NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年009月010日(月)第10話

2007-09-10 | 休み
木曜日はバイトだったので、録画しておいた
「菊次郎とさき」を見る。


エピソードは父ちゃんがメイン。父ちゃんメインはヤバイ。

継父のせいで、小学校にも通わせてももらえなかった菊次郎
は文盲で、外国映画を見ることが出来ない。んでそのことを
知った湯川先生が小学校で菊次郎に「あかさたな」から教えて
くれることに。覚えが悪いながらも、初めて自分の名前を
平仮名でありながらも書けることになって喜ぶ菊次郎。

けれどその学校の帰り、武が同級生にそのことをからかわれている
のを目の当たりにする。そして武も菊次郎が小学校で勉強することを
みっともないと口にしたのを聞いてしまい、武に恥をかかせまいと
「自分に勉強は無理だと」学校に通うのを辞めてしまう。
それを聞いた武が、「みっともないから止めたほうが良い」と云うと。

さきさんが武を叩く。室井滋さんのお芝居苦手だったはず
なんだけれど、この作品に関しては別で、この武を叩く前の
菊次郎に対する心配の情や武の言葉に対する憤慨が入り混じった
表情にやられてしまった。菊次郎は勉強したいのに、武のために
あきらめる。けれど武はそれを知らずに軽口を叩く。



本当に菊次郎の話はとっても切なくて、やりきれない。
確かに字もろくに読めない父ちゃんはみっともない。
でも、勉強しようという父ちゃんはみっともなくなんか無い
と云うですよ。もう駄目。

安いっちゃ安い。人によってはありきたりな人情劇だと
思われるかもしれないけれど、現に家では僕しか見ない。
自分でも割かし涙もろい人間だとは思う。ドラマを見ちゃ泣き
映画を見ちゃなんだかんだと泣き、小説読んでも不意に来る。

我ながら情けなくなるほどに涙腺が脆く、緩みっぱなしだ。
だがそれでも、大学に入った頃当たりから、自我が目覚めた
辺りから、第三者の自分と云うか、感情が露になる場面になると
どうも上から泣く自分を眺めるようで心から泣けない。

涙が出てくると、僕のどこかにいる冷静な俯瞰目線な僕が
「涙を流して、それで心が洗われたとか?そういう訳?」
とでも云いたげな僕が寄ってきて、盛り上がりそうになると
途端に現実に引き戻されて、一すじほどで我に返ってしまう。

それが今回に限って、俯瞰目線があろうと関係なかった。
自分でもおかしいほどにその場面を見た途端、云い知れぬ感情が
噴出してしまい、泣いていた。それも嗚咽交じりで。
どうしたことだろう。けれどどんどん場面が追い討ちをかける。


何か溜まっていたのだろうか。すっきりした気がした。

02007年009月008日(土)危うい

2007-09-08 | 妄言
中学生の頃からか、妄想のような一人SFのような
そういう空想を頭の中に浮かべてしまうことがある。


自分が今話している言葉、自分が意図しているのとは
全く別の意味なんじゃないのかという疑問のようなこと。
例えば、僕が「ご飯が好きだ」と云ったとしても実際は
「ご飯が嫌いだ」と伝わっているのではないかと思えた。

コミュニケーションを取っているようで実は全く関係のない
話をしていたりするのじゃないかという疑いにもつかない
妄想。むしろそこまで行くと会話ではなく、もしかすると
単語の羅列だけであったりするかもとかも考えたりした。

そしてもっと云ってしまうと、僕のしていると思っている
ことも何らかの神経系の手違いで全く違うことをしている
のかもと考えたり。ご飯食べていると自分では思っていても
その実、寝ているのではないかとか、危うい感じのものを。

そこまで考えてしまうと、自分が考えている人間の形という
ものも疑わしく思えてくる。類人猿と習って、自分でも認識
しているこの骨格も実は錯覚か、何かの勘違いに過ぎず
本当はよくSFで目にする体液まみれな軟体エイリアンだったり。


もちろんそんなことはSFの世界か、妄想の産物であって
もらわなければ困るけれど、ディスコミュニケーションという
点ではそんなに、僕にとっては大差が無いようにも思える。

誰かに何かを云っても、その真意とするところが相手に
伝わっているのかは疑わしいし、まず在り得ない。
またその逆も当然のものとして妥当され得る。


やっぱり他人のことは全く分からない。想像でしか。

02007年009月007日(金)ポジティブシンキング

2007-09-07 | 休み
とても些末なことで、いちいち落ち込むのってどうだろう。
今まで色々な人に迷惑や心配を懸けてきて、もう止そう
そういう風に考えるのは止めようと、そう思って
色々な人にそう云われて来たけれどやはりというか。

図太く、ポジティブシンキングを、と云われてみて
自分でもそうしようと思って、そうだポジティブシンキング
だと思うことが出来たとしても、段々とそれは尻つぼみに
なってきて、落ちてゆく、沈んでゆく。SINKING。

そしてそこに善くない感情がわいて、自分の行動を
振り返って、「今思えば…」みたいな事を思って
一人で、一人の狭い考えの中で反省して
それを行動に移して、結果逆噴射してしまう。


でもそれって自分のことを卑下してるとかじゃなくて
ただ単に自分の事や相手のことを信用できていないって
事なのかもしれない。確かに相手のことを慮ることは大事
だし、必ず必要なものであるけれど。もうイイや。


なんか色々あきらめた。もういいや。もういい。
僕には想像は出来ても、ホントの所は分かんないし
それを悔やんだり、反省したりなんて事はきっと
ひどく後ろ向きなんだろうから、シカトを決め込む。

こんなところで自己満足にもこういうことをこんな時間に
書いてるほうがどうかしていて、キモい。

てか、こんなことを考えてないで早く寝よう。
明日は、今日は用事が山積みだ。

02007年009月006日(木)奇跡

2007-09-06 | 休み
奇跡としか云いようが無いのか
それとも必然の産物か。臭くない。


小学校時代、靴下も履かずに春も夏も秋も冬も
365日同じ靴で走り回っていたら、足の先から
とんでもない匂いがしてきていたけれど

心底馬鹿であった小さな僕にはその臭さの理由が
皆目見当も付かなくて、ただ単に臭い靴の匂いを
かいで、臭い臭いと自分で云うだけだった。

その反動もあってか、物心付いて以降というもの
その臭いの原因に遅ればせながら気づきそれ以降必ず
靴下を履き、靴はローテーションで履くことにした。

それが先日ちょっとした思い付きもしくは気まぐれで
小一時間、靴下を履かずに素足のままで靴を履いて
出かけてみて、ハッとした。


臭くない…正確に言えば臭いことは臭い。けれどその臭さは
靴の臭いを凝縮したような云わば”靴臭ささ”でしかなく
小学校の時分に感じた何かが腐ったような強烈なものではなかった。

自分でもそれが、靴が、足が臭わなかったというのが
臭わなかったというのが信じられなくて、ためしにバイト中
つまりは一日中素足で靴を履いてすごしてみた。

そしたら、やっぱり臭くない。異臭がしない。靴を脱いで
かいでみようが、靴の臭いを凝縮したような臭いしかしない。
自分が変われそうな予感に抑えきれないくらい胸騒ぎが
するけど、とシカオちゃんの歌詞が出てくるほどでゲス、ゲス。

と、臭いいに安心しきっていたら、何だかデニムが臭い…
雑巾を絞った後のような臭いがする。一年も履いてるから
今更インディゴの臭いというわけでもあるまいし…