原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

年賀状作成、今年こそ「もう辞めよう」と思いつつ…

2017年12月21日 | 人間関係
 結局、今年も作成して昨日投函した。

 ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
 本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。


 その一つの理由は、昨年郷里の実母が高齢者施設に入居した事により、私にとっては不毛な「虚礼」でしかなかった郷里の親戚筋への年賀状を廃止しても不都合でないだろうと判断した故だ。
 まったくもって我が実母は、米国在住の姉には何ら依存せず好き勝手に暮らさせているくせに、妹の私に対しては自分のわがまま放題自分に都合よく使い放題なのだが、年賀状の虚礼に関しても例外ではなく長年私に依存して来た。
 
 母の論理によれば、一人暮らしの自分が郷里の親戚筋にお世話になっている、そのお礼を娘の私がするべきとの事のようだ。
 一度「たまには長女の姉に頼んだらどうなの?」と母を責めたことがあるのだが、「あの子は米国暮らしだ。日本に住んでいる貴女がするべき!」と主張して譲らない。 年賀状のみならず、盆暮れの挨拶菓子折り等々もすべて私の負担で実施している。
 昨年、その実母が施設へ入居したことにより、実母の親戚筋とのかかわりが希薄になっていることには間違いない。 ここは、“虚礼廃止”の潮時かと読んだ。


 そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合、もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。
 今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。) 

 いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。
 ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式を採らずとて、電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。

 ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか! 


 そうこう考え、亭主の年賀状作成のみ優先してパソコンで実施した後、しばらくの間、我が心理は自分の年賀状作成は廃止の方向に傾いていた。 
 (参考だが、亭主のたっての願いにより亭主の年賀状作成は毎年我がパソコンで実施してやっている。 なまくら亭主曰く、パソコンでの住所録作成が面倒臭いらしい。 )


 何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。
 おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。
 要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!

 結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの理論により成り立っていることに気付かされる。


 いえいえ、決してそうとも言えない側面もあろう。

 たかがパソコン作成の年賀状とは言えども、一筆自筆で添えられた文言に “感動”や“意外性”や“驚き”を頂くこともある。 これぞ現在の年賀状が果たす醍醐味ともいえよう。
 
 それにあやかりたい思いで、今年の我が年賀状を“自筆入り”で作成し昨日投函したのだが、果たして我が年賀状が相手にインパクトを与えられるのやらどうなのやら??

認知症状が加速する義母から「私ってボケてるの?」と問われ…

2017年12月19日 | 医学・医療・介護
 一昨日の事だが高齢者有料介護施設に入居中の義母から電話が入り、上記表題の質問を受けた。

 これ、介護保証人の立場として一番答えに困惑する問いである。
 まさかまかり間違っても、「その通りです! 貴方がボケているせいで日々迷惑しているんですよ!」と即答する程の愚か者ではないとの自負はある。
 かと言って、「そんなことはないですよ」とごまかして逃げるのも避けたい。

 そんなこんなで、一体私が如何なる回答を義母に提示したのか?!?
 それは後に述べよう。


 義母の認知症状悪化は今に始まった事ではないが、この秋口から施設内で“金銭トラブル”を繰り返し引き起こして施設に迷惑を掛け、困惑させられている。
 やれ、財布をなくした。 通帳を紛失した。 タクシーから降りた後、鞄がなくなった。 誰かが部屋に入り込んでお金を持ち去っている。 
 日々数回、義母本人からこの種の電話が我が家に掛かって来る。 その対応のために施設のケアマネージャー氏と連絡を取り合う事態も続く。

 我々保証人の対策として、まず義母に手渡してあった“小遣い用”の銀行通帳を回収した。(その他義母所有不動産貸付等々財産関係の諸通帳は、保証人となった時点で我が家にて保管管理しているが。)
 そして義母には小遣い銭として月10万円ずつ、現金を施設へ持参して手渡す事とした。
 ところが、最初にその現金を持参したところ、「お金を渡されても困る。この部屋に置いておくとどうせ盗られるから、持って帰ってちょうだい!」  亭主が応えて「そう言うけど、毎日買い物に行ってその支払いをどうするの? そもそも盗られたんじゃなくて、自分で何処に置いたか分からないだけだよ。」
 何分認知症者相手の会話故に話が成り立たず堂々巡りなのだが、結論としては、義母の意向を尊重して3万円だけ置いて来る事とした。

 その後も案の定、その3万円も盗られた、どうのこうのの繰り返しだ。 我が推測ではおそらく既に自分で使ったのだろう。それすら忘れ去っているのが悲しいかな義母の実情だ。
 この段階で私は義母の“金銭トラブル”問題に関しては「担当」から降り、亭主に一任する事とした。 何分、義母とは赤の他人との関係に於いて、こと“金銭問題”からは身を引くべきと考えた故だ。

