◎仏教経典には、古貝といふ字が屡〻出てゐる
松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その七回目。
それからもう一つ之と相似たものには、貝【ばい】といふ字があります。これは支那の古い象形文字で、説文には「海介属也」とあり、貝殼の貝の恰好から来たものである。又昔は貝を貨幣の代りに使つてゐたから銭の意味も出来た。これらは其物の性質から当然生じ来つたもので、極めて明瞭である。ところが此他に貝といふ字に織物を現はす意味がある。これは貝といふ字そのものからは出て来ないものである。書経の禹貢〔書名〕には淮海〈ワイカイ〉といふ所の物産として織貝といふものが挙げてあります。その鄭註を見ると、織貝の貝とは錦の名なりとあります。又呉氏云ふ、其糸を五色に染めて之を織つて文〔もよう〕を成すものを織貝と云ふともあります。とにかく織物の名前であります。さういふ点から考へて、この貝といふ字は矢張り外国語であり、外国の音を写したものではなからうかと思はれます。
仏教の経典には古貝、或は刼貝といふ字が屡〻出てゐる。これは織物であり、梵語Karpasa の俗語Kappasaといふ字の音を写して古貝となしたのである。この古貝の上を略して貝ともいふ。古貝といふのは一切経の音義を見ると、木の花の名であるといひ、又以て布を造るべしともある。更に高昌には氎と名附く。カシミヤから南には大なるもの樹をなし、北の方では形が小さく、その状は葵のやうなものである。花から実が出来、実の殼が割れてふき出るものは柳絮〈リュウジョ〉の如く紡いで布を成し、之を用ひて衣を為るといふ。要するにカッパサーといふのは棉の木であります。而してヒマラヤ山の北と南とで木の大きさも違ふらしい。がとにかく花が咲いて実が成り、其殼が割れると綿がふき出て来る、それを紡いで糸にして着物を織るのであります。昔は木綿が珍らしかつたと見えて、絹と同様に尊ばれ王侯貴人でなければ綿服は着ることが出来なかつたらしい。で古代には支那へも西域南海の諸国から貢物として献上せられてゐる。この氎といふ字はこれも音を写したに過ぎないので、古くは単に畳と書いたが、後世綿の繊維から成れるにより毛を附し氎となしたので毛織物のことではない。而して此畳の名は高昌国の名称であつたらしい、が印度でカッバサといつた。尚ほ一切経音義の中には五色の氎ともあるから、色織物もあつたらしい。木綿糸を染めて織れば色々の模様の織物が出来るわけである。単に無地であれば白木綿である、若し然りとすれば、貝は禹貢には淮海の土産物として挙げてあるが果して土産物であつたらうか、或は南海地方から輸入されて来たものではなかつたかとも思はれる。さうして鄭註が錦の名なりといふのも頗る怪しむべきであります。又支那の学者は時として貝を解して貝の模様の織物だともいふが、これも恐らく貝字に附会した解釈ではなからうか。但し織物としての貝字は支那にあつても頗る古く用ひられてゐたやうであるから、これは必ずしも仏教伝来後始めて現はれたものではないのであります。〈244~246ページ〉【以下、次回】
文中、「刼貝」という言葉が出てくる。「刼」は「劫」の俗字。「劫」の読みは、キョウ(漢音)、コウ(呉音)、ゴウ(慣用)。
また、「氎」という字がある。原文では、そのツクリが、「疉」でなく「疊」となっているが、「氎」で代用した。ちなみに、「疉」と「疊」は同字だという。「氎」の読みは、チョウ(漢音)、ジョウ(呉音)。
松本文三郎『仏教史雑考』(創元社、1944)から、「支那に於ける印度音訳字」という講演記録を紹介している。本日は、その七回目。
