礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

龕(がん)は、山腹に凹処に仏像を安置したもの

2024-11-24 00:49:22 | コラムと名言
◎龕(がん)は、山腹に凹処に仏像を安置したもの

 松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その八回目(最後)。

 もう一つ簡単に申上げます。私は従来龕【がん】といふ字に就き色々疑をもつてゐたのであります。この龕といふ字は、今では龍の上に合を書いてゐるが、説文ではこれは間違で、今といふ字が正しいのであるといふ。而して音は□、鋡、堪である。恐らくこれは含の字の下の口が略されたのでなからうかと思ふ。一体今の説文では从龍今聲とありますが、一切経音義の中にこの龕といふ字が屢〻出てゐる。而してそれによると,从龍从含、省声也とある。して見ると、今本の説文に「今に从ふ」とある「今」は、唐代の古本には含の字であつたのであらうかと思ふ。次に龕は説文では龍の形なりとあります。しかし其外にも色々な意味がある。或は受なりとか、或は盛なりとか或は取なりとか或は勝なりとかいふやうな意味が出てゐる。龍の形からはこんな意味は出て来ない筈であります。支那の言葉は音通〈オンツウ〉によつて同音の字から義の転ずるものが非常に多いのであります。龕の字の如きも亦それであつて、其字の本義とは全然無関係なものである。此受とか盛とかの義は其同音字鋡から転じたのであり、楊子方言〔書名〕にも「鋡龕受也、齊楚曰鋡、楊越曰龕、受、盛也、猶秦晋言容盛也」(康煕字典所引に拠る)ともある。又取や勝の義は同音字戡から転じたものらしい。戡は、廣雅〔字書名〕には「克也、勝也、殺也、取也」とある。斯くして支那文字には其本義から全然予想せられない、時としては反対の義すらも附せられることが少くないのであります。
 唐時代の写経を見ると色々な宛字〈アテジ〉が書いてあります。吾々が字の形を見て読んでは意義は全く判らない。支那人は音で読むのであるから其意味が能く通ずるのである。例へば唐の写経の中に、名といふ字の代りに明といふ字が書いてある。又一方明の代りに迷の字も書いてある。明と迷とは其義全く相反するのである。だから文字の通りでは意義は更に通じない。又問を聞、文、門等と互ひに仮借して使つてある。此等は音通だけで必ずしも義まで転じたのではないが、斯かる文字が互ひに融通し用ひられ、歳月を経過すれば、遂には其義までも転じ来ることは疑ないのであつて、六書ではこれを仮借〈カシャク〉といつてゐるのであります。だから支那に於ては音通といふことが、字の音義を解釈する上に非常に大切な関係を有するのであります。支那では一の言葉で全く反対の二意をもつてゐるものが少からずある。借と貸、授と受、乞と与、乱と治等何れも皆互用されてゐる。斯く一字で全く反対の意味を有するといふのは甚だ不思議なことで、実際上こんな文字は役に立たないのであります。一万円借りたことが一万円貸した事になつては実際上大変な間違が生ずる。文字は各社会に於ける必要によつて生じたものである。それが同じ文字を以て表はすとすれば到底其必要を充たす事が出来ない筈であつて、これには諸種の原因があるかも知れぬが、主として同音字から次第に意義が転じ来たのでなからうかと考へる。兎も角仮借即ち音通といふことが、支那文字の意義の上に非常に重大な影響をもつてゐるのであります。そこで龕といふ字も亦之と同様であつて音通から諸種の新たな意義が増して来たのであるが、更に外国語の音を写したことによつて又新たるる意義が加はつて来た。例へば仏龕〈ブツガン〉といふ時の龕の如きである。これは山の腹に凹処を作り其処に仏像を安置したものといふ。印度でも、支那でも又我邦にも往々斯かるものが存在する。この時の龕といふのは決して龍の形でもなければ、勝つ、盛り、取る、受るといふやうな意味でもない、此等と全く関係のないものであります。印度でKandaraといふのは窟穴〈クッケツ〉であり、龕は此音を写しただけである。かういふやうに今仏教者が使つてゐる龕といふ字義は、支那には従来無かつた新しいものであります。それ故に龕を解釈して或は「鑿山壁為坎也」とか、「巌中浅小石窟也」といふのは、外国語の龕の本義である。日本の仏間のやうな所、或は日本建築の床の間といふ如きは龕の変態である。これは皆仏像を安置してある窪処である。床の間は日本建築に特有のものであるが、これも寺院の建築から変化し来つたもので、昔は此処に仏器を飾つてゐたことによつても知ることが出来る。それから更に後世では塔とか、塔下室とかいふ解釈も生じて来た。龕は仏像を安置した窟室であるから、塔の如き仏像を置く処をも等しく龕といふやうになつた。特に支那の塔は多く煉瓦造であり、四面窓のところに窪処を造り、仏像を置いたものがある。此等は明らかに龕である。塔下の室とは斯かるものをいつたのでせう。遂には柩までも龕と称するに至つた。塔は本来舎利を置く処であるから、遺体を蔵する柩〈ヒツギ〉にまで転用したのである。斯くして龕にも次第に新しい意味が加はり来つたのであります。
 かういふ例は外にもいくらもありますが、余り長くなりますからこれで終ることに致します。要するに支那の音訳といふものは随分厄介なものでありまして、時としては色々な点から不明混乱が生じ、其解釈に困難を来す場合の少からず存することを一言申上げ、御参考に供した次第であります。

 追 記――前文には佛字を以て佛教者の作つた新字の如く説いたが、其後明の陸容の菽円雑記〈シュクエンザッキ〉(巻二)を見るに次の如くいふ。
 佛本音弼、詩云佛時仔肩、又音拂、礼記云、献鳥者佛其首、註云、佛不順也、謂以翼戻之、…自胡書入中国、佛始作符勿切、…今人反以輔佛之佛…為借用圏科、非知書学者。
といふ。又説文には佛字を解して
 佛仿佛也、从人弗声
とあり、同処段氏註には
 按髟部有髴、解云、髴若似也、即佛之或字、
更に髴若似也の下の段註には
 似者像也、苦似者■言之、髴与人部仿佛之佛義同、許無髣字、後人因髴製髣
ともある。之によつて見れば佛字は必ずしも佛教伝来後新たに作られたのではなく、固より既にあつたので、禅定の禅、木綿の畳、師子の師等と同じく其音背を写す用ひたものといはなければならぬ。恐らく始め復土となり、次に浮屠となし、更に之を単簡化し佛の一字を以て之を表はすに至つたものらしい。〈246~250ページ〉

 最初のほうにある□は、「甚の右に戔がある字」である。「追記」にある■は、「厽の下に糸がある字」で、「累」の本字。
 なお、「追記」の最初に、「前文には」とあるが、この前文とは、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録全体を指しているものと思われる。

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