伏見稲荷大社はインターネットの神様…伏見から全国へと布教が成功したのは一級街道の網の目だが、これを現在ではネットという。
まだ都が奈良にあった711年ごろに奈良から新天地を求め旅をする一族があった。この一族の総数は26名で家長は「伊呂具」という中国帰化系の秦氏の血筋になる。この伊呂具が深草の地を訪れこの部族の長でもある藤森神社の神主に一族を住まわせてほしいと願ったが、神主はこの地も狭くて人が住める土地はないといった。しかし、この神社より北半里のところに伊奈利山というのがある、その中腹には藤森神社境内の北の端の境界を示す末社の「藤社」という小さな祠があるが、ここならお連れの小さな子供2~3名なら雨露ぐらいはしのげるから貸してやるといってくれた。
そのころの京都というのは鴨川の右岸(西側)の堤防はなく雨が降るたびに水があふれ、一年を通しても湿地帯で人はとても住めなく原住民は鹿などの狩場にしていた。縄文時代から弥生時代の人は鴨川より東の森の糺の森(下賀茂神社)には北の部族「賀茂族」、南にこの藤森の藤族しか住んでいなかった。
そして東山も草木の一本もない中国の枯山水のような山でした。その伊呂具が借りた藤社の裏山も花崗岩できていて雨や風で風化した白い砂が川のように流れて鴨川の流れも大きく押し曲げていた。その伊奈利山から鴨川までの地名を「砂川」といい1400年前の地名を今も使っています。(砂川小学校など)
伊呂具一族が借りた祠の中は2畳ほどの広さで小さな子供3名をそこで寝起きさせ大人は花崗岩を掘って穴倉生活になったが、その山には先に穴を掘って暮らしていた狐の家族の穴も数500もあった。伊呂具は家族を二つに分けて一斑は近くの鴨川や沼地で鯉、なまず、うなぎ、夏には鮎、そして鹿や猪、うさぎを獲っていた。元々この伊呂具らというのは土木、植林、稲作、魚師の専門集団で鴨川での漁は連日の大漁だった。もう一斑はこの藤社から大和街道までの参道の整備だった。この距離は約200メーターだが、大量の砂の撤去に一年はかかっていた。この大和街道というのはまだ京の都はなかったが、北国、信州、近江、関東から奈良の都への一級国道だった。
伊呂具はこの大漁の魚や鹿、猪を売って金に換えて苗木を買って山に植えて砂の流失をストップさせていたから、この大和街道を旅する商人からも喜ばれていたが、さらに伊呂具は整備した藤社の参道入り口に「無料湯茶接待所」という看板を立てて旅人を藤社にお参りさせていた。湯茶接待所には伊呂具の娘らを巫女さんに仕立てて接待したものだから、若い旅人からお年寄りまで喜んでいただけではなしに、その噂をインターネットのごとくここを起点にして北国の若狭から新潟、信州から関東、奈良から大阪、四国、中国、九州の地まで藤社の人気はうなぎ登りになった。
やがて藤社は「伊奈利神社」と社名を変更して五穀豊穣と今でいう「旅の交通安全」のお守りまで売って旅人のお土産にもなった。そして直営の茶店も参道に数店だしたものだから金はどんどん入ってきた、しかし、伊呂具はそれを社殿の建造にすべて使っていたから、この地の持ち主の藤森神社より社殿は大きくなったのです。元々藤森神社は藤族300名ほどの守り神でしたのでそんなに裕福でなかったた。そこで藤族の人々は「ひさしを貸して母屋を取られたとか、伊奈利神社は商売が上手い」と噂していたが、その噂から伊奈利神社は「商売の神様」になったのです。
それから80年後に長岡京から京都に都が移された。天皇も公家も商人もすべて新しい都にお引っ越しをしてきた。都の外には見渡す限りの田園(伏見、淀、九条、西七条、鳥羽)が広がった。それまて旅の交通安全を売りにしてきたが、こんどは社名を「稲荷神社」に再び変更して五穀豊穣の神として京都の都の農民をお得意様にして、商売繁盛、五穀繁盛の神として衣替えををして現在に至っています。
それから1300年も伏見稲荷大社は藤森神社から土地を無償で借りてまだ返していません。島根県の竹島に韓国軍、沖縄には米軍、そして北方四島にもロシア軍がいるようになかなか実行支配されたら歴史的にも法律的にもこの伏見稲荷大社の土地は藤森神社の物だが、理屈では通らないということを教えてくれたのも稲荷神社になります。
この伏見稲荷大社の支店というのか分社(○○稲荷神社)は全国で3万社とも5万社ともいわれていますが、この伊奈利神社が発展したのは一級国道に神社を置き、そこを起点に全国に情報を発信したおかげですから、もう伊呂具は1300年前に現在のインターネットを考えていたのかもわかりません。ということで、これからの伏見稲荷大社は「インターネットの神さまに大変身するかも知れません。
この小説「伏見稲荷大社の物語」は98話まで書けています。音川伊奈利
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