◎放射線の「記録」か、それとも芸術作品か
一昨日、作家の備仲臣道〈ビンナカ・シゲミチ〉さんからメールをいただいた。写真集『放射線像』(皓星社、二〇一五)に対する御自身の書評が貼り付けられていた。よく読むと、同写真集の書評というよりは、同写真集に対し、画家の諏訪敦〈スワ・アツシ〉さんがおこなった書評に対する「反論」であった。
同写真集については、発行直後に手にとって、その妖しい美しさに魅了された思い出がある。私は、諏訪さんの書評を読んでいないので、諏訪さんと備仲さんの「論争」について、どうこう言うことはできないが、備仲さんが、ここで提起されようとしているのが、同写真集の評価をめぐる問題であり、ひいては、「政治」と「芸術」との関係という難しい問題でもあることは、何とか理解できた。
御本人の了解を得て、以下に、備仲さんの「書評」を紹介させていただく。なお、〔注〕、〈読み〉は、いずれも礫川によるお節介である。
『放射線像』について 備仲臣道
芸術作品は政治に奉仕するためのものではない。当然と言えるこの考えが、ビッサリオンの息子のヨシフという、髭のグルジア人〔スターリン〕がのし上がってきてからは逆転し、彼がイリアの息子の、おつむの涼しい革命政権の首班〔レーニン〕の死後を襲ってのちは、芸術は彼とその政策にもっぱら奉仕する犬に成り下がった。そればかりか、その勢いは世界の半ばを覆いつくし、これと闘って多くの人が文字通りに血を流した。誤った方針を莫大な運動資金とともに鵜呑みにした、日本の反体制勢力のなかには、死ななくてもいい命を失った者さえあったではないか。
いま、いわゆるフクイチ〔福島第一原子力発電所〕の事件以後──以後というのはこの際正しくないであろう。なぜと言うに、放射能という目に見えない怪物は未だにのさばり、東京電力は諸事にわたって隠蔽を続け、政権中枢は嘘をまき散らすことに終始しているから、事件は未だに進行中である。そうであるから無理からぬところはないとは言わない。言わないけれど、そうした「政治」に目をくらまされて、芸術作品を正しく評価できない人々が多くある、ということについてここでは書きたいと思う。
『放射線像』という本がある。この本は、放射線の姿を多く収めた初の書籍であるとともに、東京大学名誉教授森敏〈モリ・サトシ〉氏と、写真家・加賀谷雅道〈カガヤ・マサミチ〉氏の手による「放射線像プロジェクト」の記録でもある──と、諏訪敦氏の書評(『芸術新潮』二〇一五年五月号所収)には書かれている。それは確かにそうかもしれないけれど、これはどう見ても美しい写真集なのではないか。
事件の大きさ、厳粛さに目をくらまされて、放射線の記録としては大いに評価しながら、加賀谷氏の作品を芸術作品である写真という視点を以って、正当に評価する姿勢が決定的に欠落してしまっている。つまりは、そうした「政治」が、芸術作品を圧迫しているのである。フクイチの事件という政治に、哀れこの美しい写真たちは、その立場を失ってしまったのだと言っていい。
諏訪氏の書評では、「放射線が描き出す墨絵のように静謐〈セイヒツ〉な画面に魅了される私は、我が身にも降り掛かるかもしれない深刻な状況をさえ脇に置き、唯美しさに埋没出来る人でなし〈ヒトデナシ〉かもしれない」とまで書いていながら、しかもご自身は画家でありながら、どうして、写真を写真として、芸術作品という視点を持って見ないのであろうか。そうしてそれは諏訪氏ばかりではなく、多くの人が同様に考えているようである。これが、芸術が「政治」に圧迫されていると、私が言うところの根拠である。
これに引き比べ、美術家であり、写真家でもある薄井祟友〈ウスイ・タカトモ〉氏の書評は、このように書かれている。
《画像一点一点は額に収め絵として飾っても十分耐えうる魅力があると思う。しかし、それは楽しく喜ばしい画像ではない。しかし、アートの世界には狂おしく悩ましい表現も少なくはないから、私はページをばらし額〈ガク〉に入れて壁に掛けようと思う。この狂おしさを忘れない為にも。(薄井氏のフェイスブック・ページ、および、アマゾンのレビュー)》
ここには明らかに、写真として高く評価する姿勢が見て取れるのである。ついでに私見を書かせていただくならば、この本に掲載されている放射線像の写真の中で、「もみじ」「センダン草」「フキ」「羽」「真竹」などは、モノクロながら写真としての美しさを十分に持っており、とりわけ「羽」は秀逸であって、どうしてこれを表紙にしなかったのかと思えるほどのものである。
もう一度念を押して言うならば、この本は放射線像を可視化した、貴重な記録ではあるが、それよりも、優れて写真集なのである。
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