太郎をみていて思い出した
自転車をひいて歩いている夫婦がいて
そのお爺さんから
「もう 年金で餌を猫たちにあたえてるんだけど大変だ、
あなたが この猫の飼い主になってくれないか」
と
言われたのだった
それまで私は
野良猫に餌をあげた事はなかった。
ただ、人懐こい太郎がとても気になっていた
なんども 寒い時期に 家から離れたところで誰かを待っている太郎を
確認しにいった。
餌をもっていったことは(太郎に対しては)たぶん一度もなかったと思う
太郎はそんな私を待っていてくれて、
藤の木の根本のうろから出てきて 伸びをしながら近づいてきた
体をすりつけてきて甘えた
その太郎を 捕まえにいったことがふと浮かんできた
なけなしの年金をつかって猫の命をつないできた
お爺さんとおばあさんの 努力が
あって こそ 太郎は 私のところで
いま12歳になろうという命を繋いだのである。
なけなしの年金で、古い自転車をひきながら、歩いていた
お爺さんとおばあさんの姿はいまもわすれない
そういう人たちが何人かいて、
もちろん子猫が増えて困るという事もあったかもしれないが
もう生まれて生きている猫たちになんの罪があろうか
その頃は TNRだとかさくら猫だとかいう言葉も 一般的ではなかった
地域猫という言葉は 先進的な人たちの間だけで知られた言葉であった
今は多くの人が認識するようになったけど
私がいいたいのは
この猫の話ではなくて
なけなしの 年金から 猫を養うために 餌をまいて あるいていた
お爺さんたちの心と
税金を逃れて、人々から巻き上げて自分たちだけのために使い
法律を駆使して嘘をついて逃げ回る人たちの
対比である。
ただ預かっていただけだとか
いや、報告を忘れてとか
いやしい。
見た目はみすぼらしいお爺さん おばあさんの心は
まぶしいほどにひかりかがやいている。
見た目がいくら立派でも
それではもう 騙されない時代がやってきたのだ。