ローダの生成変化。このシーンでは生成変化にかかわる根拠であり根拠のなさでもある「少女」への生成変化が見られる。「二十一」という年齢が出てくるには出てくるが、それは「ダロウェイ夫人」がすでにそうだったように、常に移動する可能的様態のうちに配置された仮の年齢に過ぎない。可能的あるいは潜在的ということに関するベルクソン的理解についてはこれまで何度も述べてきたので省略する。ただ、簡略に述べておくに留める。ローダの年齢は二十一歳だという輪郭がはっきりした。と、「二十一」という数字による輪郭の鮮明さによって逆に「二十一」でない場合の可能的あるいは潜在的な世界がやおら浮上してくる。もしかしたら九十歳であるかもしれないし、文章に出てくるように「少女」であるかもしれない。ローダはそのような自分の存在の柔軟性を積極的な柔軟性として考えることができない。むしろ逆に「愚弄され」ているように思い込んでしまう。弱いから愚弄されているわけではない。事情はむしろ逆であって、愚弄されているように思い込んでしまうがゆえに、ローダは自分で自分自身のことを弱さとして思案してしまうのだ。しかしローダを愚弄するようにおもわせてしまうものは一体何なのか。
「『でも私、まだ二十一になっていないのよ。壊されるようにできてるの。一生愚弄されるようになってるんだわ。ーーーまるで荒海に浮かぶコルクみたいーーー私は岩の端っこに流れては白くたまる泡沫なの。それに少女でもあるんだわ、ここで、この部屋で』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.105」角川文庫)
変化過程。まず「壊され」ねばならない。そして「コルク」に、「泡沫」に、「少女」に《なる》。変身のための過程としては理想的といえる。だがこの場面で見逃してならないのは一連の変身が行われる場所だ。「ここで、この部屋で」とある。ローダは「この部屋」から動いていない。動くことなくダイナミックな変容を遂げる。ドゥルーズとガタリはいっていた。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
この意味でローダは遊牧民でもある。そしてその権能として自分で自分自身を次のように捉える必要があるだろう。ローダはわかっていないが、わかっていないにもかかわらず、ただ、そうする。
「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
むろん「脱領土化」は「脱コード化」と同じ平面で行われる。脱領土化を可能にするのは資本主義であり、資本主義の運動はすべて脱コード化と再領土化の反復である。だからローダは資本主義の諸運動に乗ってよい。乗っていく。そして脱領土化するけれども、その脱領土化はローダ固有の脱領土化の運動として、脱領土化そのものをローダ固有の運動として再領土化しなければならない。しかし同時に同じ地点で同じ様態を取ってばかりいてはいけない。常に場所を変えること。変化していくこと。逃走線を駆け抜けていくこと。それが大事だ。カフカの諸作品が語っているのはそういうことだ。ただしカフカでは窮地に追い込まれた主人公のための逃走線を開いてやるのはいつも何人かの女性である。そのような女性の役割は、その女性が、正体のはっきりしないぼんやりした輪郭しか取っていない限りにおいて始めて作用する、脱領土化への橋渡しである。一見どたばたに映って見えるが、夢うつつのうちに主人公に逃走線を与えてやるのはいつでもそのようなぼんやりした輪郭しか持たない、年齢不詳で確固たる故郷を持たない女性なのだ。さらに作品「審判」ではそこに画家のアトリエの周囲をうろうろと遊び廻っている子どもたちが加わってくる。子どもたちは主人公をわけのわからない遊びの世界へ翻弄しつつ主人公を上手く画家のアトリエの中に導く逃走線そのものと化している。とはいえ、そこで描かれている子どもたちは特に何らの特徴も有さないごくふつうの子どもたちなのだ。こんなふうに。
「私がほんらい『語りかけうる』のは、人間外の世界〔が存在すること〕によってではなく、私と同等な者、《共に在る》-世界と、それが客観化したもの〔が存在すること〕によってである。子どもや、なお子どもじみている成人が、内世界的に存在するーーー直接的にも間接的にもーーー人間的現存在という存在様式をもた《ない》ものに語りかけるかぎりでは、かれらはそのさい世界を、現実に《共に》-生き、《共に》-遊び、耳をかけむける-《べき》周囲世界として理解しているのである。子どもにとって人形は、《共に》語りあう同等な相手である。他方おとなの目からすれば、子どもだけが人形に語りかけているようにみえる」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.243~244」岩波文庫)
またローダは部屋の中にいる限り、どのような生成変化を遂げていたとしても、どこの誰にも知られることはない。まったく危険がないとはいいきれないが。たとえば次のような危険が。
「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)
