◎錦旗革命、その合言葉は「天皇―中心」
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
本日は、その三回目で、「慄然とするその内容」の節を紹介する。
慄然とするその内容
橋本〔欣五郎〕の計画は次第に軌道に乗った。北京から脱走した長〔勇〕とロシア班の田中(弥)、小原〔重孝〕がその片腕である。長は無断で任地を離れる時、武器庫から手榴弾を持ち出した。そして、太刀洗〈タチアライ〉からは陸軍機に便乗、荒天をおかしてようやく東京へたどり着いたのだ。全く決死の東京入りであったという。隊付将校たちの力を結集するため、神楽坂、渋谷、大森などで懇親の宴がはられた。ロシア班は藤塚〔止戈夫〕ただ一人が執務しているだけで、田中(弥)、小原や語学将校の天野〔勇〕らは革命決行の準備に明け暮れていた。やがて襲擊目標も決まった。
それによると、元老・西園寺〔公望〕をはじめ牧野〔伸顕〕内大臣、一木〔喜徳郎〕宮内大臣、若槻〔礼次郎〕総理大臣以下全閣僚、政党首領、財界の巨頭らは一挙にこれを殺害。南〔次郎〕陸相、金谷〔範三〕参謀総長以下陸軍上級者も監禁あるいは殺害する。
襲撃の指揮官には総理大臣官邸は少佐・長勇、警視庁は大尉・小原重孝、陸軍省、参謀本部、陸相官邸は第十八連隊長の大佐・佐々木到一、幣原〔喜重郎〕私邸は通称〝野田又〟こと中尉・野田又雄、内相・安達〔謙蔵〕邸は中尉・菅波三郎、内大臣・牧野邸は海軍側の藤井〔斉〕が〝抜刀隊〟を組織して、これに当たることを内定。この抜刀隊には翌年の五・一五事件に参加した海軍中尉・三上卓〈タク〉、同・古賀清志、同・山岸宏、同・中村義雄、同・林正義、海軍少尉・黒岩勇、同・村山格之、同・伊東亀城、同・大庭春雄らも含まれていた。また、〝軟弱外交の総本山〟外務省に対しては、それぞれ襲撃を終わってから、武力によって全職員に制庄を加えることを決めた。
このため指揮官にあてられた各将校は、殺害目標の高官官邸、私邸の偵察に全力をあげた。たとえば、近衛師団きっての剣豪をもって鳴る「野田又」は、植木屋に変装して幣原邸に入り込んだ。小原は公務と称して軍服のまま警視庁を訪問、くわしい見取図を作っている。田中(弥)もまた、総理大臣官邸の偵察を、海軍側は鎌倉にあった牧野邸の偵察にあたっている。
決起の日取りは、最初、十月十七日か十九日とし、日中決行するか払暁とするかは、その時の情勢に従って定めることとした。しかし、その後、十七日ごろは小原の指導下にあった陸軍砲工学校の同志学生らが、群馬県の陸軍岩鼻火薬製造所の見学に出張することとなったため、小原の要請により急遽、予定を変更。二十四日の払暁午前三時と決めた。夜間のこととて、敵味方を区別する必要がある。そこで〝合言葉〟をつくった。「天皇―中心」がそれだ。〝天皇〟と呼べば、〝中心〟と答える仕組みである。
革命の本部は陸地測量部庁舎に置くことを決めた。ここは桜田門から官庁街一帯を一望のもとに見おろせる要衝だ。しかも、ここを占拠すると、陸軍省、参謀本部ののど首を抑えることができる。そして、決起と同時に測量部の屋上から大幟〈オオノボリ〉をつるして、「維新革命本部」であることを天下に誇示する。その大幟は幅八メートル長さ三十メートルぐらいの白布とし、そこに「昭和維新」と大書する段取りとなった。
革命内閣の構成についてははっきりしないが、首相に教育総監部本部長の荒木貞夫中将をかつごうとしていたことだけは確実。ほかに外務大臣兼陸軍大臣に参本〔参謀本部〕第一部長の建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉少将、内務大臣には橋本みずからが就任。大蔵大臣には「三月事件」以来の盟友大川周明、海軍大臣には小林省三郎少将、警視総監には長勇、参謀総長には関東軍参謀の石原莞爾を配する計画。一説には西田税〈ミツギ〉や隊付将校を味方につける作戦として、北一輝を司法大臣に起用する案も立てられたといわれる。そして、約二時間で各所の襲撃を終わると、血刀をひっさげた長らが東郷平八郎元帥と閑院元帥宮〈カンインゲンスイノミヤ〉を擁して参内。荒木中将に組閣の大命が降下するよう上奏する。東郷はロシアのパルチック艦隊を全滅させた世界的な名提督。全国民から崇敬の的となっていた〝国宝〟である。では、なぜこの老元帥を煩わすことになったのか? それは革命決行とともに、西園寺以下重臣という重臣は抹殺される。すると、天皇に後継首班を推薦するものはいなくなる。残るは東郷だけだ。しかも東郷は国家革新運動の理解者として知られている。橋本が目をつけたのは当然のことといえよう。【以下、次回】
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