Old Sport.
バズ・ラーマン監督はあんまり好きじゃない。本作にしても原作の舞台であったJAZZ AGE(本作に宝飾品で協力をしたティファニーは『華麗なるギャツビー』とのコラボ商品で「JAZZ AGE」という表現を使っていた。)を今の時代用にと、JAY-Zに依頼しHIP-HOPに変えてしまった。しかも文芸作品の映画化作品なのに何故か3D映画というまがまがしさ。ことほど作用に強烈なアレンジをするという前評判を聞いて、正直期待していなかったのだけれっど。
主人公は、”傍観者”であり”プレイヤー”に成れないトム。トムは原作者、スコット・フィッツ・ジェラルド自身がモデル。そんな傍観者であるトムのいとこ、既婚者デイジーの暮らす豪邸の湖をはさんだ対岸の大豪邸では謎の人物が毎夜招かれてもいないのに明りに吸い寄せられて大勢の人々がパーティーを繰り広げている。そんな中トムにその謎のパーティーの主催者から正式な招待を受ける。その主催者こそがギャッツビーだった。彼はデイジーの昔の恋人だという。
ギャツビーがトムを呼び出したのには訳があった。トムのいとこであり、ギャツビーの忘れがたい昔の恋人であるデイジーとの中を取りもって欲しい。それがギャツビーのトムへの願いだった。トムはギャツビーの願いを受け入れ、デイジーとの邂逅をかなえる。しかしバズ・ラーマン監督がインタビューで散々語っているように、ギャツビーはイギリスにとって変わって世界の領主となったアメリカであり、デイジーはそのアメリカが追い求めた富の象徴。つまるところ、デイジーはファムファタールであり、決して手には入らない、欲望の象徴でしかない。
欲望の象徴だからこそ、手に入らない。デイジーを手にいれるには彼女が欲する富が必要だ。そのためにはギャツビーは何だってした。でも結局、ギャツビーはデイジーを手にはいられなかった。本当に欲しいものは手に入らない。そういうことなのかもしれない。
と、公開当時ここまで書いては見たものの、ちょっと別のことを考えてみてしまう。バズ・ラーマン監督の見解でも原作の文学的な評価においても、ギャツビーが追い求めるデイジーはアメリカが追い求めた富の象徴、手に入れられないものとして描かれる。でも、仮にそうではなかったとしたら、どうなんだろうかと考える。ギャツビーは以前にデイジーに振られた。ギャツビーはその理由が自分に金が無いからだと考え、違法な手段を用いても金を稼いだ。その金でデイジーの頬を叩いてなびかせてみたものの結局デイジーはギャツビーの元を離れていく。
でもそれって本当にデイジーのせいなのか?デイジーはアメリカの傲慢さの行き着くところまで言った欲望の象徴だからなのか?それって男性的な解釈でしかないんじゃないのかって考える。ギャッツビーは確かに以前の自分を捨て、新たな自分となった。でもそれって本当に変わったということなのか。巨万の富を得ただけなのでは?劇中で描かれるギャツビーは単純に金に飽かせてデイジーを手に入れようとしただけなんじゃないだろうか。二村ヒトシが言うところのインチキ自己肯定なのではないかと思う。
だからこそ結局ギャツビーはデイジーに振られたときと変わっていなかった。だからこそ巨万の富を得たところで再びデイジーに振られてしまったんじゃなかろうか。
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