数日前のNHKサイエンスゼロで、弥生ヒトのDNA解析結果が公表された。解析に使用された試料は、現在の鳥取県青谷にある青谷上寺地遺跡から出土したもの。この遺跡からは、形質的に弥生ヒトの骨が100体以上出土したが、特筆すべきことがふたつある。これらの骨に、かなりの頻度で刃物などで切られたり叩き割られたりの痕跡があるという。また、その地の古層には縄文の遺跡が確認されていたので、これらの弥生ヒトの骨のDNAには、縄文ヒトのDNAが混入しているだろうと想定されていたのだが、その仮説は木端微塵に打ち砕かれた。縄文そのものの1体を除き、縄文の形跡はまったく検出されなかった。つまり、かれら弥生ヒトはそこにいた縄文ヒトと混住したのではなく、追い払い居座ったのだ。
彼らが生きた年代とは。同位元素による解析でAD1、2世紀ごろと判明した。さらに、彼らの遺伝子の故郷が、大陸や半島の随処に散らばっていることまでわかった。いわゆるユーラシア大陸を北回りしてアジア大陸に到達したサピエンスの子孫たちだろう。列島に倭国とか邪馬台国が存在したころ、日本海沿岸には新しいヒトビトがどんどん押し寄せていたのだ。
AD1世紀ころとは、九州北岸には倭国の一派、奴国があったころだ。この激動の時代、半島と目と鼻の先の地に、縄文の国が存立することができただろうか。ほぼ無理だったろう。とすれば、倭の領袖、邪馬台国の卑弥呼が弥生ヒトだとする方が自然な考え方だ。それを証明する事柄のひとつ、彼女が得意だった占卜は北方狩猟民の習俗だ。また、魏への貢物として連れて行った毛ヒトとは明らかに縄文系だと思うが、どんなカリスマの魔法使いでも同族をそんなふうに扱えなかったはずだ。
倭とは大陸・半島からやってきた弥生ヒトの国で、次々と渡来する同族の者たちを吸収し、あるいは征服され、どんどん拡大した。半島まで出張って戦ったのはやり過ぎだと思うが。古い資料のひとつに、倭はもともと半島南部にあって、北方からの圧力によって列島に押し出されたといった説がある。その解釈はまんざら成り立たないことはないだろう。江上氏の騎馬民族襲来説を久しぶりに思い出しながらこの番組を見たのは、私だけだったかな。(2018.12.26)
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