【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑳
「二ホンは悪くないです」
昆山(中国)
中国は今、バブル崩壊、人口減少、若年層の失業率増加(が一説によると 46.5%に達する)など様々な国内問題を抱え、日本を含む海外企業の撤退ラッシュが加速している。
しかし、今から 20 年程前の中国は、低賃金、無尽蔵に農村部から流れ込む農民工、そして外資優遇策により、誘蛾灯のように世界中の企業を吸い寄せていた。日本のマスコミが、「今中国に投資しないのは、バカだ。バスに乗り遅れてはいけない」と煽りまくっていたほどである。
今、思えば異様な時代だった。そんな時代に、中国に進出している日本と台湾の企業の現状調査の為、上海、昆山、重慶に出張した。中国では人の言葉を額面どおりに受け取ってはいけない。複数の情報源を持ち、絶えず一歩引いて冷静になることが肝要だ。私は、これを「中国に対する免疫を獲得すること」と表現していた。
▲昆山経済技術開発区
▲昆山市の旧市街
昆山には、多くの台湾企業が進出しており、日本人にはとても真似できない対中戦略に瞠目させられた。何より、台湾人は普通話(北京語)を話すことができ、中国人の思考回路、法律、役人を味方に付ける方法、裏社会の掟、接待の極意などを熟知している。
一方、日本企業の多くは、中国文化と法制度のカラクリ、彼我の歴史問題に関する認識の差などについて生半可な知識しか持たぬまま進出し、手痛い目に遭うことが多かった。
だから、中国進出に当たっては、商才に富み、日本と中国の両方の文化を理解したうえで、最適解を見つけることに長けた台湾企業と組むことが最善の選択肢の一つとされていたのである。
昆山でそんな考えを裏付けるような体験をした。台湾企業の幹部数人と夕食を共にした後、酒の相手をしてくれる小姐(シャオチェ)、つまりホステスのいる酒場に繰り出した。みんな、ほろ酔いで、カラオケや中国ジャンケンなどで、楽しい時間を過ごしていた。そんな時、私の隣に侍っていた小姐から唐突に、予想だにしなかった質問を浴びせられた。
「南京大虐殺について、どう思いますか?」
エッ、何だ、何だ、突然、こんな席で、冗談じゃない。一体どういうつもりだ? 虚を突かれ、私は一瞬返す言葉に詰まり、まだあどけなさの残る彼女の眼を見つめた。意外なことにその眼差しに悪意は感じられなかった。が、その眼からは、私が反省と謝罪の言葉を口にするのを当然の如く期待しているのが容易に読み取れた。
それまで、バカ話で盛り上がり、和やかだった空気が凍りつき、緊張が走る。周囲の目が私たちに集中する。「南京事件」については、それなりに勉強はしているし、日本語でなら、日本の立場について、筋道立てて説明することくらいはできる。
それに私は、台湾に駐在経験があり、中国大陸にも頻繁に出張していたので、中国語で日常会話や簡単な商談くらいはこなせる。しかし、こんな敏感な問題について筋道立てて話すほどの語学力はない。
ここは中国だ。聞き耳を立てている中国人に囲まれて敏感な問題について深入りすべきではない。第一、酒の席でこんな非常識で無礼な質問をすること自体、許されるものではない。挑発に乗ってはいけない。相手の非礼を窘めてからこの話題を打ち切ろう……。
そう思いを巡らせ、二言、三言話し始めた。と、それまで黙って事の成り行きを見守っていた、台湾人の陳さん(仮名)が私に日本語で語りかけた。陳さんは、ある台湾企業の現地責任者である。
「フジワラサン、ダイジョブ(多くの台湾人は、母音を長く伸ばす発音が苦手なので、ダイジョーブとはいえない)。ニホンは悪くないです」
そして、私に質問した小姐を睨み付け、すごい剣幕で、説教し始めた。あまりの早口に私は、全部を理解することはできなかったが、聞き取れる単語をつなぎ合わせると、私と日本を弁護してくれていることは充分に分かった。
小姐は決まり悪そうに黙って聴いていた。ひととおり説教を終えた陳さんは、私に言った。
「もう、ダイジョブ、シンパイしない。どこか他の店に行きましょう」
私に質問した小姐や他のホステス達、周りで聞き耳を立てていた中国人の客達がどんな反応をしていたのか、確かな記憶がない。陳さんからの思いもよらぬ援護射撃に脳みそが痺れるほどの衝撃と感動を覚え、目頭を押さえていたからだろうか。
▲中国の夜の歓楽街(イメージ)
当時の出張報告を紐解くと、台湾企業の成功の秘訣密について、興味深い記述がいくつかあった。その一部を拾ってみる。いずれも日本企業には真似できない芸当である。20年前と現在とでは、「日中」「中台」の関係は様変わりした。しかし、日台関係の本質的な部分は、今もあまり変わっていないだろう。
曰く、
「戦略なき成功。思いつき投資、とにかく素早い判断を可能にするトップダウン型マネジメント」
「台湾の仕事のやり方・生活習慣をそのまま持ち込める」
「営業では、台湾人であるということで、顧客の信用を得ることができる。中国は開放改革が進んできているとはいえ、共産党の支配・影響力は強大で、『政治的身の安全』を考えると、中国人同士がなかなか本音で話し合うことは難しい。しかし、台湾人には、本音を吐露してくれる傾向が強い」
「顧客、政府役人との所謂『人脈関係』を構築するための社交が重要で、連日の飲食により、営業マンは大体3年で身体を壊す」
中国(大陸)で拙い北京語を話しても誰も褒めてくれはしないが、台湾で少しでも北京語を話せば、「あなた、北京語イーチーバン(最高)」と持ち上げてくれる。そして、台湾語を一言でも話そうものなら、大喜びしてくれる。
台湾には、今も日本統治時代の日本語が沢山残っている。思いつくまま挙げてみよう。
「ウドン」「ミソ」「オレン(おでん=黒輪と書いて、オレンと発音する)」、「ベントウ」「オジサン(欧吉桑)」「オバサン(欧巴桑)」「ウンチャン(運転手)」「アニサン(お兄さん)」「トーサン(多桑=父親)」「アッサリ(あっさり)」「イーチーバン(一級棒と書き、一番、最高の意味)」「オトバイ(オートバイ)」「セッケイ(設計)」「アタマコンクリ(頭コンクリート。頭が固い)」「アイサツ(挨拶)」「ダイジョブ(大丈夫。ライジョブと聞こえる)」「キモチ(気持ち)」「アリガド(ありがとう)」
これらは今でも日常会話の中で自然に使われている。以前にも書いたことがあるが、台湾で、日本文化の美徳は、「日本精神(ジップンチェンシン)」として尊敬され、日本男子は、弱気を助け強気を挫く者として「トウタイラン(桃太郎)」と呼ばれる。面映ゆい気がするが、これらの日本と日本人への賛辞は、現代日本と日本人に向けられたものではなく、過去の日本人への憧憬であることに私たちは気づくべきだろう。
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。