藤尾慎一郎氏の著作「弥生時代の歴史」(講談社現代新書)や「日本の先史時代」(中公新書)などによると、紀元前10世紀後半ころ、朝鮮半島南部を経由して、九州北部の玄界灘周辺の未開地で始まったとされる水田稲作は、考古学や形質人類学、遺伝子研究上、いわゆる弥生人と言われる人々によってもたらされたことはほぼ間違いないところだ。
この水田稲作を伴った弥生文化は、北海道と琉球を除く列島全域に、700年ほどかけてゆっくりとしたペースで広がった。近畿に紀元前7世紀ころ、青森県弘前市に紀元前4世紀代、紀元前3世紀になってようやく中部高地と関東南部に到達したらしい。
このように、列島内を細かく見ていくと、玄界灘、大阪湾に面した古河内潟などの周辺では、縄文系の在来民が居住していなかった河川の下流域に水田稲作民が進出して稲作を開始したらしい。一方で、先住民が居住し雑穀などを栽培していたと思われるまさに同じ場所で、水田が拓かれた地域もある。鳥取市の本高弓ノ木遺跡や徳島市の庄・蔵本遺跡、さらに青森市の砂沢遺跡などは、あきらかに在来民が彼らの本拠地で、縄文の道具と技術を使って水田稲作を始めた遺跡なのだ。
また、縄文と弥生の両方の土器や呪術具を併せ持った長野県松本市の石行遺跡からは、雑穀とコメの痕跡が出土した事例もある。稲作先進地の北九州、山陰瀬戸内、近畿などでも、水田稲作の開始前に縄文系の雑穀栽培がおこなわれた可能性を持つ地帯が検出されている。
畑作を長く続け、その後、同じ地域で水田稲作に移行した事例が発見されるとすれば、弥生文化とは在来民と新来の稲作民が共同して展開した文化だと言えるのではないだろうか。
とすれば、弥生時代末期に成立した倭国の中に、縄文系のクニが存在したとしても不自然ではない。ひょっとすると、邪馬台国の卑弥呼は縄文系の人物だったかも。(2021.12.4)
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