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【特集/台湾二二八事件③】日本精神と二二八事件

2022-02-27 16:06:55 | 特集/台湾二二八事件

本ブログに昨年5回に分けて掲載された下高原洋さんの「私の台湾物語」の第4回目「日本精神と二二八事件」を再掲載します。

【特集/台湾二二八事件③】

日本精神と二二八事件

下高原 洋(漁業コンサルタント)

 

台湾人に教えられた「日本精神」

 何度も訪台して黄志明さんと会うたびに、「日本の戦争はアジアの国々との戦いではなく、当時、これらの国で搾取を目的とした植民地政策をしていた欧米の国々との戦いであった」「アジア人たちに独立の勇気を与えた」「敗戦後も再び植民地化しようとする欧米に対して、多くの日本兵が現地に残って、独立のために共に戦った」などと聞かされることになる。
「私は悔しい」と、黄志明さんは腹立たしい表情で私に言う。「わずか数千人の小さな島国も欧米からの独立を果たした。だが、台湾は中国国民党の占領下に置かれ、いまだに独立国になっていないじゃないか!」 かつての日本と比較したのか、黄さんは台湾の現状に不満を隠さなかった。こう言い終わった黄さんの目には涙が溢れている。そして、黄さん自身に降りかかった出来事を思い起こすかのように遠くを見つめた。この日のことを、私は今でも忘れられない。
 それから数年間、黄さんとの公私にわたる交流が続く。まさに家族同様に接してくれたものである。「古き良き時代の日本」を私は台湾で体感したのかも知れない。
 黄さんの口癖は「日本精神(リップンチェンシン)」である。最初、私には何のことか皆目わからなかった。さっそく調べてみると、『台湾人と日本精神』(蔡焜燦著、小学館文庫)と『台湾紀行』(司馬遼太郎)の2冊の本を見つけた。蔡さんは司馬氏が台湾を取材した際、案内人を務めた人物だ。本の中では「老台北」として登場したことでも知られ、後に旭日双光章を受賞している。

 

▲『台湾人と日本精神』(蔡焜燦著、小学館文庫)

 

 結論から先に言うと、日本精神とは武士道精神のことである。①規律、②清潔、③正義感・義侠心、④冒険―の4つが重要な要素であること、そして日本精神は台湾人の日本人に対する評価でもあるのだ。
 残念なことに、今の日本及び日本人には、「日本精神」なぞ、どこを探して見当たらない。恥ずかしくなるほどである。規律正しいとか清潔(心身)なことは、確かにあるだろう。
 しかし、正義感と冒険心はどこへ消えてしまったのか。「強き(悪人)をくじき、弱き(善人)を助ける」という構図は、劇画や子供向けのテレビで描かれているが、教育の中からすっぽりと抜け落ちているのが現実である。
 その点、アメリカは違う。例えば、アメリカ国民が拉致などされたら、たった一人の国民のために100人の米兵が命を落とすことになっても、戦って奪還する。単純に計算したら、こんな間尺に合わないことはないだろう。しかも合衆国憲法にも規定されていないのである。
 それでもアメリカは断固として行動する。まさしく「国が国であることの証」ではないだろうか。この精神が国に対する国民の信頼なのかもしれない。

去勢された戦後日本

 翻って、わが日本はどうか。
 1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵攻した。それをきっかけに、国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、翌年1月17日にイラクを空爆して始まったのが第1次湾岸戦争である。

