NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年009月026日(水)かき鳴らせ

2007-09-26 | 休み
ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ、カッ、カッ♪
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ♪
ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ、カッ、カッ♪
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ♪
ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ、カッ、カッ♪
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ♪
ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ、カッ、カッ♪
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ♪
ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ♪ジャンジャカッ、カッ、カッ♪
ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ♪

ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪

ジャッ、ジャッ、ジャッッ、ジャッ、ジャッツ♪
ジャ、ジャッ、ジャ、ジャ、ジャッツ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャッジャ♪
ジャ、ジャッ、ジャ、ジャ、ジャッツ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャッジャ♪
ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジッ、ジャ、ジャ、ジャ♪
ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジッ、ジャ、ジャ、ジャ♪

ツ、ジャッ、ジャッ、ツッ♪ジャッ、ジャッ、ツッ♪
ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャッ♪

ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪
ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ、ッゥッ、ツゥッ、ツゥッ、ティッ、ツゥッ♪


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02007年009月025日(火)go down to the crossroad

2007-09-25 | 休み
中学から高校にかけての僕はロバート・ジョンソンや
ジミー・ヘンドリクス、カート・コバーンの挿話のために

「自分は27歳で死ぬ!」

と考えて、そして悲しいことに、それを云って憚らなかった。
大変残念なやつだ。今もそう変わらないかも知れないけど。


今にして思えば、27歳と云う年齢はそう遠い未来でもなくて
結構中高生からも近い年齢のような気もしないではないけど
それは高校球児がいつの間にか全員年下になってしまった人間の
感慨でしかないのだろうな。未だに球児の方が年上に感じるし。

今の自分の年齢に立ってみると、27歳と云う年齢はそれこそ
時の過ぎ行くままに、というか時の流れに身を任せていたら
あっという間にたどり着きそうな場所で怖くなる。心の底から。
ロバートもカートも27歳までに何事かを成し遂げてるんだもの。


何かを成すどころか、未だに就職浪人中で誰かに約束したような
気がする院への進学も見えてこない。逆に自分の底が見えてしまった。
親は無くとも、子は育つとは言うけれども、先立つ不幸なしに
将来も何も見えないし、将来への不安と云うより閉塞感。

大学を出たら、そこは社会だった、って感じか。
何かしらの成果を求められるし、自分自身も大概の場合
正価と云う形で成果を求めていかなけりゃならないし。
基本、幾ら稼ぐのかって尋ねられるのが社会なんだな。


気づくのが今更って具合だけれど。気づいただけましか。
まだ何にもしてないや。27歳まであと少ししかない。
誰もが羨む才能が手に入るなら十字路で悪魔にだって
魂を売るよ、多分。文才かとかそういうのさ、くれ。

02007年009月024日(月)流行り言葉が云えなくて

2007-09-24 | 休み
どこかのラジオパーソナリティの方も仰っていたけれど
流行り言葉を云う事にはやっぱり抵抗感が拭えない。
それどころか、意識的にそういう言葉を避けないと
恥ずかしくて居た堪れなくなり、どうしても別の言い回しに
したりその言葉自体を云えなくなってしまう。


それまで会話の中で。「どんだけだよっ」とか
「それどんだけですかっ」とか何とか云えていたのに
「どんだけぇ~」が流行り言葉になってからどうしたって
恥ずかしくてそういう言葉が云えなくなってフリーズする。
どうにかしてしまう。「それすごいですねっ」とか
物事の過剰さ加減を別な言葉で言うほか無くなる。

最近だと「関係ない」という言葉も迂闊に使えなくなって
しまった。勢いあまって、場面が場面であったならば
どう考えてもあのビキニパンツの芸人の一言ギャグだと
思われかねなくて怖くて、怖くて、言葉に詰まってしまう。
(あの人の面白さが一切分からない僕はもうおっさんで錆びてるか
欝の初期症状なのでしょう、きっと。)


何かもっと実生活の会話の中に出てこないような言葉で
ギャグを作って欲しいなとか思うのです。

02007年009月023日(日)オタキングショック

2007-09-23 | 妄言
オタキングが超絶減量したことに対して昔から知っている
人たちの間では、賛否両論あるようで、全くの他人事だし
健康管理に関わることだから、テレビや文章でしか知りえ
ない人間からするとそれももっとも至極でございます。

最初は、お痩せになって、服装ももう僕なんぞには訳わかんない
SFやアニメのTシャツではなく、シャツにスーツ(しかも何故か
若者向けな、微妙にトラッドではない感じの)という井出達。
本人的にはすごくご満足なんだろうと思うし、良いことなんだろうけど。



奥田英朗の「伊良部一郎」シリーズは今まで映画とテレビスペシャル
で2度映像化されている。映画版は松尾スズキさんでテレビ版は
阿部寛さん。二人ともになかなかの個性派俳優で如何にも癖の強い
役柄を演じるし、良い線行ってるのだけれど肝心なところが…

伊良部一郎は確かに変態なお医者という設定だ。でも単に変な
人じゃなく、重要なのは肥満体で、声のトーンが高くて
非常に子供っぽいというか、子供同然な性格の持ち主という所
にあるのではないかと思っている。

だから、どちらも兼ね備えなかった松尾スズキバージョンも
阿部寛バージョンも大本のところで違うのかなって思う。
もちろん原作をただ再現することが映像作品を作ることじゃない
とは思うけれど、結構大事な部分じゃないかなとか思うから。

いや、昔の岡田斗司夫さんなんてまさにっ!って感じだったなぁと。
今じゃ、本の中でも見た目至上主義を手のひら返しで、それこそ
ちゃぶ台返し並みの元も子もなしで仰っているのであれですが。

02007年009月022日(土)寂しい感情

2007-09-22 | 休み
寂しいってどういう感情だったのだろうかと、ふと考えて
不安を覚える。今僕は寂しいのかということを帰り道で
漠然と考えていたら、そもそも寂しさなる感情は今の僕には
残っているのだろうか、という前提条件への疑問が湧き出した。

寂しいって何なのだろうか。何かに対する期待を抱き続ける
ことなのだろうか。満たされた期待の存続を願う感情なのか。
それともどこからか自然と湧き出す涙のような突発的な感情
なのか。好きなドラマの最終回を見たくないような心持のことか。

そういうことも歳を経るにつれて、段々と少なくなってきている。
好きなドラマはあるが大人になって物分りが良くなったのか知らないが
好きなドラマの最終回も何の抵抗も無く見ることが出来るようになった。
最終回って終わりのことなのに、あまり悲しくなくなった。寂しくない。

執着をしなくなったということなのか。それは仏教的な悟りなのか。
きっとそういう上等なものではないような気もする。ただの逃げなのか。
悲しいことに、寂しいことにフィクションであれなんであれ
気づきたくないのかもしれない。悲しいことはやっぱり嫌だし。


とか、何とか書いているけれど、ブログを振り返ってみると
普通に寂しいとか云ってるな、おぉぉいっ。