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王名曰卑彌呼宣帝之平公孫氏也

2018-06-17 04:39:57 | 日記
「晋書」 巻九十七 「四夷伝」

「舊以男子為主
 漢末倭人亂攻伐不定乃立女子為王名曰卑彌呼宣帝之平公孫氏也
 其女王遣使至帶方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢」

Y.A氏との付き合いが始まったのは この一文からだった

自分の店の客だった

プラモデルのミリタリーもののウェザリングが上手で
第二次大戦のドイツ軍に詳しかった

3Fの模型売り場でほぼ毎日店そっちのけで歴史の話で盛り上がった

宣帝之平公孫氏也

彼は 字句通り読み 卑弥呼は公孫氏であると主張し
自分は 宣帝が公孫氏を平定した時 と 解釈した

今 懐かしく思い出す
十数年議論を交わした

彼は酒もタバコもやらない

中華書局の24史を山積みし慣れない漢文を調べた
彼の家で 茶を啜りながら議論した

所謂 彼は純粋の右翼であったし
学生時代をそう過ごした

彼は 倭種の分布を半島全域と想定した

根拠は 遼史 金史である

自分も調べた
意見の相違はかなりあった

第4章 遼東郡の変遷

確かに 朝鮮は 初期の箕子朝鮮は遼東にあった
盤山郡 医巫閭山の麓で 引き連れた殷の遺民と共に原住民「濊・貊」や「粛眞」を治めた
医巫閭山はもともと満州語で「緑あふれる山」の意味

お風呂 山麓での宗教儀礼「禊」の原型である

おふろ ふる ふれ むろ むれ いむろ 
九州の「くしふる岳」 高祖山(たかすやま)の古名「くしふる山」
奇し(霊妙な)+ 医巫閭 + 岳 と想定する

もともと 
周に滅ぼされた殷の王族箕子(殷王族の姓は子である)が建国した朝鮮は満州の西南地域であった
箕子は 殷の28代王文武丁の子である

北に植民した一部は 「呉」の亡命民や「濊・貊」主体の「夫余」となり
長い時を経て 東に植民した一部は「殷」「東胡」「濊・貊」連合の朝鮮を保ち

遥か後 再び遼東半島を追われ
朝鮮へ亡命していた燕人衛満は 朝鮮を簒奪し王となり現代の平壌付近に居を構えた
漢の楽浪郡設置により
衛満朝鮮は瓦解し その一部は南下し馬韓の王たらんとするが消える


彼は朝鮮の源流を満州とした

特定の人々にとって
心地よい考えに見えたのだろう

韓国 北朝鮮と関連ある人々から先生と呼ばれた

自分はある意図を感じ 交際もまばらになって久しくなった

彼は倭の占拠を朝鮮半島全域に広げたかった
そのため 遼史 金史 史記 漢書などに散見する楽浪郡の比定地を満州に求めた



自分は 倭は南朝鮮の一部 
伽羅 任那 新羅が倭種の占拠地と限定した
新羅は倭種の一派であり
北九州の倭種の移動民と考えた

民族 国の捉え方も異なった

彼は 倭は民族国家であり朝鮮も民族国家とし 共に連綿と続く万世一系の単一民族と捉えた

自分は 倭も朝鮮も 多種の民族によって成り立つ混合部族連合と捉えた

中国では蛮夷が中原で覇を勝ち取れば 中華となり漢族となる
中華思想を信じ 中華文化に生きるようになれば 中国人とみなした

出自民族は関係なく 勝てば官軍の世界なのだ と

民族血統が異なっていても支配者になれば 中国の歴史の正当な後継者とみなされる
この考えは 朝鮮においても引き継がれた
勝って支配権を掌握した者が朝鮮の歴史の正当な後継者になれたのだ

仮想国家概念としての衣
漢の衣を纏えば漢族 倭の衣を纏えば倭族 朝鮮の衣を纏えば朝鮮族

人は移動するが土地は移動しない
現在の土地の歴史と 今住んでる民族の歴史は一致しないのが普通だ


意見が異なっていても 彼と議論するのは楽しかった

朝だ

こうやって生き残って・・・

日々が過ぎゆく


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