京都ふち歩き3回目。
今回は前回の終点上賀茂神社を出発し、東へと向かい京福電鉄の宝ヶ池駅までを歩きます。
上賀茂神社までは、京阪出町柳駅からバスで向かいましたが、上賀茂神社の背景を遠望したいと思い、鴨川のひとつ下流にある上賀茂橋で降りて川沿いに歩きました。そうすると、幸運なことに御土居を発見。この御土居はまさしく鴨川に備えたもので、現在の堤防と平行に作られています。北端で西に曲がっています。ここから北は洛外ということですね。
御土居の北端の横が上賀茂神社にわたる御薗橋。ここから鴨川の上流を眺めると、落差工の上の段は砂州が左右に分かれていますが、その上の段はまんなか、さらにその上は左右と交互になっています。
御薗橋からは上賀茂神社の背後の山が見えます。実はこれを上賀茂神社の神体山と思っていましたが、間違っていたことに気付きました。
これは境内にある立砂(砂できずいた山)の説明ですが、上賀茂神社の神籬(ひもろぎ、神体山のこと)は、ここから北北西2kmにある神山であると説明されています。
立砂のすぐ近くにある手水舎の水は、この神山のくぐり水と説明されています。くぐり水とは湧水ということでしょうか。
では、神山はみえるのでしょうか?鳥居前の案内図の左上に神山の姿が描かれています。
大きくするとこんな感じですが、鳥居越しには木が茂っており見えませんでした。
しかし、駐車場に入る道からは見えました。
拡大してみましょう。
このような説明板も立っています。
前回、柊野堰堤に向かう途中で鴨川の東側に山が見えました。この写真ですが、ここに写っている右側の山のようです。
さて、上賀茂神社の境内には美しい小川が流れています。前回ふれましたが、この川の水のかなりの部分は鴨川から来ています。
そこで見たキセキレイ。谷川の景色のようです。
小川の一部は曲水の宴を行う庭園につながっています。
庭園には大きなスダジイがありました。
小川のつづきは社家の町つまり神主さんがすんでいる町へとつながっています。このあたりは掘割といったほうが良いでしょうか。
この写真の右側に邸内に水を取り入れる口が見えます。
社家の街を流れた小川は藤木社の前で大きく曲がり、南へと流れていきます。
この場所で北の街の中へと進みました。角にある井関家も社家の家ということです。
このあたりを歩いていると、警官が数人あわただしく駆けつけました。なにごとかと思うとどうやらサルが出たようです。
さらに道を曲がって進むと大田神社に出ました。大田神社には有名なカキツバタ群落があります。この神社の前には北大路魯山人の生家跡という石碑が建っていました。
大田神社は賀茂地域で最も古い神社ということです。カキツバタ群落は京都が湖水であった時代の名残でかつてはここも湿地だったとか。思うに中世以後の土木工事で大規模な水利網ができる以前はこうした湿地や湧水が重要な水源であって、そうした重要な場所が聖地として祀られたのではないでしょうか?・・と想像です。
大田神社から東に進むとしゃれたイタリアンの店がある地域をぬけて深泥池(みぞろがいけ)に出ました。ここは有名な天然記念物でミツガシワやカキツバタなどの希少な動植物が見られます。大田神社のカキツバタは現在では水が枯れることもあり、水の補給をしたり肥料をやったりしていると看板に書いてありましたが、この池のカキツバタは完全な野生でしょう。先日京都文化博物館で洛中洛外図を見ましたが、古い図では深泥池も描かれ、カモ猟などをしていたようです。
深泥池からさらに東に行くと宝ヶ池公園の運動施設に出ました。宝ヶ池公園はこの北側の山向こうもそうですが、ここはグランド専用の場所です。背後に五山送り火の「妙」の字の山があります。へんとつくりの間に谷間があります。
さらに進むと道路沿いに水路がありました。
水路は北東方向へ進みます。
住宅地の中でさらに大きな水路に合流しています。
そして高野川につながっていました。
この先は京福電鉄の宝ヶ池駅です。ここできょうは終わりにしました。
鴨川、高野川からの立派な水路にはさまれた大田神社から深泥池にかけての地域は、水路網が整備される以前は大田神社付近の湿地や深泥池からの水利を利用していた地域だったのではないか?それにより古くから人が暮らしてきた。古い社が残されているのはその証拠ではないかと想像しました。
また、上賀茂神社の神体山が神社から遠く離れていることも気になりました。神山は柊野の北端にあたります。もしかすると鴨川からの水利ができる以前は神山の湧水が柊野の水源だったのではないか?と想像しました。はたしてどうでしょうか?
(地図を間違えておりましたので、修正しました。3月9日)
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