礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

私は、この本によって政治活動をおこなっている

2024-12-06 01:53:28 | コラムと名言
◎私は、この本によって政治活動をおこなっている

 カレル・ヴァン・ウォルフレン著『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社、1994)の要所要所を紹介している。本日はその十二回目。
 本日は、第三部「日本はみずからを救えるか?」の第三章「制度との戦い」からは、二箇所を引いてみたい。最初に紹介するのは、次のところである。

 強い市民社会が存在するところでは、社会の全域が政治化される危険は大きく減る。市民社会は、「有害な惰性」を生じさせる人々の全般的無関心を許さないからである。
 この市民社会という概念は、その実際を見たことのない人にはもっと詳しく説明すべきだろう。といっても簡単に思い描いていただけるようなものでもない。市民社会は、独裁主義から国民を守り、民主主義を可能にするためのさまざまな条件の組み合わせから成り立っている。
 市民社会が政治システムの一部であることはいうまでもない。統治行為には直接かかわらない部分であるが、国の政治責任の一端を担っていると自覚する人々から成り立っている。
 市民社会であるとは、少なくとも、政治的議論に一般の人々が参加し、政治の現状が知的に吟味され、国の統治に人々の代表者が参加する基本的制度が整っている社会であることを意味する。
 市民社会は慣習と組織とから成り立っている。統治に直接かかわらなくても、統治システムへの影響力を通じて、政治的な力がある。また市民社会は、市民が国家の政策に影響を与える目的でつくった組織から成り立っている。
 現に戦わされている真剣な政治論議も市民社会の一部を成している。この本を書くことによって、私は政治活動を(文筆活動と同時に)おこなっている。私は、あなたの政治についての考え方に影響を与えようと努めている。私は、日本だけでなくどこの国の統治にも参加していないが、この本を書くことで、日本の市民社会に積極的に参加している。あなたがこの本や別の日本政治に関するまじめな本の内容についてだれかと話すとき、あなたもやはり市民社会に積極的に参加していることになる。
 市民社会はすべての国にある(もっとも、北朝鮮のような国ではほとんど消滅させられているが)。日本の市民社会は、しかし、組織的にその土台を切り崩されてきた。政治的議論の焦点を、真に重要な事項から遠くずらされることで、市民社会は弱体化する。日本の場合、政治家のあいだにはびこる「金権政治」にばかり焦点が当てられることで、はるかに緊急で重要な問題である「説明する責任」を果たさない官僚制のことが、人々の関心から遠のいてしまった。この関心のずらしが日本の市民社会を弱体化させている。〈295~296ページ〉

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