「バランスがいい頭蓋骨」
最近、クレオパトラの妹アルシノエという人物のものと思われる骨がトルコで出土したことが報道された。骨の主は、姉との政争で敗れ、その当時ローマ帝国の属国だったトルコの一都市の神殿に幽閉されたという。20世紀始めにすでに発掘されている彼女の頭蓋骨は今では行方がわからないそうだが、骨の計測記録が残されており、ギリシャ系とアフリカ系との混血だった可能性が高いことがわかった。そして、今回出土した首から下の骨の状態は健康そのものであり、死因は、歴史書の記述のとおり、姉が裏で糸を引きローマ兵士に毒殺させたのではないかと推理されている。
故国に帰ることがなかったアルシノエを葬った墓は、エジプトのアレキサンドリア港に紀元前3世紀に建造され14世紀まで実在した灯台の先端部分を模した形をしているというが、異国の都市の真ん中に豪華な墓を建てたのはいったい誰だったのだろうか。専門家は、文献に描かれた頭蓋骨の形状はひじょうにバランスが良く、美しい女性のものだったに違いないと解説していた。
バランスというのは難しい概念のひとつだろうと思う。バランスがいいというのは、一義的には好ましい意味で使われるが、時と場合と人などによって解釈が微妙に変化することがある。クレオパトラの妹を例に挙げると、バランスがいいものが皆に好かれるとは限らない、という概念のあいまいさが理解しやすくなる。
網走に3年間住んでいたとき、いささかバランスの崩れた多くのネコたちに出会った。「ため吉」という名前のネコがいた。近所のネコ好きの奥さんがつけた名前だったが、彼の風貌にぴったりだった。彼は、体のわりには足が短いかなり年輩の雄ネコで、体の毛は逆立ったようにボソボソで、口の周りはいつも汚れており、野良のキャリアが見るからに長いと思われた。
あるとき開いていた窓からため吉が我が家に入ってきたことがあった。まだ1才になる前の黒ネコ「との」は喜んで、「おじさん遊ぼう。」とため吉にかけ寄ると、ため吉はとのの頭を前脚でポンとたたき、そこにあったとののエサを悠然と食べた。妻と私と、怖じ気づいたとのは黙って一部始終を見守った。彼にはまだ若い雄には負けないという気迫が感じられた。その後も度胸のいいため吉は何度も我が家に侵入したが、とのに悪さをするようなことはなかった。相手にしていなかったのだと思う。その反面、道ばたで彼に会ったとき、「ため」と声をかけると、うれしそうに走り寄ってくる人間好きな性格をも持ち合わせたネコだった。
縄張り荒らしにきた若い雄ネコ「アトム」とため吉との威嚇し合う現場が幾度か目撃された。「くろ」と名付けられた真っ黒な雌ネコを取り合っていたのだ。いつもアトムが優勢だった。耳や尻を噛まれ血を流すため吉を放っておけなくて、ネコ好きの二階の奥さんたちと妻とで仲裁に入った。ため吉は、興奮のあまり自分を応援してくれる人間の長靴や腕にむやみに噛みつき、人間側にも多少の負傷者が出ることがあった。
数日後、2匹は、互いの顔をくっつきそうなくらい近づけて、いちだんと大きな威嚇の叫びを上げ、暴力沙汰になるかと思われたとき、アトムの方が一目散に退散した。ため吉が勝った理由はわからない。その場所が彼の縄張りだったことや彼に加勢する大勢のネコと人間が周りにいたせいだったのだろうか。秋になり、くろはため吉によく似た子ネコを5、6匹生んだ。
くろはまじめに子育てする母ネコだった。くろ一家は、私たちが住んでいたアパートの真向かいの社宅の物置に住みつき、引き戸の穴から出入りしていた。単身者の社宅の主は物置を使わなかったので、引き戸に釘を1、2本打ち開けられないようにしていた。しかし、次第に住みにくくなってきたのだろう。ある日、妻が玄関の外に出ると、くろが子ネコを一匹くわえて妻の前にやってきた。人慣れしていない子ネコは大きな口を開け威嚇したが、くろはかまわず他の子ネコにも出てくるように促した。子ネコたちの行列がくろの後ろに続いた。自分の子供を何とか生き延びさせたいというくろの気持ちが切々と伝わってきた。妻はアパートの裏にあった我が家の物置にくろ一家を移動させ、餌を与えることにした。
くろは若いネコではなかった。面倒見のいい二階の奥さんの一人は、これからもくろが子供を産み、子育てを続けることがかわいそうで、知り合いの動物病院に頼み込み、くろの避妊手術をしてもらったうえ、引き取り先の手配までお願いした。くろ一家は網走郊外の牧場などに無事もらわれていき、長く大事にされた。
アトムは、ため吉の縄張りと隣り合う別のエリアを牛耳る強いネコだった。目の上から耳にかけて真っ黒な模様がついていて、それが鉄腕アトムの頭に載っている帽子にそっくりだったのでその名前をつけた。きつい目でにらみを利かせて歩くネコだった。出入り自由の飼いネコだったが、夜遅くなると家に鍵をかけられ、餌抜きになると聞いたことがある。風貌からはうかがい知れないようなつらい目にも遭っていたのだろう。
アトムには、うりふたつの顔をした一回り体の小さい弟がいた。弟は、兄とは違い人なつっこいネコだったが、やはり度胸があったと見え、立てた尻尾を振りながら道路の真ん中を得意げに歩いた。アトムは私たちが網走を離れた後、車に轢かれて死んだ。
ため吉が一時ネコのはやり病いにかかり死にそうになった。近所の人が病院に連れて行ったが、病状は予断が許さないくらい悪くなったが、妻たちがアパートの階段の踊り場であきらめずに介抱した結果、奇跡的に元気になった。
「ミッキー」は、私たちのアパートの前に唐突に現れた。二階の奥さんが何気なく窓から外を見ていたとき、草むらを歩いている小さなネコがいた。いても立ってもいられずそばに行ってみると、生まれて2、3ヶ月くらいの首輪をつけた子ネコだった。自分の家に帰る道すがら立ち寄ったのかもしれないからと、そのまま家に引き返したが、頭から子ネコのことが離れなくなった。次の日、外が明るくなってきたころ二階からのぞいてみると、前日の子ネコがほとんど動かずに留まっているのが見えた。自分の乱れる気持ちを押さえることはできなかった。こうしてミッキーは二階の家の一時預かりネコになった。地元の新聞に迷いネコの広告を出したが、飼い主は現れなかった。
ミッキーは狩りの得意な活発なネコで、いつも家から脱走し鳥たちを追いかけていた。カラスからはときどき逆襲されたが懲りることはなかった。やっとのことでスズメを生け捕りにし興奮状態で帰ってきたミッキーは、たまたま階段で遭遇した妻から、かわいそうだから離しなさいと言われ、腹立ち紛れに妻の腕に思いっきり噛みついたりもした。彼は預かり主の転勤のお供をして数ヶ所を移動し、岩見沢で十数歳の寿命を全うした。
「チャーミー」は隣の家でかわいがられたおとなしいネコだった。隣家が引っ越すと、彼女の姿も消えてしまった。短期間住み着いた「ルパン」という寡黙なネコもいた。その他にも、アパートの前に止まった乗用車からまりのように投げ捨てられた子ネコや、段ボールに入れられて近くのゴミ捨て場に置き去りにされた子ネコたちもいた。このアパート周辺のネコと人間の生態をよく知っている者の自分勝手な仕業に苦々しく思うことが何度かあった。
私たちの住んでいたアパート周辺を行き交った多くのネコたちは、一匹として同じ色の、同じ体型の、同じ性格のものはいなかったが、みんな、厳しい掟と生活環境の中でせいいっぱい健気に生きていた。彼らと出会った人間たちは、彼らとの生活の中で、幸せな気持ちを味わえたことに深く感謝した。
網走に住んで2年目の冬の終わりころ、猛烈なブリザードが2日間にわたり吹き荒れた。朝起きると、1階の窓を完全にふさぐほどの雪が吹きつけていた。道路が寸断され、電話も通じなかったので、同じ職場の3人と連れ立って外の様子を見に行くことにした。雪を乗り越えて2キロメートル先の会社までたどり着いたものの、何もすることがなく、風雪害で特別休暇をとり、やっとの思いで家に戻った。
外の明かりが届かないかまくらの中のような家にじっとしていると、窓の外がにわかに騒々しくなった。近所の数人の友人たちが手に手にスコップを持ち、人ひとりがかろうじて通り抜けられるくらいの通路をこじ開けながら、こちらに向かってやって来るのだった。すでに酒が入っているようなにぎやかさだった。ようやくアパートの玄関に到達した彼らは大量の酒を抱えていた。私たちは、かまくらでご馳走を食べ楽しんだ子供のころに戻ったかのように大騒ぎし、夜遅くまで酒を飲んだ。次の日からは雪道をつける重労働が始まったが、車が小路に入るまでには何日もかかった。
ため吉の姿がいつまでも現れないことに気がついた。ブリザードから逃れてもぐりこんだ床下か穴蔵が雪に埋もれて、運悪く外に出られなくなっているのだろうと、心当たりをそこかしこと探してみたが、手がかりはまったくなかった。雪が解けてからもため吉のことを気にかけていたが、ついに彼の姿を見ることはなかった。
とのが網走に住んだ時期は、1才になる前の幼年期から4才になるころまでの青年期だった。
とのは、生まれて2、3ヶ月で我が家にやって来て、それからまもなく発作を何度も起こした。突然、目の焦点が合わなくなったかと思うと、苦しそうなけいれんが始まり、胃にあるものを吐き、小便、大便をたれ流した。びっくりして近くの動物病院で診てもらうと、このネコを育てるのは大変だから保健所に連れて行った方がいいと言われた。妻はあきらめずに病院を探し回り、数軒目の病院で骨の発育不全が原因の発作であることがわかった。投薬などにより、半年ほどして発作が起きなくなり一安心したが、発育が一定レベルに達するまでの数年間は薬を欠かせなかった。
骨が弱くてもやんちゃなとのは、高いところから跳び降りた拍子に足がぐにゃっと曲がり、「痛いよ。」と、大声で鳴いた。その都度、妻は心配して病院に連れて行ったが、幸い、彼の骨は折れるほど固くなかったので、しばらくすると痛みは治まった。薬を飲んでも骨格が正常なネコと同じように発達するわけではなかった。下顎の骨は後退したままで唇がぴったりと閉まらなかったため、真っ黒な顔にはいつも赤い舌がちらりと見えていた。顎だけでなく頭蓋骨全体が普通のネコと違い、明らかにいびつな形をしていたと思う。しかし、彼は思いのほかハンサムなネコだった。
とのは、大人の年齢になっても、ネコのしなやかな身のこなしが習得できなかった。獲物をねらって飛びつくとき必ず一呼吸置くので、おもちゃ以外の獲物を捕ったことがなかった。骨の発育だけでなく知能の遅れを指摘する人もいたが、実は、とのは私たちにだけ自分の気持ちを伝えるネコだった。体や顔かたちのバランスが悪くても、私たちと生きるには何の支障もなかった。
網走を離れてから10年以上も後の話になるが、火葬場で焼いてもらったとのの骨は、薄っぺらで頼りなげに見えたが、私たちにとって、それは目が覚めるほど真っ白で美しかった。(H21.10了)
最近、クレオパトラの妹アルシノエという人物のものと思われる骨がトルコで出土したことが報道された。骨の主は、姉との政争で敗れ、その当時ローマ帝国の属国だったトルコの一都市の神殿に幽閉されたという。20世紀始めにすでに発掘されている彼女の頭蓋骨は今では行方がわからないそうだが、骨の計測記録が残されており、ギリシャ系とアフリカ系との混血だった可能性が高いことがわかった。そして、今回出土した首から下の骨の状態は健康そのものであり、死因は、歴史書の記述のとおり、姉が裏で糸を引きローマ兵士に毒殺させたのではないかと推理されている。
故国に帰ることがなかったアルシノエを葬った墓は、エジプトのアレキサンドリア港に紀元前3世紀に建造され14世紀まで実在した灯台の先端部分を模した形をしているというが、異国の都市の真ん中に豪華な墓を建てたのはいったい誰だったのだろうか。専門家は、文献に描かれた頭蓋骨の形状はひじょうにバランスが良く、美しい女性のものだったに違いないと解説していた。
バランスというのは難しい概念のひとつだろうと思う。バランスがいいというのは、一義的には好ましい意味で使われるが、時と場合と人などによって解釈が微妙に変化することがある。クレオパトラの妹を例に挙げると、バランスがいいものが皆に好かれるとは限らない、という概念のあいまいさが理解しやすくなる。
網走に3年間住んでいたとき、いささかバランスの崩れた多くのネコたちに出会った。「ため吉」という名前のネコがいた。近所のネコ好きの奥さんがつけた名前だったが、彼の風貌にぴったりだった。彼は、体のわりには足が短いかなり年輩の雄ネコで、体の毛は逆立ったようにボソボソで、口の周りはいつも汚れており、野良のキャリアが見るからに長いと思われた。
あるとき開いていた窓からため吉が我が家に入ってきたことがあった。まだ1才になる前の黒ネコ「との」は喜んで、「おじさん遊ぼう。」とため吉にかけ寄ると、ため吉はとのの頭を前脚でポンとたたき、そこにあったとののエサを悠然と食べた。妻と私と、怖じ気づいたとのは黙って一部始終を見守った。彼にはまだ若い雄には負けないという気迫が感じられた。その後も度胸のいいため吉は何度も我が家に侵入したが、とのに悪さをするようなことはなかった。相手にしていなかったのだと思う。その反面、道ばたで彼に会ったとき、「ため」と声をかけると、うれしそうに走り寄ってくる人間好きな性格をも持ち合わせたネコだった。
