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村上春樹の「街とその不確かな壁」を読んで

2023-06-30 23:21:46 | 日記
今回の村上春樹の新作は、1冊で600ページ以上の大作である。そしてこの作品からは、コロナ禍とウクライナ戦争に触発されたことが微妙に察知できる。多分そうした影響が無ければ、やはりこの物語は生まれなかったのではないか。尤も作者自身は、20世紀に文学誌に発表した短編で、かつて出版されなかったものを焼き直したのだと述べている。しかもこのお蔵入りした当時の小説は、1985年にベストセラーになった「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」の原型でもあった。

ただそれでも40年ほどの時が経過し、ここ数年で大きな天災と人災に遭遇した人類の一員としての真摯な問いかけが、作家独自の視点から現代を映す鏡のようにして感じられた。既にメディアでの書評も含めて賛否両論が渦巻いているが、正直、個人的には数多い村上作品における最高峰だと申し上げたいくらいである。特に私自身「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」が、この作家の作品を多く読むきっかけになったこともあり、「街とその不確かな壁」の物語世界へはすんなりと没入できた。また「世界の終わりとハードボイルド•ワンダーランド」は、「世界の終わり」と「ハードボイルド•ワンダーランド」という2つの物語が並走して成立しているパラレルワールドであり、「街とその不確かな壁」は「世界の終わり」のその後が丹念に描かれている。

物語は3部構成になっており、主人公は語り手の「私」で、年齢は40代と思しき男性だ。第1部と第3部の彼が暮らす街には巨大な壁が歴然と佇立しているが、第2部では壁は主人公の記憶の中に在る。この辺り、実に村上春樹らしい異界なのだが、興味深いのは壁が人間社会において、漠然とではあっても、圧力の象徴になっている点だ。つまり外在的には組織に属する個人が、巨大な壁によって移動を制限され、選別されてしまう実態は、自由を奪い国民を支配する全体主義国家を想起させる。特に巨大な壁に囲まれてそこで暮らす第1部と第3部に登場する人々と特殊な家畜のような単角獣たちは、壁に対し従順であり、壁への不信が無い。ただし主人公を除いては。それゆえ私たち読者は、このような壁の存在に得体の知れない不条理な圧力を感じざるを得ない。また私たちが今現在、生きている地球上においてさえ、民主的な国家よりも非民主的な国家の方が多いことを鑑みると、空恐ろしくもなる。

そして第2部、巨大な壁の無い街では内在的に、登場人物たちの心に潜む壁に関し、読者は考察を余儀なくされる。そこでは当然のこと壁に対する見方は複合的であり複雑怪奇になってくる。たとえば人間社会におけるコミュニケーションにおいて、心の壁の影響力たるや計り知れないものだ。意識的であれ、無意識的であれ、心を閉ざすという状況が訪れた場合、そこには壁が立ちはだかっている。特に危険なのは国政を担う為政者が心に壁を作ってしまうと、そこからの意志決定は恐慌的な人災に及ぶ可能性さえあるからだ。実際、アメリカ合衆国大統領在任中にメキシコとの国境に壁を建設しだしたドナルド•トランプの心には、それを実行に移す前に移民への偏見が壁となって存在していたと思われる。またそもそも戦争を引き起こす為政者の心には、他者を排他的に削除する壁が堅固に聳えているといえるだろう。

物語の全編に渡りその背景となる舞台は、第1部、第2部、第3部を通して、自然が美しい日本の地方都市のようだが、この作家の作品に親しんでいる読者にとって、そこは懐かしかったり、居心地が良かったりする土地であり、安心してその情景を味わうことができる。そして第2部に主人公の前に現れるカフェを営む女性は、超越的な記憶力を有する博識者症候群の少年と共に、この2人は最重要人物であるのかもしれない。主人公には思春期からずっと心に決めて想い慕い続けている女性が存在し、彼女は謂わば物語のヒロインなのだが、同時に幻影か空想のような印象の人でもある。しかもこのヒロインを含めた他の人々が、幽霊のように希薄な佇まいで主人公と関わりながら、自然体で誠実に話を交わしている。また本物の幽霊までも現れて、主人公に良き助言をしてくる辺り、実に村上春樹らしい小説空間だ。

