◎明治後期に下北半島・田名部で起きた「村はずし」
数カ月前、笹澤魯羊著『宇曽利百話』(下北郷土会、一九六一年第三版、定価二三〇円)という本を入手した。そのまま、ツンドク状態になっていたが、片付けの最中に手にしてみたところ、奇談珍話が並んでおり、実におもしろかった。
本日は、同書の「土俗十題」の章に含まれている「村はずし」という節を紹介してみよう。
村はずし 村はずし・村ばね.・村はぶきなどいうが、曽て〈カツテ〉部落内に行はれた私刑にて、明治末頃田名部〈タナブ〉町の真ん中に於ても、山木半次郎一家に対して、殆んど二十年間近く執拗に行われた。
山木半次郎は女舘〈オンナダテ〉の大工棟梁勘次郎の伜〈セガレ〉、嘉永元年(一八四八年)十七才の時父母を伴ひ田名部柳町〈ヤナギマチ〉に借家して、僅少な資本で小間物の行商を始め、毎朝潔斎して日輪を拝み、速に〈スミヤカニ〉独立の店舗を持てるようにと念願した。安政二年、廿四才の時、本町〈ホンマチ〉西側に家屋敷〈イエヤシキ〉を百六拾両に買求めて木綿雑貨の店を開いた。次で〈ツイデ〉代官所から掛屋並〈カケヤナミ〉を仰付かり〈オオセツカリ〉、明治二年凶歉〈キョウケン〉に際しては田名部五ケ町へ白米弐俵づゝを寄附し、極貧者へは白米五升づゝを施与して居る。古金銀の鑑定が達者にて、買集めて東京の両替屋へ売り意外の利潤を得、明治八年京阪から木綿・雑貨類の直仕入〈ジカシイレ〉を始め、同十年頃には東京の三井銀行及び第十五銀行に預金をして居り、当時の田名部としては寔に〈マコトニ〉隆々たる新興商人であつた。随て〈シタガッテ〉旧勢力者から密に〈ヒソカニ〉嫉視されて居た訳だが、偶〈タマタマ〉、明治廿三年十月十四日夜、同家の附近から出火して百九十六戸と外に郷社・警察署・小林区署〈ショウリンクショ〉・郵便局・病院等を焼亡した大火事があつた。警察署は旧勢力者からの申立を容れ、山木半次郎を火元と認めて検事局へ廻したが、不服を申立て裁判の結果は証拠不充分にて無罪になつた。是により終に〈ツイニ〉「村はずし」の報復を受けたのであるが、町内の商家は旧勢力に雷同した間にあつて、中島清助、白浜繁太郎の両商家だけは局外中立を守つた。
山木半次郎一家に対する「村はずし」は、全く頑冥酷薄の限りを尽したもので、店の前に見張人を出して客を暗に威嚇し、自然に客は遠のいて商売は出来ぬ始末、墓石を夜分に持来つて〈モチキタッテ〉店の前へ並べ、玉子の殻へ墨汁を詰めて戸へ敲つけ〈タタキツケ〉、甚しきは糞尿を汲来つて〈クミキタッテ〉戸へ塗〈ヌリ〉つけた。更に迫害は縁戚にまで及んで、二女じゆん子の聟〈ムコ〉は暇を貰うて実家へ帰り、三女きよ子は嫁入先に乳呑子を残して戻り来る始末。四女よし子は川内に縁付いて居たが、迫害は此の方面に迄延びた。なお菩提寺円通寺の住職を動かして全応和尚から離壇を慫慂〈ショウヨウ〉されて居る。郷社祭礼の山車〈ダシ〉は同家の前を筵〈ムシロ〉を張つて通り、孫三人は小学校にて日々迫害を被むり〈コウムリ〉、遂に東京の学校へ転入学して居る。斯様にして同家に対する「村はずし」は、明治の末迄実に執拗に続行されたが、大正二年、田名部小学校再建築の寄附金募集に際して、時の町長菊池門五郎は如斯〈カクノゴトキ〉行為を反ぞけて〈シリゾケテ〉、自ら同家を訪ねて金五百円の寄附を受納し、是が動機となつて同家に対する村はずしは解消するに至つた。【以下略】
一般に、「村八分」等は、封建遺制と言われるが、むしろ、近代に特有の現象であることを喝破したのは、歴史学者の中村吉治であり、この中村説を強く支持したのは、民俗学者の谷川健一であった。このことについては、当ブログ2013年9月4日のコラム「谷川健一さんは『封建遺制』をどう捉えたか」を参照いただければ、さいわいである。
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