◎秩父宮は「反逆の皇子」だったのか
石橋恒喜『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「三 要注意青年将校の出現」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、「秩父宮に近づく」の節、および「秩父宮は〝反逆の皇子〟だったか」の節を紹介する。
秩父宮に近づく
また、彼〔西田税〕の手記によると、翌二十二日〔大正十年七月二十二日〕にも御付武官・厚東篤太郎〈コウトウ・トクタロウ〉らの目を盗み、「宮を擁して論争を敢てした」と述べている。その際、〔秩父宮〕殿下から「日本の無産階級は果たしていかなる思想状態にあるか」とのおたずねがあったとのことだ。これに対して彼の答えは、あらまし左のような意味のものであったと記している。
「わが国のいはゆる無産労働階級は、極度にしいたげられて、その生活すでに死線を越える奴隸の位置にあり、それは国民の大多数なるとともに、彼らは一部少数の特権階級資本家等のために天皇のご恩沢に浴し得ざる窮状に沈淪【ちんりん】している……日本改造すべくんば天皇の一令によらざるベからず……さらにこの明白なるを見る。天皇は国際的無産労働階級たる日本の首領にあらずや。国民の大多数を占むる無産労働階級と天皇とは離るベからざる霊肉の関係にあるもの。そが敵は日本を毒する外国と国内に巣くへる特権階級資本家どもなり……」
そして、殿下は「余は境遇やむを得ず。漸次下層社会の事情に疎遠を来すに至る。必ず卿らはしばしば報ぜよ」とおっしゃったと書いている。
七月二十八日、秩父宮は陸士をご卒業、東京麻布の歩兵第三連隊へ赴任された。連隊長は武川寿輔〈ムカワ・ジュスケ〉で、第六中隊へ配属された。この六中隊はのちの二・二六事件に際し、安藤輝三の指揮下に反乱の主力となった部隊だ。
秩父宮は〝反逆の皇子〟だったか
それでは、秩父宮は果たして〝反逆の皇子〟であったのだろうか。これについては、筆者の到底うかがい知るところではない。ここでは側近に奉仕した二人の「日記」を紹介して、読者の判断にまかせることとする。まず第一は、二・二六事件当時、侍従武官長だった本庄繁の「本庄日記」だ。日記は次のようにいう――
「当時(昭和六年末より同七年の初頭)は満州事変勃発に伴ひ、国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見る等特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、或日、秩父宮殿下参内、
陛下に御対談遊ばされ、切りに〈シキリニ〉陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが、其の後にて
陛下は侍従長に、祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政といふも、自分は憲法の命ずる処により、現に大綱を把持して大政を総攬せり。之れ以上、何を為すべき。又憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされたりと。誠に恐懼の次第なり」
いま一つは、当時、宗秩寮〈ソウチツリョウ〉総裁兼内大臣秘書官長だった木戸幸一の「木戸日記」だ。それにも天皇のお言葉として興味深い一文が記されている(二・二六事件さ中の昭和十一年二月二十八日の部)――
「……各皇族の御態度につき広幡〔忠隆〕(侍従次長)に御感想を御漏〈オモラシ〉になり、参考に総裁〔木戸幸一〕にも伝へよとのことなりしと。
高松宮が一番御宜しい。秩父宮は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた。梨本宮〔守正王〕は泣かぬ許りにして御話であった。〔閑院宮〕春仁王は宜しい。朝香宮〔鳩彦王〕は大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない。東久邇宮〔稔彦王〕の方が御判りになってゐる」
いずれにしても、殿下は兵士や庶民の悩みを自らの悩みとして受けとめられるお方であったように拝察する。従って歩兵三連隊内ではもちろんのこと、当時の新聞や国民の間の人気は絶大であった。確か昭和七年三月のことだったと記憶する。第一次上海事変で日本軍が苦戦に陥った時、東京第一師団の一部にも緊急出動命令が下った。歩兵第三連隊からは機関銃大隊が戦場へ馳せ向かうこととなった。「一部将校」のリーダーの菅波三郎中尉も出動部隊の一員であった。出動前夜、連隊内の大食堂で出動将兵に対する歓送会が開かれた。時の連隊長は巨漢の山下奉文〈トモユキ〉であった。
私はこの模様を記事にするため、カメラマンと連隊を訪れた。殿下は徳利を片手に居並ぶ下士官兵の席を回りながら、〝からだに気をつけよ〟と、いちいち激励のお言葉をかけられていた。翌朝の新聞に、私の感激をぶっつけたこの記事が、大きく紙面を飾ったことは説明するまでもなかろう。
また、同年九月、殿下は参謀本部第一部第二課勤務を命じられて、三宅坂へ通勤されることとなった。そして、昼休みになると陸軍省内馬場で乗馬の訓練にいそしむのを日課とされていた。私はいつも馬場の柵に寄りかかってこれを拝見していたが、色のあせた着古した軍服を召された謙虚な態度――もし一般の国民がこの場に居合わせたとしたら、誰も〝お直宮〟とは気づかなかったのではないだろうか。進級に際しても皇族として待別扱いされることを非常に嫌われて〝同期生並みにせよ〟と抜擢【ばつてき】進級を拒否されていたことも有名である。
この章は、このあとに、「幻の天剣党事件」、「震撼! 兵火事件」、〝海軍急進士官と「王師会」〟の三節があるが、いずれも割愛。
明日は、いったん、話題を変える。
今日の名言 2021・2・8
◎憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず
昭和天皇が本庄繁侍従長に語った言葉。「本庄日記」によるという。上記コラム参照。
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