さて、波の描写。というより、水の描写。この部分は川の流れの描写である。
「合流しては泡立ち、もみ合いながら次第次第に速度を速め、同じ水路を下り落ち、同じ幅広の木の葉を掠めてよぎる、絡み合った渓流さながら」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.107」角川文庫)
ベルクソンのいう持続と大変似ている。もっとも、ウルフがベルクソン哲学に親しんでいたことはよく知られている。
「あたかも或るメロディーの楽音を言わば全部が溶け合ったような状態で想起するときに起こるように、ーーーこれらの楽音は継起しはするが、それでも私たちはそれらを相互に統覚しているわけであって、それら楽音の全体は、その諸部分が、たとえ区別されはしても、それらの緊密な結びつきそのものによって相互に浸透し合うような生き物になぞらえうるとは言えまいか。その証拠に、メロディーの一つの音を不当に強調して調子を乱すようなことがあると、その誤りを告げ知らせるのは、長さとしては度を越したその長さではなく、そのことによって楽節全体にもたらされた質的変化なのである。したがって、区別のない継起というものを考えることができる。しかも、その各々が全体を表し、ただ抽象することのできる思考にとってのみ全体から区別され、分離される諸要素の相互浸透、緊密な結合、内的組織化として考えることができる。このようなものこそ、おそらく、同一でありながら変化する存在者、何ら空間の観念をもたないような存在者が持続について形成するであろう表象である」(ベルクソン「時間と自由・P.122~123」岩波文庫)
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
一つの川の流れを一人の人間の生の営みとして考えるとこうもいえる。
「私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である」(ベルクソン「時間と自由・P.270」岩波文庫)
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
これらを同時に観察する立場からの「見え・眺め」を含めてベルクソンはこう述べている。
「持続は、《そのうちでじぶんが行動するのを観察するさいには》、さらにみずからを観察することが有用である場合ならば、要素がたがいに切りはなされ、並置されている持続である。たほう持続は、《そのなかでみずからが行動するかぎりでは》、私たちの状態がたがいに融合しあっている持続となる」(ベルクソン「物質と記憶・P.364」岩波文庫)
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.429」ちくま学芸文庫)
とはいえ、観察する立場に立てば、それは次のように観察することしかできない。その映像は、認識する主体にとって常に「映画的」だと。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
と、ここまで「川の流れ」について述べてきた。けれども実をいうとこの描写は「鳥たち」が飛び交う描写である。「鳥たち」は「合流して」「渓流」に《なる》。「鳥たち」は空を駆ける「渓流」なのだ。
さて、認識することを諦めないバーナード。「なんにも気にかけない状態」にあるとき、バーナードはまさしく社会的人間の真相に迫っている。
「『我々は無理に生きている、と思われる。それから又、なんにも気にかけない状態が来る。行き交う車の叫びや、こちらへ、あちらへと、同じような顔をした人の行き来が僕を麻酔させて眠らせる。あの顔、この顔から、鼻や眼や耳や口を剥ぎ取ってしまう。人々が僕を通り抜けて歩いているらしい』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.110」角川文庫)
社会的人間は自分で自分自身が「こちらへ、あちらへ」と「行き来」を繰り返すことで「あの顔、この顔」から「鼻や眼や耳や口を剥ぎ取」られていく。透明人間のようにバーナードの身体を「通り抜けて歩いてい」く。そのとき、バーナードは自分を「通り抜けて歩いてい」くすべての人間を自分で自分自身が演じていることに気づいていない。おそらくもっと大量の人間がバーナードの身体を、バーナードの仮面を一時的に借りて、「通り抜け」ているし、今後も「通り抜け」ていくに違いない。社会的人間、いわゆる「社会化された人間」はいつどのような場合でも他のものと交換可能な諸項のうちの一つの項でしかなくなっている。
「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)