このカフェの店主の女性と、博識者症候群の少年の存在感は、そうした背景に溶け込んでいるような人々よりも、かなり輪郭がはっきりしている。そして彼女はガルシア•マルケスの小説の愛読者で、現実と幻想が混在し共生したようなその世界に惹かれると言う。ここでほんの少しガルシア•マルケスに関して述べておきたい。マルケスはコロンビアの作家で、20世紀に中南米文学が世界的に評価された頃に、その代表的な作家として注目され、1982年にノーベル文学賞を受賞している。しかしながらマルケス個人は、中南米という地域性や魔術的リアリズムとも評される表現だけでは解釈できないほど文学的才能が豊かだ。私はマルケスがノーベル文学賞を受賞して以降に、彼の存在を知った口だが、図書館で借りて読んだ「百年の孤独」にはいたく感動させられた。特に心に残った印象的シーンは、死んだ後も故郷の木に繋がれた状態で、家族の行末を案じる老爺に、生きている妻の老婆が悲嘆にくれ、亡き夫に縋りついている姿である。この老婆にとって幽霊の夫は、時空を超えて存在しており、彼女が絶望に直面した時に、妻の傍に寄り添うことで最大級の慰めになっている。そして妻の絶望は、立身出世を遂げた息子が内戦で虐殺を指揮した権力者になってしまったことによる。

このシーンに限らず、マルケスの小説には、幽霊が登場することが多い。村上春樹の新作の第2部でカフェを営む女性が指摘するのは「百年の孤独」ではなく「コレラ時代の愛」だが、この「コレラ時代の愛」にも幽霊は現れる。多分、彼女がマルケスの創造した物語に肯定的なのは、そこに理想を切り捨てられない優しさが残っているからだ。これは彼女の言葉尻や仕草から何となく伝わってくる。この第2部は巨大な壁が無い世界であり、私たちが身近に感じられる日本の地方都市なのだが、その分リアルに日本社会の問題点も浮き彫りになっている。そこでは彼女は少数派の異端者である為、疎外感や孤独を感じざるを得ない。

そしてこれは第2部から登場する謎の少年、人の生年月日から瞬時に、その人が何曜日に生まれたのかを答えられる博識者症候群の彼もまた同様であろう。ただこの少年が、カフェ店主の女性と明確に違うのは、今そこにある環境から決別し、別次元の環境への飛躍を目指しているところだ。不登校となり図書館に通って読んだ本を一言一句漏らさず、自分の記憶に貯蔵できるがゆえに、彼はその異能さから学校はおろか家庭でも孤立している。主人公はこの謎めいた少年との接点を持つことになるが、それは第1部と第3部の世界、つまり巨大な壁に囲まれた街の地図であった。ここで意外なのは、この少年が壁の佇立する別世界への逃亡を願っていることだ。その理由は、そこには本ではなく、夢を読める不可思議な図書館が存在するからである。

ただ主人公との会話の中で、少年は彼なりに壁の存在する街が理想郷ではないことを感知しており、民主主義的社会の第2部の世界から、全体主義的社会の第3部へ、ある特別な方法で移動することで、全体主義的社会を変革させる強い意志を持っているように思える。それは彼が主人公へ、信じることの大切さを訴えていることから理解できる。またこの謎の少年の姿には、現実に私たちが遭遇している悪化した世界情勢に対してノーを突きつけだした若者たちに共感し共鳴するイメージもあるようだ。そして現在の気候変動や疫病それに戦争といった重大な諸問題を、人類が解決し克服できることを信じようという作家からのメッセージのようにも私は感じた。冒頭でも述べたが、この「街とその不確かな壁」は、ひよっとすると村上春樹の最高峰なのかもしれない。大変お薦めの作品である。

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