日本人ほど宗教に関して窓口の広い国はないでしょう。お正月は神社仏閣に初もうで。家を建てる時は神主さんを呼んでお祓い。クリスマスにはけーきをt食べて、死んだらお寺からお坊さんを呼んでお経を読んでもらいます。最近はクリスチャンではなくても教会で結婚式を挙げます。実は僕も教会で結婚式を挙げました。
やおろずの神様が日本にはいます。人口よりも神様のほうが多いくらい神様もいるのではないでしょうか。昨日も書きましたが今僕は法華経に興味があってそちら関係の本を読んでいます。霊友会から立正佼成会、創価学会とみんな法華経を信仰してます。創価学会は池田大作かもしれません。それにしてもお釈迦様が死んでから500年以上も過ぎてからできたお経が、本当にお釈迦様の考えを伝えているものかどうか、わかりません。しかし宗教には必ず原理主義がつきもので、キリスト教でもイスラム教でも原理主義は過激です。というより、自分の命も大切にできずに、他人の命を大切にできるはずがありません。
よりよく生きるためにあった宗教が時代の進化とともに、後退していくように見えて仕方ありません。それでも信じるものは救われる、というように、どんな宗教でもそれを心の底から信じている人は幸せです。僕も心から信じられる宗教に出会えれば嬉しいと思います。それでも法華経を経典とする大きな宗教が沢山あります。創価学会は法華経というより日蓮宗でしょうか、1千万人を超えた、話半分でも500万人の信徒を抱えているから公明党という党を持ち30人近くの国会議員を出せるのでしょう。それほど力を持ったありがたいお経ならためになるんだろうと、今勉強しています。
学生時代哲学に興味を持ち、カント、フッサール、キェルケゴールなどの本を読みましたが、正直言って何にも分からないということが、分かりました。但し地球上の生命体で悩み、苦しむのは人だけでしょう。結局時間というものがキーワードになりそうです。時間が解決してくれる、何も解決方法がない時は多くの人が口に出します。本当に時間が解決してくれるんでしょうか。時間が経つとともに、人は年をとっていきます。仏教では全ての苦は生まれたことから始まるといいますが、まさにその通りでしょう。生まれたのだから人はいろいろな問題にぶつかり、傷つき悩みます。そして最大の恐怖は死です。今生きている人で誰ひとり体験したことのないことであり、全ての人はいずれ士を迎えるのです。その士と係わるのが宗教です。
僕は父が死んだ時にお坊さんに立派な戒名を付けてください、と頼んだら、戒名というものはそういうものではありません、と叱られました。全くのつながりのないお寺に飛び込みで通夜と、告別式と、初七日と戒名合わせて20万円足らずしか、お坊さんは要求しませんでした。10倍の金額をよそうしていた僕はびっくりしました。母が父の仏壇に母の父、僕にとっては祖父ですが、日蓮宗なのですが、一緒に弔っていいのかきくと、大丈夫ですよ、と言って、毎年の盂蘭盆にはお経をあげに来てくれます。
イワシの頭も信心から、という言葉今の若い人は知らないでしょうね。僕も本当の意味は知りませんが、何でもありがたく拝めば神様になってくれるという意味でしょうか。さっき言った信ずる者は救われると同義語でしょう。確かにある期間不幸や災難が重なるということもあれば、あまりにもラッキーが続いて怖くなるという経験はないでしょうか。自分ほど世の中で運のない者はいない、などと考えていると、不運は不運を招くようです。その人の持ってる気、オーラが不運を招くのだと思います。
自殺する暗い勇気があれば、生きて行けただろうに、と他人は言いますが、自殺した人はそれだけ追い込まれて、もう身体と霊的なものがこの世にいなくなっていたのではないでしょうか。生きる義務と権利はありますから、死ぬ権利も持っていると、僕は思います。でも心に元気がなくなってきたら、早めに専門家のもとを訪れることは、重要なことだと思います。
明日は生きることを考えてみましょう。