だがテクノロジーの発展の結果、労働は必要なくなると言い出す人々が出てきた。そんなことがありうるだろうか。むしろテクノロジーの発展はこれまでの労働時間を短縮させるが、他方、短縮されて開いた時間に他の労働力を投入して機械自体を作動させることは幾らでも可能である。だから労働時間の短縮は解決ではなく逆に新しい問題として出現する。一方で労働から解放された労働者は、他方の労働者が労働に従事している間に消費することを促され、他方の労働者が労働から解放されている時間帯には、一方の労働者が労働現場へ帰ってきて労働力商品として作動している間に消費することを促される。資本主義機械は他人のことなど考えない。自分のことしか考えない。資本主義は自己目的なのだ。こうした過程を反復するうちにイギリスでは速くも個々人に特有の面貌というものは抹消されつつあった。ただ「のっぺらぼう」な顔ばかりがあちこちを行き来するようになっていた。だから作品「船出」では、人と話すとき、あたかも「肩書」と話しているようでつまらないという意味の文章がすでに述べらていたわけだが。ちなみに「のっぺらぼう」の対極にあるのは何だろう。たとえばゴッホの自画像は。バーナードが「剥ぎ取」られていると考えた「眼、鼻、口、あるいは髭、そして実際に切り落とされてなくなった耳」でできているといえないだろうか。たぶん現代人はゴッホの自画像に「眼、鼻、口、あるいは髭、そして実際に切り落とされてなくなった耳」の量感的実在を発見して驚愕しているのだ。それは現代人がすでに放棄せざるを得なかったかけがえのないものの突然の出現でもあるからに違いない。それは現代人の浮薄性を無言のうちに告発することで観察し認識しようとする側をたじろがせる。
さてバーナードは、自分自身が「夢想的な、うつつならぬ進展」であるとして思考の進行に乗っていく。
「『本当に、流れの表面の下を運ばれて行かれるような、僕の夢想的な、うつつならぬ進展は、自然に湧き出る勝手違いの色々な感動によって邪魔され、引き裂かれ、突き刺され、引きもがれる。眠っている時のような奇妙な、貪欲な、物欲しそうな、無責任な感動で。ーーー行動する人間にとっては不可能なことだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.111」角川文庫)
ところが、「邪魔され」「引き裂かれ」「突き刺され」「引きもがれ」なくては、それこそただ単なる「のっぺらぼう」なバーナードでしかなくなってしまう。というのは、この「邪魔」になる「勝手違いの色々な感動」があってこそ、バーナードが単純な持続自体と化して流れの中に完全に埋没してしまうことを阻止する装置として機能しているからだ。それは交響曲の中で時々アクセントを付けて浮かび上がるティンパニのような存在意義を持つ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
始まりもなければ終わりもない持続する流れの中で、バーナードが一つの波あるいは震動として瞬間的に浮かび上がることができるのは、世界の中にそういう事情が介在しているからにほかならない。また、「行動する人間にとっては不可能」とある。「夢想的な、うつつならぬ進展」のただなかでは不可能だということなのだが、それをどう表現するべきか。表現できるだろうか。ちなみにベルクソンはこう述べた。行動に最も近い点を頂点Sとし、頂点Sが可動平面Pと接触するところが「私の現在」だと。P.301図4参照。
「頂点Sは、あらゆる瞬間に私の現在をかたどって、たえず前進しており、不断にまた可動平面Pと接触している。Pがあらわすものは、宇宙にかんする私の現勢的な表象なのである。Sには、身体のイマージュが集中してあらわれる。さらにこの身体のイマージュは、平面Pの一部をかたちづくっているのだから、その役割はさまざまな作用を受容し、送りかえすことにかぎられる。ここで作用は、平面を構成するイマージュのいっさいから発出してくるものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.302」岩波文庫)
だから、頂点Sに近づけば近づくほど知覚は身体の皮膚感覚に近くなる。したがって行為するとき人間はいつも、程度の違いはあるものの、逆円錐の奥から出てきて頂点Sに近づいているのだ。にもかかわらずバーナードはなかなか行動へ移らない。認識しようとする。
「『歩いていて、僕は奇妙な心の動揺や同情に充ちた震動に顫えてはいないか。それらは、今の僕のように個人的な存在から解き放たれて、これらの心を奪う群々を僕に抱擁させようとするのだ。これらの見つめる人やぶらぶら歩いている連中を』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.111」角川文庫)
個人的存在から解放されて全体的な流れとして見知らぬ周囲の人々との一体化を望む。欲望の一元論が成立するとすればそれはバーナードが考える通りだ。しかしその内実はそれほど単純ではない。様々に分裂した多種多様な諸力が反発し合い融合し合う質的多様性のたわむれとしての流れであるほかない。そのような事情を頭の中だけで認識しようとすればするほど逆に頭の中はぼうっとしてくることがないだろうか。今のバーナードがそうだ。同じ思考を堂々巡りする。
「『僕の特別な天稟とか特質とか、さては我が身に帯びている特徴、目や鼻や口などは思いも及ばぬ。僕は、この瞬間には、僕ではない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.112」角川文庫)
