◎宮本晃男、九州でボロボロの民営バスに乗る(1946)
以前、『ワザと身体の民俗学』(批評社、二〇〇八)という資料集を編集したとき、その「あとがき」で、宮本晃男(てるお)の「九州の旅で」というエッセイを引用したことがある。
『自動車の実務』という専門誌の第二巻第一号(一九五二年一月)に乗っていたエッセイだったが、その後は、しばらく読み直す機会がなかった。
今年になって、片付けをしていたところ、その雑誌が出てきた。十数年ぶりに読んでみて、改めて名文だと思った。本日は、このエッセイを紹介してみたい。
九 州 の 旅 で 宮 本 晃 男
終戦の翌年だつた。酷使されて弱り切つたバスを、できるだけ手入してあふれるような旅客を、安全に運ばせたいと、国鉄バスの整備清掃月間が全国の鉄道局一せいに催された。
優秀な営業所には運輸大臣賞を授与することになり、新米の筆者は審査員長として最も遠方の九鉄管内を一巡することになり、外食券や米袋を背にして、戦前4時間余で飛んで行つた九州え超満員の夜汽車でゆられながら旅立つた。
各営業所(当時は自動車区といっていた)とも熱心な整備清掃ぶりではあつたが、何分雑帛にする布も、石鹸も、洗油も、塗料も、部分品も、工具類も、みんなないものづくめなので、しみじみ敗戦の苦しさと、戦禍の大きさに考え入ることが多かつた。
国営バスを見るのが主目的ではあつたが、この機会に民営バスの状況も把握しておこうと、一日〈イチジツ〉わざわざ切符を買つて山鹿〈ヤマガ〉発のバスを待つた。
車掌に案内された熊本行のバスは、よくもこれまで傷んだものと思われるくらい満身創痍のバスであつた。
ガラスのない窓、屋根には機統掃射のたまのあと、ラッカーはまだらに残つて、中のご粉〔胡粉〕が見えている。
ヘッドランプは片方だけついている。テールランプはあるが赤いガラスがない。
タイヤはきずだらけで、トレツドは減つて中のコード層がむき出しになつていた。
車内に入つてみて二度びつくりした。座席の内張りは靴ミガキのブラシになつてしまつたのかばねがはみ出しほうだい、床にはところどころ穴があつて地面が見えた。
私は運転の具合も見たかつたので運転席の橫のシ一トに腰を下した。
ほこりとあせにまみれ、ひぢに穴があき肩にもつぎのあたつた上衣にもんぺをはいた17,8才の娘車掌の合図でこのたよりないバスは定員の三倍近い超満員の客を乗せて走りだした。
お召し列車のようにいつ走り出したかわからなかつた。代燃車で力がないから静に出ないとエンジンストツプするからなのかと思いながら運転士を見た。
戦闘帽に、よれよれの国民服を着た五十を過ぎたやせたおやぢさんだつた。
計器盤に目をやると車は走つているのにスピードメーターは動かぬ、油圧計は針もガラスもなくこわれている。
水温計ももちろろんこわれつばなし、アンメーターはガラスはないが曲つた針だけが時々動いていた。
方向指示器はこわれつばなし、警音器は虫の鳴くようにかすかになることも ある。
ハンドブレーキはどこえもつて行つたものか全然ない。
変速テコは(日産バス)ギヤが抜けるので運転士が左足引かけて押えたまゝ走つている。
全く危険千萬だ。しかし乗つてしまつたことだし、あぶないようなら思い切つて注意してやろうと運転士と前方とを見守つた。
スピードは大分速く、38粁/時くらいで走り続ける。道はいたみつばなしだ、その凸凹 を私がここは右え、左えと思う通りに避けてハンドルを切る。
そして速すぎず、遅すぎず、あそこを通ればと思うところを通り抜ける。
あれ、この運転士は私の気持ちを知つているのかしら、と不思議に思つてきた。
こんなボロボロ車で、どうしてこんなに超満員でスピードが早く、乗心地よく走れるのだろう。
この運転士はどんな性質のどんな経歴の人だろう。お客も安心して気持よさそうに乗つている。車掌も楽々と超満員のお客をさばいている。
私はとうとう安心し切つて居眠りまでしてしまつた。
三時間余のドライブで無事熊本終点についた。私は乗客が降り終るのをまつて、運転士の肩をたたき、失礼ですがあなたは何年くらい自動車をおやりですかと聞いた。
運転士ばふしぎそうに、私の顔を見ながら、おはずかしいですが三十二年ばかりやつてますよ、と微笑した。
私は名刺を出し、私も二十年近く運転をしましたが、さすがにあなたは先輩ですね、あんなボロ自動車を上手に運転なさるので私は本当に感心しました。
どうぞ元気で続けて下さい。毎日多ぜいの人たちを無事に運ぶ事は大切な仕事ですからねと挨拶して別れた。
私は今でもあの運転士が生みだすあのバスの中の雰囲気、乗心地、あれも運転士のつくりだす芸の一つだと思つた。
バスの経営者がとかく年齢の若い、家族手当の少ない、しかも経験が浅くて給料の安い運転士を使いたがる間違いを反省し、重大事故で数千万円と金に代えられぬ貴重な人命をそまつにする愚を繰返すことなく、老練な、運転技術の一芸に通じた老練な運転士を優遇されるようバスに乗るごとに願つている。
これは乗合自動車事故防止の賢明な一方法でもあるから……
終戦の翌年というから、一九四六年(昭和二一)の話である。バスは、いわゆる「代燃車」(代用燃料車)で、燃料は薪だったと思われる。当時の宮本晃男の肩書きは不明だが、たぶん、運輸省鉄道総局所属の運輸技官で、国営バスを担当していたのであろう。
文中、「雑帛」とあるのは、原文のまま。あるいは「雑巾」のことか。
このエッセイについてのコメントは、次回。
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