kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

鎌倉殿の13人 第17回 助命と宿命

2022-05-05 18:30:17 | 鎌倉殿の13人

第17回  助命と宿命


義仲の陣を離れた巴御前ですが

頼朝軍に捕まり、鎌倉に連れてこられてしまった




巴御前に関する資料は少ないらしのですが

巴はとにかく武人としての才能が高かったようですね

その上、容姿端麗

義仲の幼なじみで武芸の稽古相手になったり

便女(びんじょ)として彼の配下となったとか

ただ、義仲との離別の場面はどの物語にも描かれているそうです

戦場で追い詰められ、

義仲は共に討ち死したいと言う巴に対し

生き延びるようにと説得し、逃した

巴が草深い道をふらふらと歩いて行きましたね




義仲よりの文を義時に渡す場面


義仲は義経、範頼の兄弟軍に討たれた

更に頼朝は人質の義高を討つつもりだ


「義時よ、三日やろう  義高を討て」

義時がその任務を課せられた、宿命と悟った

頼朝に逆らえば北条は生き抜くことは出来ない


だが姉の政子は違う、何が何でも義高を助けたい

そこで伊豆山権現に隠すことを考える

義高は巴から受け取った義仲の文から父の思いを知り

いちどは伊豆山権現に行くことに納得したのだがやはり

義高は

「私は鎌倉殿を決して許さない」

なんと義時をも信じないと言うのだ

そうなれば、結果は自ずと…

義高は信濃へ帰ろうとした

だが逃げ出すや否や、義高は討たれてしまった

大姫の命覚悟の願いに頼朝も屈し

「討つな」との命を出したのだが…

家人たちに伝わるのが遅かった


この時、政子のひと言が如何に大きな波紋となるか

御台所という立場がどれほどの力を持つか

前に亀さんの言った言葉

「自分が本当に鎌倉殿の妻として相応しいのか考えなさい」



鎌倉の人々は、誰を信じればいいのか分からなくなって

皆敵に見えて来ていたのかもしれない

鎌倉は海も島も、あんなに美しいのに



逃げ切れなかった源義高、冠者殿
ほんとに美しかったですね
目の保養が出来ましたよ、今生での5本の指に入る美形でした



大姫と無邪気に毬で遊ぶこともあった、12歳なのですよね






いよいよ我が身に危険が近づいてきたことを悟ったか






故郷の信濃で生きて行くと、文を残し逃亡




追手が来た




山の中を駆けるが…


源義高は鎌倉の常楽寺の木曽塚に眠っていると伝わります


それから、静御前が登場しましたね



白拍子の静御前

ちょっと挑発ぎみのような

義経には初恋かな、セカンドラブかな

史実を知らないので、このドラマわくわくします



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鎌倉殿の13人 第16回 伝説の幕開け

2022-05-05 17:45:26 | 鎌倉殿の13人


第16回  伝説の幕開け


義仲の寝覚の山か月悲し  芭蕉

木曽の情雪や生えぬく春の草  芭蕉

木曽殿と背中合せの寒さかな  又玄

木曽塚の夏艸ひくも宿世かな  兼輔


巴(を歌って)

かくのごときをみなのありとかつてまた
おもひしことはわれになかりき

としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬの
みづうみのうへをわたりゆく月

三浦義一







巴御前は義仲が亡くなり数年後
尼僧になって訪れ寺のそばに草庵を構え
日々、義仲の菩提を弔ったそうです
「無名庵」と呼ばれ、
今は一般に句会や文化活動の会所として利用させてもらえます




木曽義仲のお墓

お墓の後方の白壁の建物が無名庵です
当時のままではないでしょうね




↑巴御前の小さなお墓




木曽義仲は
平安時代末期の信濃源氏の武将、源義賢の次男
『平家物語』においては旭将軍とも呼ばれている

以仁王の令旨によって挙兵
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する

頼朝や義経を同志と信じ源氏再興を目指したのでしょうね
しかし平家を京から追放したあと
後白河法皇には嫌われ、東国の源頼朝からは圧力を受けた

義仲は頼朝が派遣した義経を大将とする源氏軍に
粟津(近江)の戦いで討たれてしまいました

ドラマの場面では、矢が義仲の顔を射貫くという何とも
残虐なシーンはいたたまれませんでした


義仲に寄り添い命も惜しまず戦った巴御前、素晴らしい
時代祭でも一番輝いています

義仲は陣から巴を逃がしてましたね
巴はその後、どこでどの様に生きたのでしょうか
色々あったのでしょう
義経同様、各地に巴御前伝説が残っているようです




「鎌倉で生き残ろうと思えば、頼朝の言う通りに動くしかない」
と、時政は義時に言いました

あの、上総介廣常を謀反人に仕立てて殺した頼朝のやり方
坂東武者は震えあがっていた

裏のある話ばかりで皆の心が分からなくなってしまいました

ほんとに、だまし討ちだらけで信じられることがない

血塗られた鎌倉


義仲は、最後まで頼朝や義時を信じていたようです

いや、信じたかった!のかもしれませんが

鎌倉に人質となったままの息子の義高はどんな思いでいるのか

政子、実衣、大姫は義高の見方の様です



義経は、先陣の大将として福原へと進んだ

この事にもいくつかの戦略があり

梶原景時が、自分が思い付かなかったと悔しがったほどの

妙案だったらしい









宗盛はここへは源氏は攻めてこないと安徳天皇に伝えていたが…



寿永三年(1184)二月七日  一の谷の攻防が始まった

それを見ていた梶原景時は言った

「八幡大菩薩の化身じゃ」


義経は西へ平家を追い次々と、打倒した

戦の天才とうたわれた義経、この強さは何をもたらすのか

義経伝説は始まった






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