礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大森実「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を読む

2024-12-13 02:43:50 | コラムと名言
◎大森実「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を読む

 大森実の「下山事件」論(1998)を紹介している。これは、2020年11月2日から5日にかけておこなった紹介の続きに当たる。
 本日以降は、大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を、何回かに分けて紹介してゆきたい。

 18 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ

 朝日新聞社会部の矢田喜美雄記者の血痕追跡捜査は、執拗に続けられた。それは、ジャーナリストとして敬意を払うべき努力であったが、彼の血痕追跡捜査を決定的に動機づけたきっかけは、 占領軍憲兵隊情報であった。
 東大の桑島〔直樹〕博士は、毎週二回、定期便のように、日比谷美松〈ミマツ〉ビルにあった米軍憲兵隊の犯罪捜査研究室に顔を出していた。当時では常識で、海外とのコミュニケーションを絶たれた日本の学究たちが、新しい知識を入手し得る唯一のルートは、占領軍の専門機関であった。
 私が、「チャーチルの肺炎を治癒したペニシリン」の存在を、社会面の大トップにしたのも、占領軍野戦病院の軍医ソースであったことが思い出される。
 矢田記者は、米軍憲兵隊研究所のフォスター軍曹が、D51651機関車が下山総我を轢断した現場から、北千住寄りに逆行すること四、五メートルの枕木から、下山総裁と同型のA型血痕を採取していた事実を、桑島教授を通じて知った。それは事件発生後十三日目の七月十八日のことであった。
 矢田記者は、早速、現場に足を運んだ。夏のことで乾燥が激しく、列車が通過すると砂埃〈スナボコリ〉が上がっていたので、問題の枕木を発見するには骨が折れたが、まず一本を発見、続いて、轢断現場から逆行すること十メートル付近の枕木にも削り跡を発見して、矢田は声を上げるところだった。
 鑿〈ノミ〉の削り跡は五本の枕木に八個所も発見された。矢田は、社会部記者のカンで、もっと探せば血痕が見つかるかもしれない、と思ったので埃をかぶった枕木を、ハンカチがボロボロになるまで擦りながら、血痕らしいシミを探し歩いた。彼の努力は実った。
 褐色に変色した血痕らしきものを、拾ったガラス片で削り取り、社に戻ると、薄いセンベイを剝ぐように血痕を採取することに成功したのであった。
 矢田は、この血痕を東大に運んで検査を依頼した。削り取った褐色の血痕粉末を、蒸留水に入れて白い粉末を添加して静かに振ると、フラスコ内の液体は半透明に濁ったが、濾過紙に垂らすと、目を奪うような鮮明な青緑の輪を幾重にも広げていくのであった。ここで、東大の研究陣が使った白い粉末はベンチジンという血液検査薬であった。
 矢田記者は、栗田純彦〈クリタ・スミヒコ〉記者の応援を頼むことにした。栗田君は私も親しい友人だったが、彼は東大農学部出身の変わりダネ。化学に精通していたので、矢田記者には強力なパートナーがついたことになる。
 矢田、栗田両記者の七つ道具を担いだ五反野〈ゴタンノ〉通いが始まった。
 矢田記者に高価な血液試薬ベンチジンに替わる、安価で素人でも使えるルミノール試薬を教えてくれたのは、東大法医学教室の血液学の権威、野田金次郎博士であった。ルミノール試薬は一九三六年、ベルリン大学のグレン教授の開発にかかり、日本海軍が輸入して武田薬品に製造させていたものだ。
 同博士が、「本郷界隈の焼け残りの薬屋なら持っているかもしれないよ」と教えてくれたので、矢田は専門家の栗田記者と二人で、本郷界限の薬屋をシラミ潰しに歩き回った末、赤門前の薬店で三本の小瓶を見つけ出すことに成功した。三百円也であった。
