習慣。それは人間を賢明にするだけでなく、この上なく怠惰にする。微妙で多彩で豊穣で生産的なものをみすみす取り逃がしてしまって平気でいることがしばしばある。
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
習慣。そこでは一回限りの反復から差異的=微分的なものが削ぎ落とされて、逆に一般的なものに等質化される。そして人間はただ単なる単純なものに習熟するばかりだ。ドゥルーズはいう。
「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を《抜き取る》」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.207」河出文庫)
この「差異を《抜き取る》」という暴力。人間が反復しているのは各瞬間における一回限りの「生」だ。その各瞬間ごとにわずかずつの差異が存在するのは自明である。にもかかわらず習慣はこの「差異を《抜き取る》」。生から差異的なもの=微分的なものを平然と強奪する。常に動的である以上各瞬間ごとに違っており更新されていく人間の生であるにもかかわらず、人間は、反復によって同一化できるものしか認知しようとしない習慣に慣れてしまっている。この場合、「慣れ」=「差異を《抜き取る》」という暴力、という社会的公式が世界を支配してしまっていることは余りにも多くの人々によって主張されてきたし証明されてもきた。しかし人間は思想するにせよ、そもそも思想したいとおもっているのだろうか。むしろ何ものにもわずらわされることなくいつまでも安眠していたいというのが本音なのではないだろうか。ドゥルーズはこうもいっている。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
その通り。人間は「何かショックを受けて」始めて「思考する」。言い換えれば「何かショックを受け」ない限り何も「思考」しないかもしれない。歴史的事実としてアウシュヴィッツがそうであり原爆投下がそうだった。今ではここ滋賀県において三日月知事による「大戸川ダム」凍結解除というグローバル資本経済動向無視の県行政がそうである。これらは形態においても規模においてもそれぞれ違うけれども、質において同質のイデオロギーによって貫かれている。ヘーゲルのいうように「量は質へと転化する」のだ。さらに三日月知事が悪質なのは、戦後生まれであるにもかかわらず、年齢のわりにはケインズ主義的大型公共事業への根拠なき信仰があることだ。ケインズ主義的大型公共事業はそもそも国家の基礎的インフラが整備されていない時期に限り効果を見込めるものでしかなく、その効果といっても全国民(ここでは滋賀県民)全体に行き渡るような性質を何ら有していない。著しい偏りが見られる。むしろケインズ主義的大型公共事業が威力を発揮できたのは、たとえばアメリカの自動車産業がまだまだ勃興期ならびに再編期にあったことに最たる条件があった。大型ダム建設もまたそうだ。ソ連に対する資本主義陣営の危機感があった。しかし時代はもはや二十一世紀も十九年が経過した。言い換えれば、かつてケインズ主義的大型公共事業はアメリカの自動車産業と無数の大型道路拡張整備事業と一体化されており、それはインターネットを始めとする情報通信産業の普及によりほぼ壊滅に追い込まれたという歴史的事実に問題点を探らなければならないということだ。事実、アメリカの自動車産業の衰退と大型道路整備事情との同時多発テロ的破滅は機を一にしている。ーーーそして「何かショックを受けて思考」するようになるまで、人間は実のところ、まったく驚くほどぼうっとしていたがっているというのがまさしく本当なのに違いない。その点、人間は猫と何ら異なるところはないといえよう。そしてそれは「至福」でもある。ドゥルーズは「受動的総合」といっている。
「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)
ところが人間は、そして猫もまた、何かに「出会う」。出会ってしまう。常に既に不意打ちに巻き込まれる可能性の中を生きている。そのとき、ようやく人間は、そして猫もまた、「思考せよと強制」《される》。
「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)
人間は急速に思考する=認識する「冒険的」方向へ引っ張られる。と同時に人間の生は、認識へと向かう生のための確実な地盤をさまざまな立場において占拠する確かな生でもあらねばならない。人間はこのまったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られる。さらに、まったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られることを引き受け、むしろそれをみずから欲望するということでなくてはならない。もっとも、人間も、猫もまた、できれば「受動的総合という至福」のままでいたいのではあるが。何らかの「ショック」ゆえ、「至福」は一挙に遠のいてしまう。冒険的な認識への意志と認識を確かなものにするための地盤を確保する生の欲望を欲望するほかなくなる。そのようなことを意志する人間とはどのような人間だろうか。ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・P.404~405」ちくま学芸文庫)
ところで「出会いの対象は」、「所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」とある。では、この「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何だろう。それこそが習慣化の作業によって削ぎ落とされてしまった「差異」なのだ。
