17日付け北海道新聞の留萌宗谷面に「途切れていた慰霊祭復活_猿払沖インディギルカ号遭難から80年_風化懸念、地元有志18日開催」という記事が掲載された。
〔リンク先は数日中に削除されるでしょうが、報道された事実を残すために書き残します。〕
記事は80年前のインディギルカ号の遭難の被災者の慰霊祭を地域の人達が主催すると言うものです。
猿払村が主催するのではなく、80年前の出来事を後世に語り継がなければ、忘れ去られるとの危機感から町内会長さん達が立ち上げた、住民主催の慰霊祭です。
記事には、80年前の幼い頃の記憶を語るインタビューが添えられていますが、事故当時10歳代だった人も、100周年目の20年後には110歳を超えているので、当時の思い出を生の声で聞きくことができる最後のチャンスだったと思います。
インディギルカ号の海難は700名以上、あるいは1,100名をも超えていたかも知れないといわれる海難史上、未曽有の惨事でした。しかし、当時の日ソの緊張状態の中で情報統制されていて、日本・ロシア共に当時の資料が殆ど残されていないという闇に葬り去られた「海の悲劇」あるいは「秘められた惨事」(小冊子のタイトル)です。エルトゥールル号遭難事故とは異なり、吹雪が吹き荒ぶ真冬の海での困難を極める環境下での救助活動、エ号より多くの人を救助しているのですが、海難救助の記録にはまったく出てきません。
横倒しになった船腹の上で次々に波にさらわれ海に消えて行く人たちを見かねて、決死の覚悟で荒れ狂う冬の海に助け舟を出したものの、あえなく転覆し、多数の遺体が浮かぶ凍りつく海の中を命辛々、港へ泳ぎ帰る漁師さん・・・新年を間近にした年の暮れに、毎日毎日、海岸に漂着する遺体を荼毘に付す仕事に明け暮れた村人たち、・・・いったい、どのような気持だったのだろうか? 小さな村の人たちが総出になった必死の救助活動で、429名を救助し、700名以上火葬、帰国できなかった一部の遺骨を村の墓地に葬ったのです。
絶望の中で祖国の土を踏むことなく異国の地で眠る多くの人たちのご冥福をお祈りするとともに、この時の猿払村の人たちの優しさと勇気を猿払の誇りとして、未来に語り継いでほしい。
80年目の冬が来た!
忘れ去られる悲劇
79年目の冬が来た
インディギルカ号遭難者慰霊碑〔宗谷郡猿払村〕
海の悲劇
早朝の静かな浜辺に立つと潮騒の中から当時の人達の思いが聞こえてくる。
2019/05/06に公開された動画「インディギルカ号の悲劇」
〔リンク先は数日中に削除されるでしょうが、報道された事実を残すために書き残します。〕
記事は80年前のインディギルカ号の遭難の被災者の慰霊祭を地域の人達が主催すると言うものです。
猿払村が主催するのではなく、80年前の出来事を後世に語り継がなければ、忘れ去られるとの危機感から町内会長さん達が立ち上げた、住民主催の慰霊祭です。
記事には、80年前の幼い頃の記憶を語るインタビューが添えられていますが、事故当時10歳代だった人も、100周年目の20年後には110歳を超えているので、当時の思い出を生の声で聞きくことができる最後のチャンスだったと思います。
インディギルカ号の海難は700名以上、あるいは1,100名をも超えていたかも知れないといわれる海難史上、未曽有の惨事でした。しかし、当時の日ソの緊張状態の中で情報統制されていて、日本・ロシア共に当時の資料が殆ど残されていないという闇に葬り去られた「海の悲劇」あるいは「秘められた惨事」(小冊子のタイトル)です。エルトゥールル号遭難事故とは異なり、吹雪が吹き荒ぶ真冬の海での困難を極める環境下での救助活動、エ号より多くの人を救助しているのですが、海難救助の記録にはまったく出てきません。
横倒しになった船腹の上で次々に波にさらわれ海に消えて行く人たちを見かねて、決死の覚悟で荒れ狂う冬の海に助け舟を出したものの、あえなく転覆し、多数の遺体が浮かぶ凍りつく海の中を命辛々、港へ泳ぎ帰る漁師さん・・・新年を間近にした年の暮れに、毎日毎日、海岸に漂着する遺体を荼毘に付す仕事に明け暮れた村人たち、・・・いったい、どのような気持だったのだろうか? 小さな村の人たちが総出になった必死の救助活動で、429名を救助し、700名以上火葬、帰国できなかった一部の遺骨を村の墓地に葬ったのです。
絶望の中で祖国の土を踏むことなく異国の地で眠る多くの人たちのご冥福をお祈りするとともに、この時の猿払村の人たちの優しさと勇気を猿払の誇りとして、未来に語り継いでほしい。
80年目の冬が来た!
忘れ去られる悲劇
79年目の冬が来た
インディギルカ号遭難者慰霊碑〔宗谷郡猿払村〕
海の悲劇
早朝の静かな浜辺に立つと潮騒の中から当時の人達の思いが聞こえてくる。
2019/05/06に公開された動画「インディギルカ号の悲劇」