礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ

2019-01-29 00:01:24 | コラムと名言

◎成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ

 これも、だいぶ昔の話だが、装丁家の臼井新太郎さんに頼まれ、『図書設計』という雑誌の第八二号(二〇一二年八月)に、「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」という文章を寄せたことがある。
 古い時刻表に「多古線」が載っているのを見て、この文章のことを思い出した。いま、『図書設計』誌が、すぐには出てこないが、入稿時のファイルは、すぐに見つかった。
 次のような文章である。

 戦中の自動車雑誌『汎自動車』から    礫川全次(在野史家)

『汎自動車』(自動車資料社)という雑誌がある。戦中の1940年に、『自動車界』、『自動車と機械』、『自動車文化』、『自動車雑誌』、『乗合と貨物』の五誌が統合されてできた雑誌で、1944年に終刊している。月2回、5日と20日に発行され、5日に発行される『汎自動車・技術資料』と、20日に発行される『汎自動車・経営資料』とがあった。
 図版で紹介したのは、1944年2月5日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙である。そこに見える自動車は、トヨタ大型B乗用自動車。戦争末期に試作された高級乗用車で、直列6気筒、排気量3389ccのエンジンを登載し、定員は7名。内装には、帝国美術院会員の和田三造画伯も関わったとされる。
 同誌同号の巻頭に「自動車の整備問題を繞つて」という文章がある。執筆は自動車資料社の山口安之助。その一部を引用してみよう。

 今日、整備員は、不良部品の配給に驚くと共に、それさえ入手困難と云ふ二重の悲鳴を挙げてゐる現状である。だが幸ひ、部品配給の円滑化と重点処置に就ては運輸省が目下折角立案中であると云ふから、専横なる配給、無責任なる不良部品の製造業者等はこの際徹底的に粛清されるものと思はれるが、不良部品製造業者などは時局下理屈なしに完全に抹殺すべきであると大声したい。

 火を吐くような告発である。当時の自動車業界の危機的状況、いや、戦時体制そのものの危機的状況を髣髴とさせる文章である。こうした中で、なぜか政府中枢は、トヨタ、ニッサン、ヂーゼル自工(いすず)の各社に対し、「高級自動車」の試作を命じていたのである。ちなみに、ヂーゼル自工は、トヨタよりも一足早く試作に成功している。その通称は、「大型いすゞ乗用車」。1943年12月5日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙には、同試作車の写真がある。
 さて、『汎自動車』は、1944年の4月をもって終刊する。戦局の悪化が、こうした雑誌の存続を許さなくなっていたのであろう。
 同年4月5日発行の『汎自動車・技術資料』終刊号には、「自動車整備工の挺進策」と題する座談会記録の後半部分が掲載されている。
 この座談会は、同年2月に開かれたものだというが、各出席者がずいぶんと思い切った発言をしている。東急電鉄自動車部の築山清は、「部品はコイルが悪くて困るね。何しろ5個買つて満足に使へるのが1個か2個ですからね」と言う。その2個にしても、一次線の巻き方が悪く、すぐ熱を持ってショートしてしまったらしい。
 東京都交通局自動車両課の大内巳之助もこう言う。

 大体物が少いといふのは前の方から話され尽きたと思ひますが、根本になると商人の根性から直さなければならないと思ふのです。コンデンサー10個に一つしか使へない。而も商人のその時の態度が恐れ入つてしまふ。これぢやア具合が悪いからと云ふと、それぢやア他所様からといつて売つてくれない。

 いずれも、2月5日号の巻頭言における山口安之助の「告発」を裏づける発言である。というより、山口は、こういった座談会を企画することで、当時の深刻な事態を、広く世間に訴えたかったのではあるまいか。
 いずれにしても、決戦下の産業界の内部でこの種の「荒廃」が生じていたことは、あまり知られていない。その意味で、この座談会記録は資料的価値が高いと考える。
 30年以上前に私は、『汎自動車・技術資料』十数冊を入手し、今でも愛蔵している。この雑誌には、上に紹介した記事以外にも、きわめて興味深い写真・記事・資料などが満載されている。以下に、そのごく一部を紹介しておこう。
 1942年5月5日発行の『汎自動車・技術資料』には、戦時下の朝鮮・清津市で使われていた「百人乗りバス」についての記事がある。おそらく、かなりのバス愛好家でも、このバスの存在は知らないのではないか。記事によれば、このバスは1940年に完成し、その翌年以降、計3輌が運行されたという。「トヨタ2600年」を改造し、もともと2軸4輪であったものを、4軸12輪(前方2軸4輪、後方2軸8輪)としている。朝鮮金属工業株式会社による製作だという。車幅は2.2メートル、全長は11メートル。
 骨組みの写真を見ると、エンジンは前置きで、そのエンジンの上に運転台を設けて、キャブオーバー型としていることなどがわかる。
 また、1943年6月5日発行の『汎自動車・技術資料』には、成田鉄道、成田・八日市場間(多古線)で運行された日燃式M-100型、および日燃式C-100型が、写真によって紹介されている。前者は木炭、後者は石炭を燃料とする(Mはモクタンの略で、Cはcoalの略か)。ともに、ガソリンカーを改造してガス発生炉を取り付けた、いわゆる「代用燃料車」である。なお、多古線は、1944年1月に休止され、戦後の1946年に廃止された。M-100型、C-100型の活躍は、長くは続かなかったものと推測される。

 ――以上が、その文章である。
 雑誌記事では、「トヨタ大型B乗用自動車」、「朝鮮・清津市の百人乗りバス」、「成田鉄道多古線)の日燃式M-100型車両、および日燃式C-100型車両」などの写真も紹介したが、ここでは割愛させていただく。
 文章の最後のところで、一九四三年(昭和一八)六月前後に、成田鉄道の多古線(成田・八日市場間)で、「代用燃料車」が使用されことを紹介しておいた。ところが、成田鉄道多古線は、一九四四年(昭和一九)一月に休止され、かわりに、省営自動車(バス)の運行が始まったという(ウィキペディア「多古線」の項)。
 いま、東亜交通公社発行の『時刻表』昭和十九年十二月号(通巻二三五号)の一三九ページを見ると、「八日市場・成田間(多古線)」という欄がある。左上にバスのマークがあり、「19.10.11改正」という注記がある。それにしても、「日燃式M-100型」、「日燃式C-100型」といった車両は、どこへ行ってしまったのだろうか。

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