「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)
おそらく思考の根底には思考以前的なありとあらゆる差異化=微分化された無数の情報の氾濫があるだけだ。身体はそれを一挙に感覚する。感覚された種々雑多で様々な情報が社会的文法化の機能によって整頓され整除され意識に上るまでのほんのわずかな瞬間に人間身体は身体全体を用いてこの文法化に参与する。ところがしかし、その根底でまず最初に差異化=微分化された無数の情報を受け止めるとき、人間の思考は一体どのような状態を生きているのだろうか。それはほかでもない、「譫妄」(せんもう)状態のうちにありながら、新しく流れ込んできた諸感覚の積極的受容と同時に差異的=微分的な諸感覚を一定の方向へ差し向ける一挙性を立ち上げる生成への速度の力だ。人間はこの力を本来、無政府的でなおかつ無目的的な力として生きる。そしてこの「速度としての力」はそもそも「譫妄」(せんもう)状態のうちにすでに宿っていたものである。だから人間の思考は始めは意識的なものでは何らなく、むしろそれは無意識的な「譫妄」(せんもう)状態のうちへと常に供給されている欲望の流れたる「器官なき身体」を力の源泉としている。
たゆとうような「至福」を目指して逆に過酷な思考へ生成していく。人間とは何と熾烈な生なのか。とはいえ、世界中のあちこちをせっせと縦断的に移動するわけではない。それでは燃費がかさむ。節約=経済(エコノミー)に背く。むしろほとんど動かないほうがよい。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
遊牧民は、そして猫もまた、無駄に動きまわらない。不意に襲いかかる領土化の襲撃から逃れ去るために、常に速度としても強度としても有効な逃走線を引いていく準備ができている。とりわけ猫は無駄を避ける。領土化(敵に捕獲され従属することを強いられること)から常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている。猫が日なたぼっこしつつ「受動的至福」を貪ることができている理由は、この「常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている」からにほかならない。そしてそのような思考態度はドゥルーズ&ガタリによれば次のように表記される。
「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
そんな猫には一抹の不安はある。
「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)
さて、ヴァージニア・ウルフ作品について。あの波は、波動は、揺らぎは、それにしても一体何なのだろう。課題は依然としてに残されたままだ。しかしそれにはマルクスがこう答えている。余りにも有名な格言。「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
BGM
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
習慣。そこでは一回限りの反復から差異的=微分的なものが削ぎ落とされて、逆に一般的なものに等質化される。そして人間はただ単なる単純なものに習熟するばかりだ。ドゥルーズはいう。
「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を《抜き取る》」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.207」河出文庫)
この「差異を《抜き取る》」という暴力。人間が反復しているのは各瞬間における一回限りの「生」だ。その各瞬間ごとにわずかずつの差異が存在するのは自明である。にもかかわらず習慣はこの「差異を《抜き取る》」。生から差異的なもの=微分的なものを平然と強奪する。常に動的である以上各瞬間ごとに違っており更新されていく人間の生であるにもかかわらず、人間は、反復によって同一化できるものしか認知しようとしない習慣に慣れてしまっている。この場合、「慣れ」=「差異を《抜き取る》」という暴力、という社会的公式が世界を支配してしまっていることは余りにも多くの人々によって主張されてきたし証明されてもきた。しかし人間は思想するにせよ、そもそも思想したいとおもっているのだろうか。むしろ何ものにもわずらわされることなくいつまでも安眠していたいというのが本音なのではないだろうか。ドゥルーズはこうもいっている。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
その通り。人間は「何かショックを受けて」始めて「思考する」。言い換えれば「何かショックを受け」ない限り何も「思考」しないかもしれない。歴史的事実としてアウシュヴィッツがそうであり原爆投下がそうだった。今ではここ滋賀県において三日月知事による「大戸川ダム」凍結解除というグローバル資本経済動向無視の県行政がそうである。これらは形態においても規模においてもそれぞれ違うけれども、質において同質のイデオロギーによって貫かれている。ヘーゲルのいうように「量は質へと転化する」のだ。さらに三日月知事が悪質なのは、戦後生まれであるにもかかわらず、年齢のわりにはケインズ主義的大型公共事業への根拠なき信仰があることだ。ケインズ主義的大型公共事業はそもそも国家の基礎的インフラが整備されていない時期に限り効果を見込めるものでしかなく、その効果といっても全国民(ここでは滋賀県民)全体に行き渡るような性質を何ら有していない。著しい偏りが見られる。むしろケインズ主義的大型公共事業が威力を発揮できたのは、たとえばアメリカの自動車産業がまだまだ勃興期ならびに再編期にあったことに最たる条件があった。大型ダム建設もまたそうだ。ソ連に対する資本主義陣営の危機感があった。しかし時代はもはや二十一世紀も十九年が経過した。言い換えれば、かつてケインズ主義的大型公共事業はアメリカの自動車産業と無数の大型道路拡張整備事業と一体化されており、それはインターネットを始めとする情報通信産業の普及によりほぼ壊滅に追い込まれたという歴史的事実に問題点を探らなければならないということだ。事実、アメリカの自動車産業の衰退と大型道路整備事情との同時多発テロ的破滅は機を一にしている。ーーーそして「何かショックを受けて思考」するようになるまで、人間は実のところ、まったく驚くほどぼうっとしていたがっているというのがまさしく本当なのに違いない。その点、人間は猫と何ら異なるところはないといえよう。そしてそれは「至福」でもある。ドゥルーズは「受動的総合」といっている。