 ルミノール試薬は、ルミノールのアルカリ液と過酸化水素水(オキシフル)の混合液にへモグロビン誘導体のへミンを作用させて作った強力な発光化学物質で、黒い布地についた血痕とか、
 識別困難な条件下の血液測定に使う。血液を二万倍に薄めても、鋭敏に反応して発光するが、血液以外の物質には反応を起こさないため、初歩的で便利な血液試薬とされてきた。
 野田博士から、「なるべく深夜がいいよ」とアドバイスされたので、矢田、栗田両記者は七月二十三日午前零時を過ぎるのを待ちかねて、朝日新聞社の車にバケツ、ほうき、ぞうきん、懐中電灯、白チョークなどを積み、まるで鉱山師〈ヤマシ〉の服装で五反野現場に出かけた。
 現場に着くと、近くの農家の井戸からバケツ三杯分の水を汲み出し、ルミノール試薬を溶かして一升瓶に入れると、二人はそれをリュックサックで背負って轢断現場に運んだ。
 一升瓶から噴霧器〈フンムキ〉に入れられたルミノール試薬を、轢断現場から列車の進行方向とは逆行した方向の枕木に噴霧していくと、フォスター軍曹の削り跡より四本目に一個所、五本目に一個所、八本目に一個所、十本目も一個所。十一本目はマイナスだったが、十二本目に一個所……、十九本目で一個所、さらに三十五本目にも一個所の発光が認められた。
 両記者は息を呑んで作業を続けた。すると、四十三本目に一個所! そして四十七本目で、D51651機関車が走った下り線レールの枕木の蛍光反応はおしまいとなったので、そこで小休止。
 車の運転手酒井正雄も加わって、また一時間あまりの追跡作業が再開されたが、「あっ光る!」、「あっここもだ」、「あっこれは大きいぞ!」と次々に発見された蛍光は、轢断現場から、下り線レールを始発駅の日暮里駅に向かって逆行すること四十メートルもあった六十七本目の枕木まで。しかも、暗夜に怪しげな蛍光を発した点は、まるで酔っ払いが歩いたように左右に揺れながら、途中でD51651機関車が走らなかった上り線レールの枕木にまで発見されたのである。
 矢田記者は栗田と酒井に言った。
「下山総裁は普通人より巨体だったというから、死体の運び屋がよろめくように歩いた足取りがこれだ!」
 矢田記者はこの発見を翌朝、東大法医学教室に知らせた。同教室から報告を受けた東京地検刑事部は、部長検事以下六検事を出動させて、現場検証のやり直しをやったので、朝日新聞、東大法医学教室、東京地検刑事部による三連合捜査作戦は、にわかに活況を呈したのであった。
 東大裁判化学教室の秋谷〔七郎〕教授は、警視庁が保管していた下山総裁の着衣を再検査したが、着衣についた血痕様のものが、下着にまで浸透した大量の油と染料であることが分かった。
 死体解剖に当たった桑島博士は、矢田記者にこう告げた。
「解剖台に乗せたときから、二本の腕が妙に黒かったので、レール上を転がったときに付着した枕木の油性防腐剤かな、と思っていたが、警視庁から届いた遺品を見ると、その包装紙にまで油が沁みていたんだよ」
 三連合捜査作戦は、かくて、血痕追跡から、油と染料の追跡作戦に切り替えられた。
 間もなく、付着した油は植物油だと断定されたので、D51651機関車のものでも、枕木の腐食防腐剤でもないことが分かった。
 下山総裁の遺品についていた石膏が、塗料や彫刻用に使われる硫酸石灰だと断定され、次第に科学捜査は事件解明のリード(糸口、突破口)を解明していった。
 植物油の正体はヌカ油で、年間、関東一円で千トン製造されている。彼らは、このヌカ油を「下山油」と命名することにした。
 次は染料だったが、その正体は水溶性で、青緑、紫、赤、褐色の塩基性色素だと分かった。「下山色素」と命名されたが、捜査の網を絞り上げていくと、下山油と下山色素を使う業種は絹織物と皮革製品業で、鮮やかな色を売り物とする女性向け商品の業者だと推定された。〈246~250ページ〉

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