 このとき、日本は戦いに参加しない代わりにカネを出した。日本は正義のために他国の兵士と共に戦わず、「カネで他国の兵士の命を買った」と非難されて文句は言えない。日本人を拉致した北朝鮮にも、同じような対応である。
「お金を払うので、拉致した人を返してください」と。こんな姿勢では、相手が交渉に応ずる訳がない。「領海、領空を侵犯されても憲法が有るので攻撃はしません」「遺憾です」「抗議します」を繰り返すだけでは、鼻でせせら笑われるだけである。
 では、虐めの風潮が蔓延るのはなぜか。
 まず負けることを知っても戦おうとする「冒険心」を「暴力反対」の一言で片づけてしまう風潮がある。さらに虐めの行為を座して助けようとしない。正義感や義侠心が欠けているのか。それとも、頭ではわかっているが、「去勢された飼い猫」のように行動が伴わないのだろうか。
 そう言う私も不甲斐ない日本人の一人だった。「日本精神」を持った黄さんのような台湾人が多くいることに驚いたのは言うまでもない。同時に、立派だった過去の日本人に会えたような気がした。ところが、ある日、黄さんに言われたことがある。
「私は日本人だ。そう思って誇りを持って生きてきた。しかし、日本は二度も私を、台湾を捨てたんだ」
 最初、私は何のことかわからなかったので、きょとんとしていると、黄さんが畳みかけるように続けた。日本人である私に訴えかけるように。
「50年もの間、『お前たちは日本人だ』と言われてきたのに、1945年に無条件降伏を受託すると、我々を台湾に置き去りにして捨てた。親に捨てられた子供を養子にしたのに、日本の都合でまた捨てられたみたいだ。敗戦で日本も大変だったと思う。しかし、私のことを日本人だと思うのなら、なぜ私たちを日本に連れて帰ってくれなかったのか!」
 そう言われた私は、大きなショックを受けた。とても恥ずかしく思ったと同時にも新たな贖罪の気持ちで一杯になったものである。そんな私に黄さんはダメ押しをするかのように言った。
「どうして日本は国民党の暴挙から台湾人を助けてくれなかったのか!」
 黄さんの叫びのような言葉が、なぜか耳から離れなかった。「国民党の暴挙」とは、一体何なのか。今から思うと恥ずかしいことだが、その当時の私には台湾の置かれた立場を理解する知識がなかったのだ。しかし、それから何度か台湾を訪れるうちに、私も国民党の「闇」を間近に知ることになる。

台湾老婦人と二二八事件
 
 十数年前の話である。
 台湾出張に向かう飛行機の中で、台湾人の老婦人と座席が隣同士になった。飛行機に乗ると思わぬ人と知り合いになるものである。飛行機が離陸してしばらくすると、その老婦人から声を掛けられた。
「あなた、日本人?」
「はい、そうです」
「まあ、あなた、大きいから台湾人かと思ったわ」
 学生時代にアメラグをやっていた関係で、身体だけは普通の日本人よりも大きい。台湾人の目には、日本人には見えなかったのだろう。
 日本人と違って、台湾人は話をすることが好きである。それにあまり人見知りしない。大阪人と言うか、関西人と共通点がありそうだ。案の定、彼女は矢継ぎ早に質問を始めた。
「それで、台湾にはお仕事?」
「はい、鮪船の仕事をしています」
 そう答えたついでに、私は日カツ連の仕事を説明した。
「日本の鮪船は大きなビジネスでしょ?」
「でも今は違います。台湾の鮪船の漁獲量が世界一です」
「あら、台湾も立派になったのね」
 そんな他愛も無い話から彼女との会話が始まった。
 様々な話が続く中、老婦人が突然、私に尋ねた。
「あなた、二二八事件を知ってる?」
 私は二二六事件の間違いではと思った。そう、昭和11(1936)年2月26日から同月29日にかけて、皇道派の陸軍青年将校らが下士官と兵約1500人を率いて首相官邸や警察庁、陸軍省、参謀本部などを占拠し、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斉藤実らの政府要人を暗殺したクーデター未遂事件である。
 そう思ったくらい、私は二二八事件をまったく知らなかったのだ。それほど私は台湾に関して無知だった。今から思うと、恥ずかしい限りである。二二八事件について聞かれたものの、答えに窮している私に、老婦人が日本に行った目的を話し始めた。
「市ヶ谷の自衛隊で二二八事件の講演に招待された帰りなのよ。私が書いた本の著者として招待されたのよ。今度、もっと若い人にも知ってもらうため、漫画でも出版するの」
 二二八事件とは何なのかも知らない私との会話であったが、3時間半という飛行時間があっという間に過ぎ去った。
 老婦人こと、阮美姝(げん・みす)さんと私の乗った飛行機が台北の松山空港に到着した。彼女の手荷物をイミグレーションカウンターまで運ぶのを手伝う。彼女は別れ際、こう言った
「そうだ、あなた、時間があったら、台北の二二八記念館に来て下さいな」

