勝手だが、僕自身は逆境とかどん底だとは思っていない。(小さな枠内ではあるけれど)ライブハウス等で歌もダンスも進化している。マイケル・ジャクソン亡き今、僕が一番との自信もある。 いっぺん田原俊彦をやってごらんよ。それがどのくらい楽しいか。その反面、虚構を演じ切らされ私生活では芸能リポーターに追い掛け回されるというトップアイドルの世界を突っ走ることの厳しさを(きっと君も)思い知るよ。 (そんな世界を経験した後に)33歳で独立した後は苦しいのは当然だ。その後も年に1枚CD出しているがそれが売れるはずもない。でも次は売れると僕は信じている。 今の時代はこんなだから皆苦しいのだろう。でもその感じはよく分からない。だって僕は芸能界しか知らないのだから。 僕より顔立ちが良くて歌が上手い人なんていっぱいいる。でも僕がトップアイドルになれたのは星であり運命だ。じゃあ運命としてどん底や逆境を受け入れるのではなく、それを変えるために頑張るということでしょ。


 トシちゃんに対する世間の評価として以前より、(大変失礼ながらも)“馬鹿”だとか“低脳”だから芸能界で生き残れないのだ、との酷評が存在することは実は私も心得ている。

 ただ今回のトシちゃんのオピニオンを読む限り、決してトシちゃんは馬鹿でも低脳でもない。 トシちゃんにはトシちゃんなりのポリシーがあることはこの記事から明白である。
 しかもトシちゃんはアイドルを引退後結婚して子どもを設けて以降も、自分が若かりし頃に目指した“歌と踊りの世界”のみ全うして生き延びようとしている。 加えて、厳しかったアイドル時代の処遇もよく再考した上で、独立してそれを独力で成し遂げ続けようとの意思が大いに伝わってくる。 メディアに公開されない世界でいいから自分なりに歌と踊りを“マイケル・ジャクソンレベル”に押し上げつつ、まだ歌と踊りに賭けるトシちゃんの思いが大いに伝わるオピニオンである。


 今回の記事は「原左都子エッセイ集」501本目の記事であるのだが、こんな拙いエッセイ集にも“出版”のお話をいただくことが相変わらずある。 だが、私にはその意思は今尚一切ないと言い切れる。 なぜならば計算高い私の第一の理由として、これ程ネットが蔓延っている時代によほどの事がなければ出版物など売れるはずもないと結論付けているためである。 損失を計上してまで出版に踏み切るつもりは私には毛頭ないのだ。

 そして上記のトシちゃんのオピニオンのごとく、人間とは自分が何を目指して生きていくのかをいつも捉えているべきなのである。
 一旦名が売れてしまった有名人があくまでもメディアで名を売り続けたいがために、その後もあくせくしている姿は実にみっともない。 その種の人種とは、自分の真の実力如何よりも名が売れることのみにしか自己の存在意義を見出せないのであろう。 引退宣言したにもかかわらず何故かメディアに戻ってくる著名人の輩が多い現状であるのは、自分の実力を省みる事が出来ず、“著名であるという麻薬”にがんじがらめになるが故に自己の真の存在意義を見出せない現象でしかないのだ。

 そういった意味で、メディアに出ることを志さず、マイケル・ジャクソンに匹敵するレベルの(?)歌と踊りの実力を磨きつつ水面下で精進するトシちゃんとはまさに“ビッグ”であり、原左都子はこんな人こそ応援したいのだ!
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