それからもう一つ之と相似たものには、貝【ばい】といふ字があります。これは支那の古い象形文字で、説文には「海介属也」とあり、貝殼の貝の恰好から来たものである。又昔は貝を貨幣の代りに使つてゐたから銭の意味も出来た。これらは其物の性質から当然生じ来つたもので、極めて明瞭である。ところが此他に貝といふ字に織物を現はす意味がある。これは貝といふ字そのものからは出て来ないものである。書経の禹貢〔書名〕には淮海〈ワイカイ〉といふ所の物産として織貝といふものが挙げてあります。その鄭註を見ると、織貝の貝とは錦の名なりとあります。又呉氏云ふ、其糸を五色に染めて之を織つて文〔もよう〕を成すものを織貝と云ふともあります。とにかく織物の名前であります。さういふ点から考へて、この貝といふ字は矢張り外国語であり、外国の音を写したものではなからうかと思はれます。
仏教の経典には古貝、或は刼貝といふ字が屡〻出てゐる。これは織物であり、梵語Karpasa の俗語Kappasaといふ字の音を写して古貝となしたのである。この古貝の上を略して貝ともいふ。古貝といふのは一切経の音義を見ると、木の花の名であるといひ、又以て布を造るべしともある。更に高昌には氎と名附く。カシミヤから南には大なるもの樹をなし、北の方では形が小さく、その状は葵のやうなものである。花から実が出来、実の殼が割れてふき出るものは柳絮〈リュウジョ〉の如く紡いで布を成し、之を用ひて衣を為るといふ。要するにカッパサーといふのは棉の木であります。而してヒマラヤ山の北と南とで木の大きさも違ふらしい。がとにかく花が咲いて実が成り、其殼が割れると綿がふき出て来る、それを紡いで糸にして着物を織るのであります。昔は木綿が珍らしかつたと見えて、絹と同様に尊ばれ王侯貴人でなければ綿服は着ることが出来なかつたらしい。で古代には支那へも西域南海の諸国から貢物として献上せられてゐる。この氎といふ字はこれも音を写したに過ぎないので、古くは単に畳と書いたが、後世綿の繊維から成れるにより毛を附し氎となしたので毛織物のことではない。而して此畳の名は高昌国の名称であつたらしい、が印度でカッバサといつた。尚ほ一切経音義の中には五色の氎ともあるから、色織物もあつたらしい。木綿糸を染めて織れば色々の模様の織物が出来るわけである。単に無地であれば白木綿である、若し然りとすれば、貝は禹貢には淮海の土産物として挙げてあるが果して土産物であつたらうか、或は南海地方から輸入されて来たものではなかつたかとも思はれる。さうして鄭註が錦の名なりといふのも頗る怪しむべきであります。又支那の学者は時として貝を解して貝の模様の織物だともいふが、これも恐らく貝字に附会した解釈ではなからうか。但し織物としての貝字は支那にあつても頗る古く用ひられてゐたやうであるから、これは必ずしも仏教伝来後始めて現はれたものではないのであります。〈244~246ページ〉【以下、次回】
文中、「刼貝」という言葉が出てくる。「刼」は「劫」の俗字。「劫」の読みは、キョウ(漢音)、コウ(呉音)、ゴウ(慣用)。
また、「氎」という字がある。原文では、そのツクリが、「疉」でなく「疊」となっているが、「氎」で代用した。ちなみに、「疉」と「疊」は同字だという。「氎」の読みは、チョウ(漢音)、ジョウ(呉音)。
*このブログの人気記事 2024・11・23(9・10位に極めて珍しいものが入っています)
- 一旅は五百人、五旅が一師
- 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
- 支那の文字で外国語の音をあらわすのは難しい
- 薩は、もとは薛土と書いた
- 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
- 松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
- イカヅチの語源は、霓突(ik. tut.)である
- 火野正平さんと柏木隆法さんと少年探偵団
- 読んでいただきたかったコラム・2017年後半
- 牧野富太郎はどのように英語力をつけたのか(付・...
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます