考古学を離れて、神話学に立ち寄ってみる。「出雲と大和」(村井康彦著、2013.1刊岩波新書)の内容は、4年前の本ブログ「列島へやってきた人々」でかなりしつこく書いた。
その記事の一文に、「大和王朝の先祖の二二ギは筑紫の日向の高千穂に、出雲勢力のカミムスビは出雲の鉄鉱石を産する山岳に、はるか遠くの天上から降臨したと記述される。彼らは、弥生時代に列島外の半島や大陸から渡ってきたと見て間違いはない」とある。日本書紀、古事記などの神話を史実と考えてはならないが、北九州や出雲には、対岸の朝鮮半島などに居住していた様々な人々がやってきたことを物語っている。鉄は出雲だけに入ったのではないだろうが、ヤマタノオロチ伝説があるように、大規模な溶鉱炉を建設できる集団がいたということだろう。
村井氏は、出雲の神々、大国主神や大物主命、大名持(おおなむち)命などが、大和の本拠地の奈良盆地をはじめ、全国の数多くの神社で祭られている状況を見るうちに、出雲の勢力が大和地域に早くから進出し、彼らこそが邪馬台国を作ったのではないかと思うようになった。書紀などの記述でも、筑紫の勢力は確固たる基盤ができ上っていた大和に力ずくで入ったとされる。
邪馬台国に卑弥呼がいた3世紀前半とは、定型的前方後円墳の建造が始まった時代と言われている。「前方後円墳の世界」(広瀬和雄、2010.8刊岩波新書)で、広瀬氏はこの時がいわゆる古墳時代が始まりだとする。そして、古墳時代とは、倭国を構成する首長たちの連帯意識を高め、次第に大和地方の複数の有力首長層によって地方の中小首長層を統率していく人的統治システムが構築されていったのであり、7世紀以降の国家的土地所有に基づく統治システムの律令国家とはまったく異質なものとする。
前方後円墳の造営は、大和やおもだった地域では6世紀を通じて徐々に減少し、600年を少し過ぎたころ、まったく姿を消す。しかし、東国では、その後も方墳や円墳が多数築造され、かえって増加する地域(群馬県など)さえある。中央では律令国家に変換していこうという意志が明確なのに、地方、特に東国ではそれに反する動きが感じられる。
岩手県水沢市の中半入(なかはんにゅう)遺跡では、北上川支流、胆沢川に面した首長館跡から、続縄文文化(弥生時代における東北地方以北の文化)と古墳文化双方の出土品が発見された。ここは、北と南の産物の交易センターの役割を果たしていたと考えられる。この近傍の奥州市には、列島最北端の前方後円墳である角塚(つのづか)古墳がある。このほかにも、末期古墳と呼ばれるものが青森、秋田、岩手県一帯に7世紀前半から9世紀末まで作られる。
そして、北上川流域の大崎平野では、生活域を丸太で囲み防御機能を持った囲郭集落が出現する。律令国家が東北経営のため、胆沢などの城柵を築いたのはその後のことだ。また、大崎平野の色麻(しかま)古墳群は埼玉県鹿島古墳群の石室などの構造に酷似しているという。関東方面からの集団移住の可能性を否定できない。
驚くべきは、7世紀中ころ以降の末期古墳の時代、北海道の石狩低地帯(おもに石狩川とその支流域)にも円形や馬蹄型をした墳墓が発見されている。これらの意味するところは、蝦夷地の中に、倭の文化をひく人々が確実にいたということなのだ。(2020.7.22) ④へ続く