 それから3カ月間程、亭主の“忍耐力”を褒めてやりたい程に、我が亭主は義母の“金銭トラブル”と真っ向から闘った!  その頑張りにもかかわらず、義母の金銭問題は未だ何らの解決にも及んでいないのだが…


 そして、一昨日の事だ。
 義母から電話が掛かって来て、亭主と“金銭トラブル”に関していつものように一通り話をした後、「どうしても〇子さん(私の事)と電話を替わって欲しい」と訴え出たようだ。
 亭主が義母に対し「金銭問題に関してはボクが全責任を持つから、同じ事を〇子に言う必要はないよ。」と一旦拒否してくれたそうだが、義母のたっての願いで私が電話に出た。

 そうしたところ、義母から出た話題に意外性があって意表を突かれたのだが。
 「あのね、〇ちゃん(娘、義母にとっては孫の事)の卒業式だったの? 3月の日付けの写真が出てきたんだけど、私まだお祝いをしていないわ。 それから〇ちゃんの他の着物の写真もあるのだけど、こんなの初めて見るんだけど、どうして私に教えてくれないの!?」
 参考だが、両者ともフォトブックだが、卒業写真は2016.03、成人式前撮り写真は2013.03に撮影・作成して、その直後に施設の義母に持参したものだ。 しかも、成人式も卒業式も義母同席の上、義母の負担で盛大にお祝い会を実施しているし、成人式の振袖代金も全額義母からのお祝い金より拠出している。

 ただ義母の認知症状を痛い程理解している私は、次のように返答した。
 「お義母さん、両方とも〇〇(娘の事)が綺麗に撮れてるでしょ! 自慢の写真集なんですよ。 お義母さんからは既に沢山お祝い金を頂いていますので、安心して下さい。」
 応えて義母曰く、「ウソよ。 こんな写真初めて見たわ。 それにしても、確かに〇ちゃんが綺麗ね! こんなに綺麗になって本当によかったわ。」

 電話口で義母が続けて、「〇子さん、最近私ね、お金や財布を盗られて困っているの。(うん、十分知ってるけど。) それを誰に話しても、皆が盗られたんじゃなくて私が置き場所を忘れたか、無くしたと言うのよ。 そうじゃなくて本当に盗られたんだけど、なんだか怖くてね。 もしも、本当に私が無くしたり忘れているとしたら、私がボケてるという事でしょ? 〇子さんはどう思う?」

 (う~~~ん、こりゃ困ったなあ、と思いつつ)、「もしかしたら皆さんが言う通り、お義母さんが無くしたか忘れた恐れもあるかもしれませんが、気になさらなくていいんじゃないですか? お年を召すと、そういうこともあるようですよ。」と返答する私。
 すかさず義母が「〇子さんもそう思うということは、私ボケてるのね? 正直に言って。もしも、私がボケているがためにおかしな行動をしているのなら、そう言って」
 (それも難しいなあ。)と相変わらず困りつつ…  「分かりました! そうしましょう。私が気付いた事があったらお義母さんに言いましょう。」
 その後義母が電話口で繰り返すには、「そうしてね。今度からそうしてね。」
 何だか結末にならない結末になったが、とりあえず義母はこれを繰り返して電話を切ってくれた。

 あれから、2日が経過して。
 秋口から日々数回掛かって来ていた義母の電話が、あの日から途絶えている。
 根本的問題解決は何ら導けていないが、義母がおとなしくなっているのは事実だ。 
 このまま、年末を過ごしてくれると良いのだが…

見知らぬ他人を非難して感謝を期待する勘違い高齢男

2017年12月17日 | 人間関係
 と表題に掲げつつ、この私も当「原左都子エッセイ集」にて同様の “勘違い言動” を繰り返しているのであろう事態を、とりあえず反省しきりだ。
 まさに “人の振り見て我が振り直せ” とはこの事だと、今現在、穴があったら入りたい心境でもある。

 ただし、私の場合は単にネット上にてオピニオンの形で “特に世に名が売れている著名人相手に”「非難」をしているだけの話で、決して非難した相手に「私に感謝せよ!」とはただの一度も言っていないよ~~。 


 早速、朝日新聞本日2017.12.16付 “悩みのるつぼ” より、68歳男性による「感謝される注意の仕方は?」と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。

