【連載】頑張れ!ニッポン⑫
昭和の工場生活を振り返る
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
3交代制の工場も珍しくなかった
コロナ禍の頃、「エッセンシャルワーカ」という言葉をよく耳にした。世の中に必要不可欠な仕事に就く人達の事で、その人々無しには我々の生活は成り立たないとの説明がされていた。その例として、看護師、介護士達などが挙げられたものだ。重要な仕事なのに、低収入だとのいう事で、改善の必要性が訴えられていた。これをテレビで見ていた私は、「工場で働く人達にもいるよな」と思ったものである。
▲三菱電機北伊丹製作所
今のご時世、工場で働きたいと思う人は少ないかもしれない。周りには工場生活の実態を知っている人が少ない様なので、私が働いていた三菱電機北伊丹製作所の工場生活を紹介しよう。例によって、ここで述べるのは昭和の工場で、しかも半導体工場である。今はどうなっているか知らないので、ご承知おき願いたい。
技術スタッフや事務員の仕事は、朝8時15分から始まり、夕方5時15分に終わった。お昼には45分間の休憩があり、その間に昼食をとる。工場の前には、「瑞が池(ズガイケ)」という池があり、昼休みにはそのまわりを歩いたり、ジョギングしたりする人が大勢いた。
半導体は高額な設備を使うので、装置の稼働率をできるだけ上げる事が大事である。出来れば装置を24時間365日稼働させたいところだ。しかし、実際はメンテナンスのために1年のうち何日かはラインを止めなければならない。
ともかく装置を目いっぱい稼働させるために工場は3交代制を取っていた。現場で作業する人は早番の時は朝6時頃から昼2時頃まで、遅番は昼2時頃から夜10時頃までの勤務だったと記憶している。夜の10時から翌朝6時頃まで男子の夜勤者が働いた。
女子寮では「寮姉」が生活指導
当時は自動化もまだそれ程進んでいなかったので、組立作業は多くの女子社員が行うことになる。この女子社員を「トランジスタガール」と呼んでいた。当初は中卒の女子が多かったが、数年もすると高卒者が多くなっていった。主に九州からの人が多かったが、山陰地方からの人もいた。工場内に女子寮が数棟あり女子はそこで寝泊まりしていた。
女子寮には「寮姉」と呼ばれる短大卒(と思う)の女性が10人ほどおり、女の子達の生活指導などをしていた。地方から都会に年端の行かない我が子を送り出した親御さん達を安心させる仕組みができていたのである。
工場には食堂があり、昼の休憩にはそこで食事をする。二交代勤務者の為に夕食も用意されていた。遅くまで残業するときは我々も夕食をすることは可能だが、食事抜きで仕事する事が多かった。だから、家で遅い食事をする事になるが、大体それは8時頃で遅い時は10時頃になる事もあった。車で通勤していたので遅い時間に帰る時は検問に引っかかる事もあった。警官に会社帰りだと言っても不審そうな顔をして、「息を吐いて見てください」などと言われたこともあった。
食事のメニューは当初、1種類しかなかったが、やがてパンや麺類も選べるように。工場の出入りは厳しく規制されており、昼休みに池の周りを回ることは許されていたものの、それ以外は守衛がいて車両も含めて出入りを厳しくチェックしていた。どうしても、やむを得ない用件で外出するときは、所定の用紙に理由や行先などを書いて上司の許可を得る必要があった。
工場内にはグランドがあり、そこで運動会などを行ったり、ソフトボールをやったりした。また、地域社会との交流という事で、盆踊りなどは地域の人達にも参加してもらっていた。
忘年会などは、最近の若者はあまり好まないようである。しかし、当時は毎年行い、工場敷地内にある健保会館でやる事が多かった。たまには有馬温泉に泊りがけで行ったりしたことも。
ある年なんか、現場の女子作業員と合同で鳥取温泉まで行き、名物のカニ鍋を楽しんだこともあった。因みに伊丹市から鳥取までは日帰りドライブが十分可能で、私も鳥取砂丘まで家族ドライブした事が何度かある。
組み立て工程は年々外注に
工場での仕事は団体競技をやっているようなもので、チームワークが大事だ。そのための工夫がなされ各種の行事も行われていた訳だ。ウエハ工程の製造ラインはクリーンルームになっていて、そこへは宇宙服のような作業服を着て特殊な靴を履かなければならない。
▲クリーンルーム用作業服(たにむら(株)HPより)
ラインへの出入り口はドアが2つある小さな部屋になっており、外側のドアを閉めてボタンを押すと、上下左右にある無数のノズルから空気が噴き出て衣服のゴミを吹き飛ばす。空気の吹き出しが終わったら内側のドアを開けてクリーンルームの中へ入る。
クリーンルーム内は天井から床に向かって、特殊フィルターを通った清浄な空気が一様に静かに流れている。床はステンレスのグレーチングになっている事が多く、そこを通って空気は床下に流れていく。 トランジスタガールと呼ばれた女の子が、ずらりと並んで作業をやっている光景は組立工程の事で、そこはウエハ工程のような厳密なクリーンルームは必要は無い。しかも組立工程は年と共に外注でやるようになり、北伊丹製作所からは組み立てラインは消えて行った。
その外注工場でも自動化が進み、テレビで見かけた人もいるかも知れないが、高集積ICのワイヤボンドは何十本もある線を目に止まらない速さでボンディングして行く。北伊丹製作所からはエッセンシャルワーカである女子作業者は居なくなり、女子寮は事務所棟にリニューアルされたのだった。
以上女子作業者にのみスポットライトを当てて述べたが、工場には多くのエンジニアや事務職の人達がモクモクと働いていた昭和。この人たちもエッセンシャルワーカだと思うし、そのような人たちはどんな職種であれ、全国どこの職場にもいることだろう。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)