▲二二八記念館

▲記念館には犠牲者の顔写真が

 

身近にいた二二八事件の被害者

 阮美妹さんと別れたその日から「二二八事件とは何なのか」と気になって仕方がなかった。このままだと、消化不良を起こしそうである。
 その数日後、私は仕事で黄さんと会うため、台北から高雄に移動した。高雄では、いつものように黄さんと食事を共にしたのだが、気になっていたことを黄さんに尋ねてみることに。
「あのぉ、仕事の話じゃないんですが、黄さん、二二八事件って知っていますか?」 
 すると一瞬、黄さんの顔が強張った。それまで笑みを絶やさなかった黄さんに、一体何が起きたのか。しばらく沈黙した後、黄さんは口から絞り出すように話し始めた。
「私の親父は、親父はねえ、国民党に殺されたようなものなんだよ!」
 黄さんには珍しく声を荒げている。
 えーっ、どういうことなのか。 
 黄さんの話がつづく。私の記憶が曖昧で申し訳ないが、黄さんの父親は戦後、時計屋か靴屋のどちらかを経営していたという。
 ある日、店に大陸から来た国民党の兵士たちがやって来た。そして店に置いてあった商品を金も払わず持ち去ろうとしたので、黄さんの父親と口論になったらしい。すると、逆切れした兵士たちが殴る蹴るの暴行を働き始めた。銃の台尻で殴る兵士もいたというから酷い。そのときに受けた暴行が原因で、父親は2カ月ほどして亡くなったそうである。
 父親が暴行されているとき、黄さんの長兄がたまたま店を留守にしていた。近所の人からそのことを知った長兄は、すぐに憲兵隊に抗議しに出掛けたのだが……。
 次の日もまた次の日も長兄は家に戻って来ない。1週間ほど経った頃、憲兵隊から「お前の兄を釈放するから、迎えに来い!」という連絡があった。黄さんが長兄を迎えに行くと、そこには変わり果てた長兄の姿が。激しく拷問されたに違いない。
 その後、長兄は障害を抱える身となった。弟の黄さんが一生面倒をみたそうである。そういう黄さん自身も何度も憲兵隊に呼び出され、激しい体罰と尋問を受けたという。それほど当時の台湾は国民党による恐怖政治が支配していた。
 戦後の平和なニッポンで生まれ育った私である。そんな想像もできない壮絶な過去が黄さんにあったのだ。その話を聞いた後、私は黄さんの顔を直視できなかった。
 こうした国民党の兵士たちと一般台湾民衆とのギクシャクした関係が、のちの二二八事件につながったのは言うまでもない。

約2万人の日本人が国民党に殺された

 では、台湾で起こった二二八事件とは、何だったのか。
 この二二八事件を一言で説明すると、国民党の大陸人(外省人)による台湾支配に不満を抱く台湾人(本省人)の反乱事件である。また、それを圧倒的な警察・軍事力で対処した国民党による台湾人弾圧事件でもあった。すでにご存じの人も多いと思うが、私なりに調べたことを紹介したい。 
 日本の敗戦後、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石の国民党との内戦が再発する。しかし、劣勢になった国民党軍は敗走をつづけ、日本が去った台湾に逃げ込む。そして戦勝国を御旗に立て、台湾を占拠した。まるで占領軍のように。
 当初、同胞が来ると期待を感じていた台湾人だったが、鍋や釜を背負った、まるで敗残兵のような国民党の兵士たちの姿を見て、「えーっ、こんな兵隊がいたのか」と開いた口がふさがらなかった。それも無理はない。規律正しい日本の将兵たちとはまるで違っていたからである。
 しかも汚職と略奪や強姦、暴行が横行した。「同胞」への淡い期待は一瞬で打ち砕かれたのである。台湾人は当時のことを「犬が去って、豚がやって来た」と表現した。どういう意味なのか。犬は規律を守って従順で役に立つ。しかし、一方の豚はというと、貪り食うだけで役に立たない。もちろん、前者が日本人で、後者が中国人である。なんとも言いえて妙ではないか。
 さて、黄さんが経験したような国民党兵士による暴挙が横行する中、台湾人達の不満も絶頂に達しつつあった。すでに多くの出版物やネットで紹介されているが、ここでもう一度ざっと触れておこう。
 二二八事件の発端はこうである。
 1947年2月27日、本省人の老婆が台北市でタバコを闇販売していた。闇市の取り締まりをしていた役人が暴行を加える事件が起きた。これに抗議に集まった市民に憲兵隊が発砲し、1人の死者を出す。
 これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることになる。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