 ルールやマナーが気になる68歳のおじさんです。
 道路の横を走って来る自転車に「自転車は左側ですよ」、スマホの画面を見つめる歩行者に「歩きスマホはやめましょう」、信号無視の人に「赤信号ですよ」、禁煙場所でたばこを吸う人に「ここは禁煙ですよ」……。 街に出ると様々なルール違反が目につき、こんなことを口にして注意している。 
 注意した人達から、「ごめんなさい」「ありがとう、気を付けます」などと返されるのはほんの少し。 「うるさいなあ」「私の勝手でしょ」はまだしも普通の反応で、「俺のルールでは自転車は右側通行なんだよ」「車がきてなきゃ、赤信号で渡っていいんだよ」などと言い返されることもある。
 妻や友人からは、「そのうち殴られたり、刺されたりする。危ないからやめろ」と言われている。 一体どうすればいいのか。
 「ごめんなさい」「ありがとう」と言ってもらえるような注意の仕方があれば教えて欲しい。 それとも妻たちが言うように、注意をするのはやめた方がいいのか。 一番よいのは、私が口を出すまでもなく、皆がルールとマナーを守ってくれることとは思うが。
 (以上、朝日新聞本日の“悩みのるつぼ”より相談内容を要約引用したもの。)


 一旦、私見に入ろう。

 このおじいちゃん(ご本人は“おじさん”と自称されているようだが)、私の視線からは精神面で十分に “おじいちゃん” 域に入られている人物であろう。 
 そして私の想像だが、この人物は現役時代に安穏と小学校教員でもされていたのであろうか???
 元教員だとして、もしも中高現場に勤務していれば、その年代の子供達の反発力や歪み力の凄まじさを既に十分に実感出来ているはずであり、こんな無謀な「勘違い指導」を外部で実行出来るすべもないだろう。

 しかも可笑しいことに、68歳にもなってそれを実行したご自身を肯定的に捉えておられる。 
 自分の「指導」を、された側が「感謝」するべきと!??
 この実態を考察すると、このおじいちゃんが元教育者だったとの我が推測も否定されようか? もしも教育者であられたのならば自身への感謝を求めるより率先して、その世代の若者達の未来への発展を望むべき言動に出るはずだ。

 それでも、“自己肯定評価”との見返りを第一義に捉えているらしき“勘違い”おじいちゃんは、有り難くも周囲の人間環境に恵まれている様子だ。
 奥方や友人たちが、「そのうち殴られたり刺されたりするから危ないからやめよ」とアドバイスしている事実に助けられる。
 私にとって一番腹立たしく、かつせせら笑いたいのは、この相談者が結論として「一番いいのは私が口を出すまでもなく、皆がルールとマナーを守ってくれる事と思う」と、あくまでも自身がさも世を支配している権力者であるがごとく勘違いして豪語している点だ。


 ここで、今回の“悩みのるつぼ” 回答者であられる 評論家 岡田斗司夫氏の回答内容のごく一部を紹介しよう。

 なぜ妻の助言を聞き入れないのか? 妻から「危ないからやめてくれ」と言われて、あなたが妻に感謝したり、自分のこれまでの言動を謝ったりしないのか?  (途中大幅略)
 まず第一は自分のその感覚を反省し、「どうすれば(下手に)プライドの高い私は、妻の助言に感謝して従うことができるのか?」それを問うことだ。
 朝日新聞に相談する必要はない。 あなたの悩みの解決のヒントはすべてその素晴らしい奥方の助言に隠れているはずだ。
 (以上、“悩みのるつぼ” 回答者のご意見のごく一部を引用したもの。)


 最後に、原左都子の結論で締めくくろう。

 何だが、哀れで虚しい68歳男性からの悩み相談だったと結論付けられよう。
 ご自身が日々良かれと実施している行動が「世のため」になると信じて疑っていない、現在自分がおかれている侘しい現状に思いが及ばないその感覚。
 それにプラスの反応がくればとにかく嬉しいが、そうでないなら身勝手に議論を広げ「世のルールやマナーがなっていない」との自己中心的回答を正当化するとの恥ずかしい結末。
 
 高齢者とて他者からの好意的反応にばかり依存するのではなく、もっと自らが主体性を持って生きねばならないとのサインを送ってくれた相談内容と、私も再び受け止めた。

 それよりも何よりも、まさに自らの命を守るためにも、外で見知らぬ他人に深い思慮もなく無責任に要らぬお節介を焼く事態は慎むべく移ろいで久しい現代の時代背景であろう。

トータル閲覧数が300万を越えました!

