「それは、福音というべきものではない。
ただ、ある種の人々が、あなたがたをかき乱し
キリストの福音を曲げようとしているだけであ
る。…しかし、私達が宣べ伝えた福音に反する
事を、あなたがたに宣べ伝えるなら、その人は
のろわるべきである。」(1-7、8)
「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)からです。
パウロの信仰を、中世において再解釈したのは
マルチン・ルターである。彼は宗教改革を行い
、プロテスタントとして私達の新教はできた。
マルチン・ルターは「福音を信じる信仰のみ」
と言っているが、これが彼のキリスト教理解
である。パウロは、その恩寵信仰に立って、
孤軍奮闘したのである。
恩寵だけでなく、人間も努力し、律法を行い、
善行し、神と人間が共同で働かねばならない、
と言う神人共同説もあるが、パウロは、どこま
でも、それらに反対していった。
私達は神と共に働く者である、という言葉を
根拠にしているが、聖書の言葉の一ヶ所だけ
引いていくと、間違う事が多い。全体から与え
られていくものでなければならない。
私達はともすると、信仰とは私達が神を喜ばせ
る事のように思いやすい。そして、神より私達
の方が先の様に思い、あれをしなければ、これ
をしなければならないという信仰生活になって
しまう。
しかし、主イエスは、そういう、ねばならない
という信仰態度を徹底的に砕こうとされた。
そして、一面、非常に真面目な信仰生活をして
いた、パリサイ人を厳しく非難されたのである。
聖書が私達に示している信仰とは、まず、神が
成して下さった業に対する驚きと、喜びから
生まれる応答であり、私達にとって、大事な事
は、決して何かをする事ではなくて、私達に
対して、神が何をして下さったかを、覚える事
だからである。
主イエスの母、マリヤの讃歌で、マリヤが、
あの様に、高らかに神をほめたたえたのは、
何故か、それは、この卑しい女をさえも、心に
かけて下さったからであり、その神の愛に気づ
いた時、彼女は、もう全存在をかけて神を、
ほめたたえずにはおれなかった。
この、そうせざるにはおれない福音信仰が、
恩寵宗教、いわゆるキリスト教の根幹なのであ
る。
ところが長く信仰生活をしていても、その事が
はっきりしていない人が多い。その根底には
信仰とは、人間の方から何か、していかねば
という考えを持っているからである。
だから、そういう思いを徹底的に打ち砕き、
自分のために、十字架を負って下さった
主イエスに目を注ぎ、神が、どんなに大きな
恵みを施して下さったかを知る時、そこから
私達の信仰生活は始まるのである。
パウロという人は、はっきりしている。
「のろわれよ!」などと、むちゃとも思える事
を言う。もし、そうであっても、
「ああ哀れな人よ、神を彼らを助けたまえ」等
と言えば、信仰深い人だと思われるであろうが
パウロは、そういう、生ぬるい事は言わない。
キリスト教徒を迫害したパウロは、恵みをもっ
て使徒として召された故に、キリストを宣べ
伝えずにはおられなかった。
このパウロの恩寵のみという信仰を、私達も
持って歩みたいと思う。