縄張り荒らしにきた若い雄ネコ「アトム」とため吉との威嚇し合う現場が幾度か目撃された。「くろ」と名付けられた真っ黒な雌ネコを取り合っていたのだ。いつもアトムが優勢だった。耳や尻を噛まれ血を流すため吉を放っておけなくて、ネコ好きの二階の奥さんたちと妻とで仲裁に入った。ため吉は、興奮のあまり自分を応援してくれる人間の長靴や腕にむやみに噛みつき、人間側にも多少の負傷者が出ることがあった。
数日後、2匹は、互いの顔をくっつきそうなくらい近づけて、いちだんと大きな威嚇の叫びを上げ、暴力沙汰になるかと思われたとき、アトムの方が一目散に退散した。ため吉が勝った理由はわからない。その場所が彼の縄張りだったことや彼に加勢する大勢のネコと人間が周りにいたせいだったのだろうか。秋になり、くろはため吉によく似た子ネコを5、6匹生んだ。
くろはまじめに子育てする母ネコだった。くろ一家は、私たちが住んでいたアパートの真向かいの社宅の物置に住みつき、引き戸の穴から出入りしていた。単身者の社宅の主は物置を使わなかったので、引き戸に釘を1、2本打ち開けられないようにしていた。しかし、次第に住みにくくなってきたのだろう。ある日、妻が玄関の外に出ると、くろが子ネコを一匹くわえて妻の前にやってきた。人慣れしていない子ネコは大きな口を開け威嚇したが、くろはかまわず他の子ネコにも出てくるように促した。子ネコたちの行列がくろの後ろに続いた。自分の子供を何とか生き延びさせたいというくろの気持ちが切々と伝わってきた。妻はアパートの裏にあった我が家の物置にくろ一家を移動させ、餌を与えることにした。
くろは若いネコではなかった。面倒見のいい二階の奥さんの一人は、これからもくろが子供を産み、子育てを続けることがかわいそうで、知り合いの動物病院に頼み込み、くろの避妊手術をしてもらったうえ、引き取り先の手配までお願いした。くろ一家は網走郊外の牧場などに無事もらわれていき、長く大事にされた。
アトムは、ため吉の縄張りと隣り合う別のエリアを牛耳る強いネコだった。目の上から耳にかけて真っ黒な模様がついていて、それが鉄腕アトムの頭に載っている帽子にそっくりだったのでその名前をつけた。きつい目でにらみを利かせて歩くネコだった。出入り自由の飼いネコだったが、夜遅くなると家に鍵をかけられ、餌抜きになると聞いたことがある。風貌からはうかがい知れないようなつらい目にも遭っていたのだろう。
アトムには、うりふたつの顔をした一回り体の小さい弟がいた。弟は、兄とは違い人なつっこいネコだったが、やはり度胸があったと見え、立てた尻尾を振りながら道路の真ん中を得意げに歩いた。アトムは私たちが網走を離れた後、車に轢かれて死んだ。
ため吉が一時ネコのはやり病いにかかり死にそうになった。近所の人が病院に連れて行ったが、病状は予断が許さないくらい悪くなったが、妻たちがアパートの階段の踊り場であきらめずに介抱した結果、奇跡的に元気になった。
「ミッキー」は、私たちのアパートの前に唐突に現れた。二階の奥さんが何気なく窓から外を見ていたとき、草むらを歩いている小さなネコがいた。いても立ってもいられずそばに行ってみると、生まれて2、3ヶ月くらいの首輪をつけた子ネコだった。自分の家に帰る道すがら立ち寄ったのかもしれないからと、そのまま家に引き返したが、頭から子ネコのことが離れなくなった。次の日、外が明るくなってきたころ二階からのぞいてみると、前日の子ネコがほとんど動かずに留まっているのが見えた。自分の乱れる気持ちを押さえることはできなかった。こうしてミッキーは二階の家の一時預かりネコになった。地元の新聞に迷いネコの広告を出したが、飼い主は現れなかった。
ミッキーは狩りの得意な活発なネコで、いつも家から脱走し鳥たちを追いかけていた。カラスからはときどき逆襲されたが懲りることはなかった。やっとのことでスズメを生け捕りにし興奮状態で帰ってきたミッキーは、たまたま階段で遭遇した妻から、かわいそうだから離しなさいと言われ、腹立ち紛れに妻の腕に思いっきり噛みついたりもした。彼は預かり主の転勤のお供をして数ヶ所を移動し、岩見沢で十数歳の寿命を全うした。