2017年12月16日 | 自己実現
 (写真は、昨日2017.12.15 自宅にて。 窓ガラスに映った私を室内から撮影したため、室内外の風景が重なり不思議な写真になりました。 ジムトレーニングスタイルです。 表題とはさほど関係がありません。)


 12月に入った頃から、年内には「原左都子エッセイ集」の閲覧数が300万を越えるかなあ?? と楽しみにしていた。
 そうしたところ、本日その300万越えを達成だ! 

 ブログ開設以来、10年3ヶ月。
 この年月を経てトータル閲覧数300万の実績とは、おそらく同じく長年続行されている皆様のブログと比較して少ない数値であろう。

 そもそも私の場合、訪問者数や閲覧数にさほどこだわっていないのが一番の原因と分析している。 
 プロフィール欄に「相互扶助目的の読者登録はご遠慮下さい」なる文言を平然と記載しているのも、訪問者数を減少させている理由かもしれない。


 それでも10年以上の年月に渡り、「原左都子エッセイ集」は少数ながらも良質読者の皆様に恵まれ続けていることを自負している。
 私にとってはそれで必要十分だし、一番嬉しい事だ。 

 閲覧数が500万、更には1000万を超過するのはいつのことだろう。
 我が命があるうちに、1000万に届くだろうか??  (10年で300万ということは、コンスタントにエッセイを公開し続ければ、80代には1000万到達か!??)

 いずれにせよ、我がオピニオンが内面から湧き出て来る限り「原左都子エッセイ集」は永遠不滅である事には間違いない。



 せっかく冒頭に昨日撮影した写真を公開したため、後半は話題を変えてその解説に入ろう。

 昨日、トレーニングジムより帰宅した直後に我が家の室内で自撮りした全身像だ。
 ジムのロッカーが混んでいたり着替えが面倒だったりするため、冬場は自宅からこの格好の上にコートを羽織り、マフラーをしてトレーニングジムまで出かけている。 

 写真ではよく見えないが、シャツが結構派手目の緑色だ。 昨日はこれに真っ赤の小タオルを右腕に巻いた姿でトレーニングに励んだ。
 その姿を見たジム仲間が、「クリスマスバージョンを狙ったスタイルですね!」と声を掛けてくれた。
 咄嗟に「まったく意識してなかったです」と応える程に、我が脳内にはまさにクリスマスの“ク”の字も無かったのだが。

 こうやって写真を映してみると、窓から見える外観はクリスマスバージョンだ。 我が家からは西新宿超高層ビル群も展望出来るのだが、確かに最近イルミネーションが派手になっている観がある。

 ついでに少し自慢させて頂くと、日頃のランニング練習とジムにての筋トレ効果か、我が細腕の上腕部にきちんと筋肉がついているでしょ!?? 

 論点があちこち飛んだ支離滅裂エッセイにて大変失礼致しました。  

「党首討論ゼロ」実態で我が国の民主主義は成り立つのか!?

2017年12月14日 | 時事論評
 今年は、国会で党首討論が一度も行われなかったらしい。
 2000年に正式にこの制度が導入されて以来、初めての事だそうである。


 早速、この話題に関してネットより毎日新聞情報を以下に紹介しよう。

 国会の党首討論が2000年の正式導入後、初めて年間に1回も開かれない見通しになった。
 12年末の安倍政権発足後は軒並み低調。 45分という限られた時間で論戦がかみ合わないことが多いため、最近は攻める側の野党が敬遠する傾向があり、国会活性化へ見直しを求める声も出ている。
 党首討論は英国議会を参考に、国会改革の目玉として始まった。 05年までは年に5〜8回開かれていたが、13年以降は年1、2回に減少。「月1回開催」という14年5月の与野党の申し合わせは空証文にとどまっている。
 討論には「衆参いずれかで10人以上」を満たす野党会派が参加でき、現在資格があるのは立憲民主党、希望の党、無所属の会、共産党、日本維新の会、民進党の計6会派。 全党首が討論に立てば持ち時間は減り、安倍晋三首相と突っ込んだ論戦をするのは難しい。
 しかも、首相が他の委員会や本会議に出席する週は党首討論を開かないのが慣例。 このため野党には、党首討論で不完全燃焼に終わるぐらいなら、予算委員会などで有権者にアピールしたいという思いが強い。 共産党の小池晃書記局長は「45分は短すぎる。十分な討論を保証する改革が必要だ」と提起する。
 もともと党首討論には与野党第1党が「党首力」を競う狙いがあった。 しかし、野党が多党化した現状では、野党側の「主役」が見当たらない。 6会派がばらばらなら立憲民主党が野党第1党だが、所属議員が民進党籍を持つ無所属の会と、参院会派の民進党が組めば立憲を上回る。
 与党からは「首相が長時間縛られる予算委より党首討論の方がいい」という本音も漏れる。
 某東京大大学院教授(政治学)は以下のように話す。 党首討論は2大政党を目指す制度改正の一環で導入された。 諸外国と比べて日本は首相の国会出席時間が長く、与党はさらなる負担になりかねない党首討論を敬遠しがちだ。 野党の追及を避けたい思惑も働くだろう。 しかし、党首討論には、各党のリーダーが大所高所から国政について議論し、「党首力」を国民に分かりやすく示す重要な役割がある。政党が増えた野党にとって45分は短いかもしれないが、融通し合うなど工夫はできる。 与野党は党首討論の活性化に努力すべきだ。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 引き続き、朝日新聞本日(2017.12.14)付社説より、「党首討論ゼロ あり方見直す契機に」の記述の一部を以下に紹介しよう。

