映画技法の“モンタージュ”について『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。
<モンタージュ(Montage)は、映画用語で、複数のカットを組み合わせて上映する事によって新しい意味を生み出す技法の事。元々はフランス語で「編集」という意味。
1925年、ロシアの映画監督であるセルゲイ・エイゼンシュテインがモンタージュ理論を確立し、その優れた実例として映画「戦艦ポチョムキン」を発表して世界の映画に影響を与えた。芸術的なテクストにおいて冗長性は敵であり、いかにこの冗長性を乗り越えるかがモンタージュの、そして芸術の問題であるとした。>
『芸術的なテクストにおいて冗長性は敵であり・・』ってところの“テクスト”って何だろう? textには間違いないんだろうけど、日本語で言えば何になるのかな?
『冗長性は敵』か・・。
考えてみれば映画全体がモンタージュで出来ていると言ってもいいですよね。
映画が分かり始めた頃には、この“モンタージュ”がちゃんと出来ているかが気になったもんです。ヒッチコックやワイラーなど、いわゆるクラシック映画はそれが分かり易い。良いモンタージュか悪いそれかも。
昔の日本のTVドラマでも、例えば山田太一さん脚本の「岸辺のアルバム」とか「それぞれの秋」なんてドラマの演出はキチンとモンタージュされていました。演出家の鴨下信一さん、井下靖央さんの名前はこの頃覚えましたね。今も活躍されているはずですが、コチラが日本のTVドラマを見なくなったので、とんとご無沙汰です。
モンタージュを観るときには当然各ショットが気になります。カメラの位置によって被写体がアップで撮られるのか、ミドルで撮られるのか決まるし、カメラアングルで俯瞰で撮るのか仰角で撮るのか、同レベルで撮るのかも決まる。それぞれで画面の印象が違うし、組み合わせかたでも全然違った受け取め方になる。長いカットにするか、短くカットしていくかでも違う。更には、移動撮影を入れるか。移動撮影は被写体と一緒にカメラが動くのか、カメラは固定で被写体を追っていくのかetc。
それらの工夫されたショットが演出家の意図する効果を観客に与えるように、モンタージュされているか。その辺を観るのが楽しいんですな。
カット毎に絵コンテなるものまで作っていると知ったのもその頃でした。最近の映画を見ていると、コンテ無しで作っているような印象のモノもありますネ。
短いショットのモンタージュで、ショッキングな効果をあげた例の最右翼は「サイコ」のジャネット・リー殺害のシーンでしょうか。
モーテルでシャワーを使っている女性が殺人鬼に襲われるシーン。使われているショットは、次のようなモノ。
・シャワーを浴びている女性の顔。
・シャワーカーテンにかかる殺人鬼の手。そして、開ける。
・驚いた女性の目。
・振り上げられるナイフ。
・悲鳴を上げる女性の口。
・何度も、降ろされるナイフ。
・両手で防御している女性の顔。
・殺人鬼の腕。
・血が流れている裸足の脚元。
有名な映画なのにキチンと観た記憶がないので、間違っているショットもあるかも知れませんが、大凡そのようなごく短いショットがモンタージュされ、戦慄的な殺害シーンが作られていました。
先日観たウディ・アレンの「インテリア」の別荘での結婚式の夜のシーン。
再婚する父親の内輪の結婚式に海辺の別荘に集まった三人姉妹と旦那さん、新妻、神父さん。式の後のパーティでは、それらの人々の動き、表情を見事なバランスで描きながら、踊りに夢中になった新妻が誤って前妻の残していた花瓶を割ってしまうまでがモンタージュされていました。
ほろ酔い加減に気持ちよく踊っている新妻。それをニコニコしながら見ている夫。そんな二人を苦々しく見ている次女。冷ややかに見ている長女。花瓶が床に落ちて割れたところで、次女が新妻をなじるまでがひとまとまりのシーンでした。
70年以降の映画ではめまぐるしくカットも替わり、表現方法も複雑になっていますので、クラシック作品の様に分かり易くはないですが、古い良い作品を観るときには“モンタージュ”を楽しみたいですね。
<モンタージュ(Montage)は、映画用語で、複数のカットを組み合わせて上映する事によって新しい意味を生み出す技法の事。元々はフランス語で「編集」という意味。
1925年、ロシアの映画監督であるセルゲイ・エイゼンシュテインがモンタージュ理論を確立し、その優れた実例として映画「戦艦ポチョムキン」を発表して世界の映画に影響を与えた。芸術的なテクストにおいて冗長性は敵であり、いかにこの冗長性を乗り越えるかがモンタージュの、そして芸術の問題であるとした。>
『芸術的なテクストにおいて冗長性は敵であり・・』ってところの“テクスト”って何だろう? textには間違いないんだろうけど、日本語で言えば何になるのかな?
