◎吉良家を断絶させたのは不当(遠藤達)
昨日の続きである。本日は、遠藤達著『元禄事件批判』(元禄事件批判発行所、一九四二)の本文を紹介してみたい。同書は、全十四章から成るが、本日、紹介するのは、「二、上杉家と吉良家との親戚関係」の全文、および、「六、吉良家に対する処分の不当」の全文である。
一、元禄時代の世相【略】
二、上杉家と吉良家との親戚関係
上杉家と吉良家との親戚関係は、上杉家第四代綱勝の妹三姫富子が浅吉事件〔浅野吉良事件〕の対手吉良義央〈キラ・ヨシナカ〉に嫁したるに始まる。吉良家は清和源氏足利治部大輔義兼の三男義氏か承久の乱の戦功に依り三河守護職に補せられ、幡豆郡西尾に築き之に住す。其二男長氏より吉良を氏とし第十七代義央に及べるなり。義央と富子夫人との間に一男三女あり、男児は三之助即ち後の上杉綱憲なりとす。寬文四年〔一六六四〕五月富子夫人の兄上杉綱勝二十七歳にして急病を以て逝去し、未だ児女無く且つ未だ養嗣子を定むるに至らざりしを以て、直ちに継嗣の擁立を要し、評議の結果、遂に吉良氏の継嗣たるべき三之助を擁立することゝなり、幕府に申立ての処〈トコロ〉、定法〈ジョウホウ〉に依り三十万石上杉家は継嗣なかりし理由を以て一旦絶家は止むことを得ざるも、名家の理由を以て新に御取立てとして、米沢十五万石上杉家(伊達信夫を減知)を立てらるゝこととなり、三之助を当主とし、喜平次景倫と称せしが後ち将軍綱吉の諱〈イミナ〉の一字を賜ひて上杉綱憲と称するゝことゝなれり。後ち綱憲の長男吉憲は上杉家を継き、次男春千代は祖父吉良義央の継嗣として吉良家に入り、義周〈ヨシチカ〉と称す。義周浅野浪士討入の際、防戦負傷したるも、祖父にして養父なる義央の急に殉せざりし理由を以て、元禄十六年〔一七〇三〕二月四日領地召上の上、信濃国高島(現上諏訪町)に配流せられ、宝永三年〔一七〇六〕一月同地に於て逝去せり。年二十一歳、吉良家絶す。是より先宝永元年〔一七〇四〕八月其祖母にして養母たる富子未亡人は上杉家に於て逝去せり。
三、元禄殿中刃傷事件の事実及処分【略】
四、赤穂浪士吉良邸討入事実【略】
五、上杉綱憲復讐之中止【略】
六、吉良家に対する処分の不当
赤穂浪士吉良家討入の処分に付ては有司の間に種々の意見ありたるも、翌年〔元禄一六=一七〇三〕二月四日「国禁を犯し党を結び飛道具を用ひ公を憚らず」との理由を以て四十六人の輩に死を給ひ、其遺子は遠島〈エントウ〉に処せられ、又吉良義周に対しては「其夜のはからひよろしからず」との理由を以て、其采邑〔知行所〕を収公し、其身は信州高島に配流〈ハイル〉し、諏訪安芸守忠虎に預けらる、義周于時〈トキニ〉年十八、宝永三年一月二十日二十一歳を以て配所に病死し、西条吉良氏絶す。然るに浅野内匠頭の弟大学は兄長矩〈ナガノリ〉殿中刃傷の大罪に坐して閉門を命ぜられ、翌年閉門を免じ、広島浅野家に預けられ、又朝野浪士の遺子は其父国禁を犯したるの罪に坐して遠島を命ぜられたるも、宝永六年〔一七〇九〕八月二十日、故五代将軍綱吉の一年祭に際し其配流を赦され(徳川実記中文昭院実記)其翌七年〔一七一〇〕九月十六日、浅野大学は安房国朝夷〈アサイ〉平〈ヘイ〉両郡の内に於て五百石を賜はり、寄合に列せられ(徳富〔蘇峰〕氏著近世国民史義士編五二頁)浅野浪士遺子も亦た正徳三年〔一七一三〕、広島浅野家に召出され夫々〈ソレゾレ〉知行をあてがわれたり(三宅観瀾著烈士報讐録末尾)と云ふ、是に依り之を見れば国禁を犯せる大罪者の家族及遺子は刑の執行後僅かに六年にして其刑を赦され、而も其後一年ならずして職禄を与へられたるに拘はらず、吉良義周は当時十七歳の弱冠者たり、深夜四十六士の侵入に会し〈カイシ〉主従の連絡を取るに由なく、相当防戦の後打倒れ、遂に生残〈セイザン〉したるものなるに、其夜の仕形よろしからずと云ふが如き漠然たる断定の下に領知公収及信州高島に配流と云ふが如き厳罰に処するは不当甚しきものと云はざるべからず。加之〈シカノミナラズ〉義周は宝永六年の大赦以前、即ち宝永三年二十一歳を以て配所に病死せるも、吉良家は断絶の侭とし、右の大赦に与から〈アズカラ〉しめず国禁侵犯の大罪人の身内に対してのみ職禄及士分の取立を行ひたるが如きは、実に言語同断の処置と云ざはるべからざるなり。
或は深夜四十七士の押込〈オシコミ〉に遭ひ、養父たる実祖父が殺害せられ自分も亦負傷に及びたることは、仮令〈タトイ〉事情諒す〈リョウス〉べきものありとするも、平素の用意充分ならざりしは勿論、仮令弱冠なりしと雖も、武家の当主として責任を免るべからざる処なるを以て、相当処分を受くべきは当然なりと云ふものなきにあらざるも、彼の井伊掃部頭〔直弼〕は万延元年〔一八六〇〕三月三日登城の途、桜田門外に於て水戸の浪士に襲はれ殺害せられ、而も其首は有村治左衞門に持去られたるは衆知の事実なれば、幕府の掟にては家門断絶たるべきは当然なるも、安藤対馬守〔信正〕の計らひに依り井伊大老は事件報告と共に手疵〈テキズ〉の為め、帰邸療治中の旨届書を出さしめ故大老の首は其棄てられたる遠藤但馬守邸より藩臣の首として受領し、四月七日に至り病死の報告を為さしめたるに依り、井伊家は安穏〈アンノン〉に家名の相続相叶ひ、伯爵の栄位を以て今日に至れるにあらずや、吉良家の場合に於て幕府に安藤対馬守の如き計らひを為し得べき人なかりしとするも、吉良家の断絶を其侭に放置する如きは全く不当も極まれりと云ふべきなり。【以下、次回】
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