結局、今年も作成して昨日投函した。
ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。
その一つの理由は、昨年郷里の実母が高齢者施設に入居した事により、私にとっては不毛な「虚礼」でしかなかった郷里の親戚筋への年賀状を廃止しても不都合でないだろうと判断した故だ。
まったくもって我が実母は、米国在住の姉には何ら依存せず好き勝手に暮らさせているくせに、妹の私に対しては自分のわがまま放題自分に都合よく使い放題なのだが、年賀状の虚礼に関しても例外ではなく長年私に依存して来た。
母の論理によれば、一人暮らしの自分が郷里の親戚筋にお世話になっている、そのお礼を娘の私がするべきとの事のようだ。
一度「たまには長女の姉に頼んだらどうなの?」と母を責めたことがあるのだが、「あの子は米国暮らしだ。日本に住んでいる貴女がするべき!」と主張して譲らない。 年賀状のみならず、盆暮れの挨拶菓子折り等々もすべて私の負担で実施している。
昨年、その実母が施設へ入居したことにより、実母の親戚筋とのかかわりが希薄になっていることには間違いない。 ここは、“虚礼廃止”の潮時かと読んだ。
そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合、もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。
今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。)
いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。
ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式を採らずとて、電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。
ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか!
そうこう考え、亭主の年賀状作成のみ優先してパソコンで実施した後、しばらくの間、我が心理は自分の年賀状作成は廃止の方向に傾いていた。
(参考だが、亭主のたっての願いにより亭主の年賀状作成は毎年我がパソコンで実施してやっている。 なまくら亭主曰く、パソコンでの住所録作成が面倒臭いらしい。 )
何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。
おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。
要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!
結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの理論により成り立っていることに気付かされる。
いえいえ、決してそうとも言えない側面もあろう。
たかがパソコン作成の年賀状とは言えども、一筆自筆で添えられた文言に “感動”や“意外性”や“驚き”を頂くこともある。 これぞ現在の年賀状が果たす醍醐味ともいえよう。
それにあやかりたい思いで、今年の我が年賀状を“自筆入り”で作成し昨日投函したのだが、果たして我が年賀状が相手にインパクトを与えられるのやらどうなのやら??
ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。
その一つの理由は、昨年郷里の実母が高齢者施設に入居した事により、私にとっては不毛な「虚礼」でしかなかった郷里の親戚筋への年賀状を廃止しても不都合でないだろうと判断した故だ。
まったくもって我が実母は、米国在住の姉には何ら依存せず好き勝手に暮らさせているくせに、妹の私に対しては自分のわがまま放題自分に都合よく使い放題なのだが、年賀状の虚礼に関しても例外ではなく長年私に依存して来た。
母の論理によれば、一人暮らしの自分が郷里の親戚筋にお世話になっている、そのお礼を娘の私がするべきとの事のようだ。
一度「たまには長女の姉に頼んだらどうなの?」と母を責めたことがあるのだが、「あの子は米国暮らしだ。日本に住んでいる貴女がするべき!」と主張して譲らない。 年賀状のみならず、盆暮れの挨拶菓子折り等々もすべて私の負担で実施している。
昨年、その実母が施設へ入居したことにより、実母の親戚筋とのかかわりが希薄になっていることには間違いない。 ここは、“虚礼廃止”の潮時かと読んだ。
そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合、もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。
今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。)
いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。
ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式を採らずとて、電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。
ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか!
そうこう考え、亭主の年賀状作成のみ優先してパソコンで実施した後、しばらくの間、我が心理は自分の年賀状作成は廃止の方向に傾いていた。
(参考だが、亭主のたっての願いにより亭主の年賀状作成は毎年我がパソコンで実施してやっている。 なまくら亭主曰く、パソコンでの住所録作成が面倒臭いらしい。 )
何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。
おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。
要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!
結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの理論により成り立っていることに気付かされる。
いえいえ、決してそうとも言えない側面もあろう。
たかがパソコン作成の年賀状とは言えども、一筆自筆で添えられた文言に “感動”や“意外性”や“驚き”を頂くこともある。 これぞ現在の年賀状が果たす醍醐味ともいえよう。
それにあやかりたい思いで、今年の我が年賀状を“自筆入り”で作成し昨日投函したのだが、果たして我が年賀状が相手にインパクトを与えられるのやらどうなのやら??