『冗長性は敵』か・・。
考えてみれば映画全体がモンタージュで出来ていると言ってもいいですよね。
映画が分かり始めた頃には、この“モンタージュ”がちゃんと出来ているかが気になったもんです。ヒッチコックやワイラーなど、いわゆるクラシック映画はそれが分かり易い。良いモンタージュか悪いそれかも。
昔の日本のTVドラマでも、例えば山田太一さん脚本の「岸辺のアルバム」とか「それぞれの秋」なんてドラマの演出はキチンとモンタージュされていました。演出家の鴨下信一さん、井下靖央さんの名前はこの頃覚えましたね。今も活躍されているはずですが、コチラが日本のTVドラマを見なくなったので、とんとご無沙汰です。
モンタージュを観るときには当然各ショットが気になります。カメラの位置によって被写体がアップで撮られるのか、ミドルで撮られるのか決まるし、カメラアングルで俯瞰で撮るのか仰角で撮るのか、同レベルで撮るのかも決まる。それぞれで画面の印象が違うし、組み合わせかたでも全然違った受け取め方になる。長いカットにするか、短くカットしていくかでも違う。更には、移動撮影を入れるか。移動撮影は被写体と一緒にカメラが動くのか、カメラは固定で被写体を追っていくのかetc。
それらの工夫されたショットが演出家の意図する効果を観客に与えるように、モンタージュされているか。その辺を観るのが楽しいんですな。
カット毎に絵コンテなるものまで作っていると知ったのもその頃でした。最近の映画を見ていると、コンテ無しで作っているような印象のモノもありますネ。
短いショットのモンタージュで、ショッキングな効果をあげた例の最右翼は「サイコ」のジャネット・リー殺害のシーンでしょうか。
モーテルでシャワーを使っている女性が殺人鬼に襲われるシーン。使われているショットは、次のようなモノ。
・シャワーを浴びている女性の顔。
・シャワーカーテンにかかる殺人鬼の手。そして、開ける。
・驚いた女性の目。
・振り上げられるナイフ。
・悲鳴を上げる女性の口。
・何度も、降ろされるナイフ。
・両手で防御している女性の顔。
・殺人鬼の腕。
・血が流れている裸足の脚元。
有名な映画なのにキチンと観た記憶がないので、間違っているショットもあるかも知れませんが、大凡そのようなごく短いショットがモンタージュされ、戦慄的な殺害シーンが作られていました。
先日観たウディ・アレンの「インテリア」の別荘での結婚式の夜のシーン。
再婚する父親の内輪の結婚式に海辺の別荘に集まった三人姉妹と旦那さん、新妻、神父さん。式の後のパーティでは、それらの人々の動き、表情を見事なバランスで描きながら、踊りに夢中になった新妻が誤って前妻の残していた花瓶を割ってしまうまでがモンタージュされていました。
ほろ酔い加減に気持ちよく踊っている新妻。それをニコニコしながら見ている夫。そんな二人を苦々しく見ている次女。冷ややかに見ている長女。花瓶が床に落ちて割れたところで、次女が新妻をなじるまでがひとまとまりのシーンでした。
70年以降の映画ではめまぐるしくカットも替わり、表現方法も複雑になっていますので、クラシック作品の様に分かり易くはないですが、古い良い作品を観るときには“モンタージュ”を楽しみたいですね。
私はずっとこのスタンスで映画を観てきたわけですよ。
textの意味は命題ではないですか。冗長性は敵ですね、正に。
昨今の作品は眼が痛くなるほどカットが短いのですが、昔は数カットですましたのを何十カットも使い余すから場面全体となると長くなります。
短いカットの積み重ねに観客はテンポが良いと勘違いを起こしますが、実際には昔の映画の方が話を進めるテンポは速い。これがお解かりになっていない人がプロの批評家の中にもいらっしゃる。困りますよね。
黒澤明と小津安二郎はどちらがテンポが速いか。普通の人は黒澤と言う。実は小津なんですね。
個別の映画が観れないときに、ちょこちょことこんなテーマで書いてみようかなと思い立ちましてネ。先日の「ペーパームーン」の“客観カメラ”なんて言葉にも昔ならピンときたはずなのに、すっかり見当違いの見方をしてましたので、その辺に関する感覚を取り戻そうという気持ちもあります。
黒澤と小津に関しては明確な答えを持っていません。すいません。
「影」も「夜行列車」も没になりましたが、多分数ヶ月後には予定が入ると確信していますよ。