「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)
ところが人間は、そして猫もまた、何かに「出会う」。出会ってしまう。常に既に不意打ちに巻き込まれる可能性の中を生きている。そのとき、ようやく人間は、そして猫もまた、「思考せよと強制」《される》。
「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)
人間は急速に思考する=認識する「冒険的」方向へ引っ張られる。と同時に人間の生は、認識へと向かう生のための確実な地盤をさまざまな立場において占拠する確かな生でもあらねばならない。人間はこのまったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られる。さらに、まったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られることを引き受け、むしろそれをみずから欲望するということでなくてはならない。もっとも、人間も、猫もまた、できれば「受動的総合という至福」のままでいたいのではあるが。何らかの「ショック」ゆえ、「至福」は一挙に遠のいてしまう。冒険的な認識への意志と認識を確かなものにするための地盤を確保する生の欲望を欲望するほかなくなる。そのようなことを意志する人間とはどのような人間だろうか。ニーチェはいう。
「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・P.404~405」ちくま学芸文庫)
ところで「出会いの対象は」、「所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」とある。では、この「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何だろう。それこそが習慣化の作業によって削ぎ落とされてしまった「差異」なのだ。
「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)
おそらく思考の根底には思考以前的なありとあらゆる差異化=微分化された無数の情報の氾濫があるだけだ。身体はそれを一挙に感覚する。感覚された種々雑多で様々な情報が社会的文法化の機能によって整頓され整除され意識に上るまでのほんのわずかな瞬間に人間身体は身体全体を用いてこの文法化に参与する。ところがしかし、その根底でまず最初に差異化=微分化された無数の情報を受け止めるとき、人間の思考は一体どのような状態を生きているのだろうか。それはほかでもない、「譫妄」(せんもう)状態のうちにありながら、新しく流れ込んできた諸感覚の積極的受容と同時に差異的=微分的な諸感覚を一定の方向へ差し向ける一挙性を立ち上げる生成への速度の力だ。人間はこの力を本来、無政府的でなおかつ無目的的な力として生きる。そしてこの「速度としての力」はそもそも「譫妄」(せんもう)状態のうちにすでに宿っていたものである。だから人間の思考は始めは意識的なものでは何らなく、むしろそれは無意識的な「譫妄」(せんもう)状態のうちへと常に供給されている欲望の流れたる「器官なき身体」を力の源泉としている。
たゆとうような「至福」を目指して逆に過酷な思考へ生成していく。人間とは何と熾烈な生なのか。とはいえ、世界中のあちこちをせっせと縦断的に移動するわけではない。それでは燃費がかさむ。節約=経済(エコノミー)に背く。むしろほとんど動かないほうがよい。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
遊牧民は、そして猫もまた、無駄に動きまわらない。不意に襲いかかる領土化の襲撃から逃れ去るために、常に速度としても強度としても有効な逃走線を引いていく準備ができている。とりわけ猫は無駄を避ける。領土化(敵に捕獲され従属することを強いられること)から常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている。猫が日なたぼっこしつつ「受動的至福」を貪ることができている理由は、この「常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている」からにほかならない。そしてそのような思考態度はドゥルーズ&ガタリによれば次のように表記される。
「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
そんな猫には一抹の不安はある。
「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)
さて、ヴァージニア・ウルフ作品について。あの波は、波動は、揺らぎは、それにしても一体何なのだろう。課題は依然としてに残されたままだ。しかしそれにはマルクスがこう答えている。余りにも有名な格言。「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
BGM