▲二二八事件で路上に転がる死体


 国民党政府は二二八事件の後、本省人の有識者やエリート(東大・京大卒等)を徹底的に弾圧する。ちなみに、日本が1945年に連合軍に無条件降伏してから、1951年にサンフランシスコ講和条約を受託して領土放棄または信託統治への移管が決定されるまでの間、台湾は依然として日本国の一部であった。つまり、当時の台湾人は「日本人」だったのである。
 もう一度言う。弾圧され、殺された当時の台湾人たちは、まぎれもない日本人だったのだ。したがって、二二八事件での殺戮は、国民党による「日本人大虐殺」と言ってもよいだろう。しかし、そのことに当時の日本政府はどうしたのか。情けないことに、何の抗議もしなかったのである。
 本省人2万人以上が殺されたという二二八事件の最中、台湾の新聞『台湾新生報』の総経理(社長)である阮朝日氏が5人の男に拉致される。不幸にも阮氏も帰らぬ人となった。この阮氏の娘こそ、台湾に向かう機内で私の隣に座り、二二八事件を知るきっかけとなった阮美妹さんである。何とも不思議な縁ではないか。

▲殺された阮朝日さん


 阮さんは留学先の日本で読んだ本で、父親の朝日さんが反乱罪で死刑となったことを知る。父親の失踪と殺害に直面した彼女は、二二八事件という壮大な事件の真相を追う。こうして書き上げたのが、台湾戦後史の闇に迫った迫真のドキュメント『台湾二二八事件の真実 消えた父を探して』である。

▲『台湾二二八事件の真実 消えた父を探して』(まどか出版)

▲漫画本でも出版された

▲台湾のテレビで語る阮美姝さん

 

 私は、彼女の著書にサインをもらいと思っていたが、2016年11月28日、彼女は旅立つ。その日は、奇しくも89歳の誕生日だった。私は阮美姝さんとの再会の機会を逸してしまったことを、今でも後悔している。


【下高原洋(しもたかはら ひろし)さんのプロフィール】
 昭和28(1953)年、横浜市生まれ。日本大学付属の中・高校から日本大学入学。大学では、あの強豪のアメフト部(日大フェニックス)に所属した。25歳のとき、川崎市北部中央市場の開場に伴って独立する友人と水産仲卸を起業する。事業所を6市場に拡大して役員に就任、量販店(スーパーマーケツト)、飲食店(寿司・中華・喫茶甘味処等)を手掛けた。また出向でヒラメ養殖場、公園墓地販売、観光歴史館、ホテル・旅館の再生事業に携わる。鮪一船買い(獲れた鮪を全部買う)の会社代表に就任。その後、給食会社や銀行寮の食堂長などを経て、日本遠洋鰹鮪漁業協同組合連合会に就職した。鮪船向けの餌料買い付けと販売、船員派遣などの業務に就いた後、南アフリカのケープタウンに8年間単身赴任するが、同連合会の解散で退職する。退職後は全国漁業協同組合連合会に就職して業界NPOに出向し、水産庁の助成事業と東日本大震災の復興支援事業に従事し、令和元(2019)年に退職。同年、南アフリカのケープタウンに短期移住を決行したが、新型コロナの蔓延により半年で帰国、現在に至る。白井市南山在住。


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