最近、マリアカラスのドキュメンタリー映画の記事が新聞などに取り上げられている。この映画は、彼女自身の言葉だけで構成されているという。没後41年にもなって新たに映画が作られるとは、よほどの功績・悪行を積んだか、ひときわ異彩を放つ人生を歩んだということなのだろう。私はマリアカラスの名前から、ジョンFケネディ夫人のジャクリーンと結婚したオナシスを連想する程度の知識しかない。歌を聴いたかどうかもわからないが、機会があったら映画を観たい。
ところで、彼女や映画に興味があってこんなことを書いたのではなく、このところまた、鳥類のカラスのことが気にかかって仕方がない。
私が50代の終盤に差しかかったころ、そのころのブログにも書いたが、カラスが私の目の前をかすめて飛び回ったり、私に片言話しかけてきたり、まるでハリーポッターの映画に入り込んだかのような時期があった。カラスばかりか、イヌたちも私の目を凝視して通り過ぎた。車のすれ違いざま、あまりにも激しく見つめ合ったために首を捻挫したことさえあった。
残念ながら私には彼らの伝えようとしたことを詳細に聞き分ける聴力がなかった。ときには彼らが近づきすぎるので身構えることさえあった。
そのころの私は、端的に言うと、人生に完全に行き詰まっていた。なぜこの年になってこんな境遇に置かれなければならないのかと、自分の立場や経歴が台無しにされたことを呪った。絶望とはこういうことかと思った。ヒトによっては奈落の底に落ちたり、死んだように横たわったりするのだろう。私の場合、手足を動かすことさえままならないくらい、がんじがらめに縛られ自由を奪われた状態に陥った。CGは1ヶ月ちょっと、私は3年にも及んだ。自身の心の奥底を眺め、まだ何とかなるか?と自問する日々。そんなときだった。ヒトではなく、カラスたちが私の許に通ってきたのは、心配そうな顔をして。
ピダハンというアマゾンの人々のドキュメントをテレビで見たが、彼らは鳥と会話していた。
ネコの言葉をはっきり聞いた人も知っている。テレビでなく、彼からじかに話を聞いた。彼はそのころ海外の妻の家に居候していた。いい仕事がなく家庭で何かと苦しい立場にあった。悪いことに、妻との関係もかなりぎくしゃくしたらしい。とうとう神経がすり減り、八方塞がりの状況。「トイレをきれいにしてくれよ」と、ネコが彼に向かって言ったのはそんなときだったという。ヒトは、他の動物たちと深いところでつながっているのは間違いない。
私が、「黒猫との」などの一連の文章をつづることができたのは、そのような空白の期間があったからだと思う。書き継ぎながら、新たな自分が始まるのを感じた。裏切りに遭ったり憎しみ合ったり、とっくみ合いの末、土俵の外に投げ飛ばされたとしても、自分の人生に悲観的にならなくていいのだ。今、そのようなことが少しわかってきた。マリアカラスの映画もそういう内容らしい。(2018.12.21)
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