礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飯野吉三郎は明治天皇と瓜二つだった(猪俣浩三)

2018-05-31 00:55:03 | コラムと名言

◎飯野吉三郎は明治天皇と瓜二つだった(猪俣浩三)

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「和製ラスプーチン、飯野吉三郎」の節を紹介している。本日はその二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 飯野吉三郎の屋敷は、青山の穏田〈オンデン〉、いまの渋谷区神宮前にあった。千五百坪を越える広い日本式庭園の中央には、天照大神〈アマテラスオオミカミ〉を祭った神殿が建てられており、邸宅は間数〈マカズ〉が三十あまりもあるという、豪勢な暮らしぶりだった。世間では通称〝穏田御殿〟と、これを呼びならわしていた。もともとは、陸軍主計総監であった外松孫太郎【とまつまごたろう】男爵の邸宅だったという。飯野は外松男爵の娘末野【すえの】を嫁にもらい、一緒に〝穏田御殿〟も譲りうけたとの由〈ヨシ〉だ。
 招かれて屋敷内にはいると、まず神殿に導かれ、禰宜【ねぎ】がいて、お祓【はら】いをしてくれるのがつねだった。どうやら、背広姿である私の〝洋夷臭〟を、そこで、清めてくれようという手筈にみえた。それから、広い邸内をめぐって、離れ座敷に案内される。玄関をはいると、どでかいテーブルがおかれた応接間があった。刺客が向こう側から斬りつけても、刀の先がとどかぬようにと、特別に、このテーブルをあつらえさせたとかいう話であった。大正十三年〔一九二四〕一月に成立をみた、清浦内閣の臨時組閣本部は、ほれ、そこの場所だったのだ。飯野吉三郎は得意気な面持ち〈オモモチ〉で、大テーブルを指さし、そう説明してしてくれたことがある。
 もっとも、枢密院議長だった清浦奎吾〈キヨウラ・ケイゴ〉を首班としたこの内閣は、すこぶる評判が悪く、わずか六カ月であえなく総辞職にいたっている。これに代わって成立をみたのが、いわゆる護憲三派と称される加藤高明内閣であったわけだ。実をいうと、この政権交代が、どうも〝穏田の神様〟の権威失墜とも関係があったようだ。飯野吉三郎としては、当時の威勢をしのぶ意味からも、そのどでかいテーブルには、未練が残っている口ぶりが明らかにうかがえた。
 私が時おり、〝穏田御殿〟を訪れるようになった、昭和七、八年〔一九三二、一九三三〕頃、飯野吉三郎の年齢は、もう六十を半ばすぎていたのではなかろうか。風貌はというと、長髭【ちようぜん】をたくわえ、眼光は鋭く、要するに、明治天皇と瓜二つなんだ。背たけは常人なみだったが、でっぷりと肥えておって、黒羽二重【くろはぶたえ】の紋付き姿は、堂々たる押しだしぶりだつた。
 巷間の噂では、飯野は明治天皇のご落胤だとか、伊藤博文と下田歌子との間の私生児だとか。さまざまな虚説が飛びかっていた。飯野自身は、それを肯定も否定もしない。そうした風説によって、自己の怪物性が増すことを、たぶんに計算している気味もみうけられた。とはいうものの、私には愛想もよく、快活な口調で、なんでもよくしゃベってくれた。だから、とても怪物などとは思えなかった。
 それでも、時によると、飯野吉三郎の表情はくもり、不満そうな口吻〈コウフン〉で、報われることの少ない自己を、しきりに嘆いてみせた。明治天皇は自分に対して、非常な恩があるんです。もし、明治天皇を恨むとすれば、私がいっとう恨んでよい人間なのだと。ただ、その恩とやらが、大逆事件通報者としての、自己の功績をいっているのか。あるいは、別の事柄をさしているのかは、飯野はそれ以上、なにも具体的に明かそうとはしなかった。
 また、おりにふれて、飯野は、宮中との深いつながりがあることを、さかんににおわせるむきもあった。事実、飯野の私室には、菊のご紋章入りの立派な箱があって、宮内省からの金子〈キンス〉がとどいている様子だった。その箱を、私はみせられたことがある。とはいっても、彼は大宮司とかの神官の位をもっていたのだから、下賜金があっても、別におかしくはなかったのだが……。いずれにせよ、神様が下界の住人である私に、愚痴をこぼすようではいかんともしがたい。私が面識をもった時分の飯野は、もう相当に落ち目になっていたのだと思う。【以下、次回】

 これは、「勘」だけで言うのだが、猪俣浩三は、飯野吉三郎と皇室との関わりについて、飯野本人から、何事かを聞かされていたのではないか。しかし、猪俣は、それを信じることができなかったか、もしくは、それを公にしてしまうことは好ましくないと考えたのであろう。
 猪俣が飯野から聞かされた内容だが、猪俣自身の印象「明治天皇と瓜二つなんだ」、巷間の噂「飯野は明治天皇のご落胤だとか」、飯野の発言「明治天皇を恨むとすれば、私がいっとう恨んでよい人間なのだ」――などをみれば、おおよその見当はつく。要するに猪俣は、これらの言葉を並べることによって、飯野本人から聞かされていた内容を暗示したのではなかったか。
 昨日の繰り返しになるが、猪俣の語りが、こういう重要なところに来た場合、聞き手は、確認を怠るべきではない。この場合には、「飯野吉三郎が、猪俣先生に対し、重大な秘密を打ち明けるということはなかったのですか」という確認が必要になる。

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