 与党は、首相の欠点を防ぐために党首討論を拒むことを理由に持ち出す。 一方、野党は45分間の党首討論より長く首相に質問できる委員会を要求しがちだ。 今年は森友・加計問題で安倍政権を追及したい野党が、党首討論ではなく委員会審議を求める場面が目立った。 
 党首討論が実現しても、内容が物足りないこともある。 特に、安倍首相は質問をはぐらかしたり、持論を延々と述べたりすることが多い。 議論がかみ合わない大きな理由である。


 一旦私見だが。

 いやはや野党の度重なる分裂再編劇により、確かに現在は小規模野党が乱立するとのぶがいない実態だ。 そうすると、討論出席資格がある全野党党首が討論に立てば各党の持ち時間が減り、安倍首相と突っ込んだ論戦をするのは困難との野党側の言い分も分からないではない。
 
 更には、朝日新聞記述に全く同感で笑わされるが。
 あの安倍首相の国会答弁、何とかならないものか! と私も国会中継を垣間見てはいつもイライラさせられている。 野党よりAを問われているのに勝手にBに関する答弁(というよりも安倍氏の独りよがりの持論)に話題をすり替え、時間潰しをし始める。 野党よりヤジが飛び交うのもお構いなし、途中で野党側が論議を中断するべく時計をストップさせねばならない程に、安倍氏の独断演説が続行する。
 この現象を、与党側も“首相の欠点”と捉えている事実も笑えるが、ならば、それを防ぐために党首討論を拒むのではなく、その前に与党の長老どもが安倍氏がまともな答弁を出来るべく指導せよ! と国民としては言いたくもなるものだ。
 

 引き続き、上記朝日新聞「社説」から引用しよう。

 まず、首相が本会議や委員会に出る週には党首討論を開かないとの申し合わせを撤廃しよう。
 自民、民主等4党は3年前、党首討論の月1回開催を含む国会改革案で合意したが、最低でもこれは実行するべきだ。
 時間も延ばす必要がある。 野党が多党化した今、1党あたりの割り当ては長くても10分程しかない計算だ。 これでは中身のある議論など望めない。
 開催回数を増やすという前提で、1回ごとに登壇する野党党首の人数を絞る方策もある。 各党が譲り合い、それなりの時間を確保し合うのだ。
 議論をより深めるためには、事前にテーマを決めておくのも一案だろう。
 党首同士が政治家としての力量をかけて真剣勝負を繰り広げる。 「言論の府」の名にふさわしい党首討論が見たい。


 最後に私論でまとめよう。

 ただなあ。
 野党側としても、与党のあの首相相手じゃなあ。
 何を尋ねても、いつまで経っても、くだらない持論を繰り返されたんじゃ、党首答弁の意味もなく無駄に時間が過ぎ去るとの野党側の虚しい思いにも同感だ。
 
 ただし、野党側にも大いなる問題ありだろう。
 (私は枝野氏率いる「立憲民主党」支持派であることを断った上で)、他の零細野党どもは野党の役割が少しでも担えていると自負できる立場か? (共産党が独自に頑張っている感覚は無きにしも非ずだが。)
 特に10月の選挙後、野党の残骸と落ちぶれたと表現できそうな現「民進党」の今後の行方に関しての意見だが。
 その「民進党」が有り難くも抱えているらしき国民の血税による膨大な金額の“政党助成金”の存在の美味しさにつられ居残る党員が多数との情報もある。 党員がその態度故、今現在尚今後の一野党としての行方の程があやふやとの情報も存在するようだが。 
 
 一国民としては、野党の低レベルのくだらない愚劇など見たくもないのも本音だ。

 朝日新聞社説の結論通り、与野党党首同士が政治家としての力量をかけて真剣勝負を繰り広げる「言論の府」の名にふさわしい党首討論が見たい!  のが我が希望でもある。