◎邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
一昨日、昨日に続いて、新潮社の話題である。森達也さんと礫川との対談記録『宗教弾圧と国家の変容』(批評社、二〇一五)のうち、本日は、同書の一五八ページ図版から「みんな変つて行く」(新潮社長 佐藤義亮)という文章を紹介する。なお、この文章は、一九三六年三月一〇日に出版された『ひとのみちに対する誤解を一掃す』(発行人・佐藤義夫、発行所・扶桑教ひとのみち教団奉仕員連盟東京地方連盟)に載っていたものである。
みんな変つて行く
新潮社長 佐 藤 義 亮
ひとのみちに入教して、真面目に精進する人の姿を見てゐるくらゐ、愉快なものはない。
二ケ月、三ケ月、半年、一年――みんな変つて行く。遅い早いはあるが、みんな変つて行く。
痩せてゐたものは、ドンドン肥りだす。
青ざめた顔は、赤味を帯【ふく】んで、沢々【つやつや】しくなる。
因循姑息だつた者が、実行第一と働きだす。
人中で口のきけなかつた者が、演壇で大声でしやべる。
まるで他人のやうだつた夫婦が、ニコニコ連れだつて来て、連れだつて帰る。
家庭から学校から持てあまされた「赤」の青年が、いつの間にか 陛下の御徳【おんとく】を讃【たゝ】へだす。
有髯【いうぜん】の紳士が、シヤツ一枚になつて、いゝ気持さうに家の掃除などをやつてゐる。
等、々、々。みんな陰鬱を蹴飛して、明朗になるのだ。
これが、ひとのみち人【じん】の真面目に精進する場合、例外なく変つて行く姿だ。
これでインチキな教【おしへ】ならインチキ結構、邪教とあらば邪教で一向差支へない。私たちは、この絶対の幸福境にあることを歓天喜地するのみだ。
次回は、話題を『軍政改革論』に戻します。