「チャーミー」は隣の家でかわいがられたおとなしいネコだった。隣家が引っ越すと、彼女の姿も消えてしまった。短期間住み着いた「ルパン」という寡黙なネコもいた。その他にも、アパートの前に止まった乗用車からまりのように投げ捨てられた子ネコや、段ボールに入れられて近くのゴミ捨て場に置き去りにされた子ネコたちもいた。このアパート周辺のネコと人間の生態をよく知っている者の自分勝手な仕業に苦々しく思うことが何度かあった。
私たちの住んでいたアパート周辺を行き交った多くのネコたちは、一匹として同じ色の、同じ体型の、同じ性格のものはいなかったが、みんな、厳しい掟と生活環境の中でせいいっぱい健気に生きていた。彼らと出会った人間たちは、彼らとの生活の中で、幸せな気持ちを味わえたことに深く感謝した。
網走に住んで2年目の冬の終わりころ、猛烈なブリザードが2日間にわたり吹き荒れた。朝起きると、1階の窓を完全にふさぐほどの雪が吹きつけていた。道路が寸断され、電話も通じなかったので、同じ職場の3人と連れ立って外の様子を見に行くことにした。雪を乗り越えて2キロメートル先の会社までたどり着いたものの、何もすることがなく、風雪害で特別休暇をとり、やっとの思いで家に戻った。
外の明かりが届かないかまくらの中のような家にじっとしていると、窓の外がにわかに騒々しくなった。近所の数人の友人たちが手に手にスコップを持ち、人ひとりがかろうじて通り抜けられるくらいの通路をこじ開けながら、こちらに向かってやって来るのだった。すでに酒が入っているようなにぎやかさだった。ようやくアパートの玄関に到達した彼らは大量の酒を抱えていた。私たちは、かまくらでご馳走を食べ楽しんだ子供のころに戻ったかのように大騒ぎし、夜遅くまで酒を飲んだ。次の日からは雪道をつける重労働が始まったが、車が小路に入るまでには何日もかかった。
ため吉の姿がいつまでも現れないことに気がついた。ブリザードから逃れてもぐりこんだ床下か穴蔵が雪に埋もれて、運悪く外に出られなくなっているのだろうと、心当たりをそこかしこと探してみたが、手がかりはまったくなかった。雪が解けてからもため吉のことを気にかけていたが、ついに彼の姿を見ることはなかった。
とのが網走に住んだ時期は、1才になる前の幼年期から4才になるころまでの青年期だった。
とのは、生まれて2、3ヶ月で我が家にやって来て、それからまもなく発作を何度も起こした。突然、目の焦点が合わなくなったかと思うと、苦しそうなけいれんが始まり、胃にあるものを吐き、小便、大便をたれ流した。びっくりして近くの動物病院で診てもらうと、このネコを育てるのは大変だから保健所に連れて行った方がいいと言われた。妻はあきらめずに病院を探し回り、数軒目の病院で骨の発育不全が原因の発作であることがわかった。投薬などにより、半年ほどして発作が起きなくなり一安心したが、発育が一定レベルに達するまでの数年間は薬を欠かせなかった。
骨が弱くてもやんちゃなとのは、高いところから跳び降りた拍子に足がぐにゃっと曲がり、「痛いよ。」と、大声で鳴いた。その都度、妻は心配して病院に連れて行ったが、幸い、彼の骨は折れるほど固くなかったので、しばらくすると痛みは治まった。薬を飲んでも骨格が正常なネコと同じように発達するわけではなかった。下顎の骨は後退したままで唇がぴったりと閉まらなかったため、真っ黒な顔にはいつも赤い舌がちらりと見えていた。顎だけでなく頭蓋骨全体が普通のネコと違い、明らかにいびつな形をしていたと思う。しかし、彼は思いのほかハンサムなネコだった。
とのは、大人の年齢になっても、ネコのしなやかな身のこなしが習得できなかった。獲物をねらって飛びつくとき必ず一呼吸置くので、おもちゃ以外の獲物を捕ったことがなかった。骨の発育だけでなく知能の遅れを指摘する人もいたが、実は、とのは私たちにだけ自分の気持ちを伝えるネコだった。体や顔かたちのバランスが悪くても、私たちと生きるには何の支障もなかった。
網走を離れてから10年以上も後の話になるが、火葬場で焼いてもらったとのの骨は、薄っぺらで頼りなげに見えたが、私たちにとって、それは目が覚めるほど真っ白で美しかった。(H21.10了)