バーナードは「この瞬間には、僕ではない」とおもう。僕でありたい、という意味なのだろうか。その場合、僕とは何か。それを見極めるには外部の力を借りる必要があると思いいたる。外部の力とは鏡の効果を指す。
「『自分であるためには(僕は書き留める)他人の眼の燦めきが必要なのだ。そんなわけで自分がなんであるのか、自分ながらしかとはわからない。信ずるにたるものは、ルイスのように、ローダのように、全くの孤独に存在しているのだ。彼等は燦めく照明を、反復を、憤慨する。彼等はひとたび描かれた彼等の絵を、顔を下にして野原に投げ捨てる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.113」角川文庫)
ルイスやローダは「燦めく照明」を得て一時の個別性を獲得する。けれどもそうして得られた個別性を惜しげもなく「野原に投げ捨てる」。変身への意志は速やかだ。しかしバーナードはルイスやローダといった仲間たち〔他人の眼の燦めき〕の前に戸惑っている。バーナードは自分自身に備わるはずの個別的で輪郭のはっきりした顔を欲望しながら、しかし欲望を埋めにくる他人の眼の燦めきを恐れている。バーナードの欲望は依然として欠如態のままにある。それを埋めるものは何か。ラカンによればそれは対象「a」であり、対象「a」の機能を果たすものであれば何でも構わない。差し当たり「眼差し」が上げられる。ルイスやローダが不意に付与する「眼差し」。しかし対象「a」の系列にはもっと他に幾つかの対象を上げることができる。ラカンはいう。
「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店)
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)
それらはバーナードが欲しているものなのか。少なくともそれなしにはバーナードは自分自身に固有の顔を取り戻ることはできない。おとなになればなるほど人間は単なる映像ではなく言語を重視するようになる。そして他人の顔について語るとき、顔について語るのではなく、顔を指し示す言語にのみ信用を置く。バーナードは一刻も速くルイスやローダによる「眼差し」によって自己の顔を、しかし永遠に失われてしまった「目や鼻や口など」のある顔ではなく、差し当たり社会的に通用する仮面を準備しておかなくてはならない。
BGM
「『でも私、まだ二十一になっていないのよ。壊されるようにできてるの。一生愚弄されるようになってるんだわ。ーーーまるで荒海に浮かぶコルクみたいーーー私は岩の端っこに流れては白くたまる泡沫なの。それに少女でもあるんだわ、ここで、この部屋で』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.105」角川文庫)
変化過程。まず「壊され」ねばならない。そして「コルク」に、「泡沫」に、「少女」に《なる》。変身のための過程としては理想的といえる。だがこの場面で見逃してならないのは一連の変身が行われる場所だ。「ここで、この部屋で」とある。ローダは「この部屋」から動いていない。動くことなくダイナミックな変容を遂げる。ドゥルーズとガタリはいっていた。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
この意味でローダは遊牧民でもある。そしてその権能として自分で自分自身を次のように捉える必要があるだろう。ローダはわかっていないが、わかっていないにもかかわらず、ただ、そうする。
「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
むろん「脱領土化」は「脱コード化」と同じ平面で行われる。脱領土化を可能にするのは資本主義であり、資本主義の運動はすべて脱コード化と再領土化の反復である。だからローダは資本主義の諸運動に乗ってよい。乗っていく。そして脱領土化するけれども、その脱領土化はローダ固有の脱領土化の運動として、脱領土化そのものをローダ固有の運動として再領土化しなければならない。しかし同時に同じ地点で同じ様態を取ってばかりいてはいけない。常に場所を変えること。変化していくこと。逃走線を駆け抜けていくこと。それが大事だ。カフカの諸作品が語っているのはそういうことだ。ただしカフカでは窮地に追い込まれた主人公のための逃走線を開いてやるのはいつも何人かの女性である。そのような女性の役割は、その女性が、正体のはっきりしないぼんやりした輪郭しか取っていない限りにおいて始めて作用する、脱領土化への橋渡しである。一見どたばたに映って見えるが、夢うつつのうちに主人公に逃走線を与えてやるのはいつでもそのようなぼんやりした輪郭しか持たない、年齢不詳で確固たる故郷を持たない女性なのだ。さらに作品「審判」ではそこに画家のアトリエの周囲をうろうろと遊び廻っている子どもたちが加わってくる。子どもたちは主人公をわけのわからない遊びの世界へ翻弄しつつ主人公を上手く画家のアトリエの中に導く逃走線そのものと化している。とはいえ、そこで描かれている子どもたちは特に何らの特徴も有さないごくふつうの子どもたちなのだ。こんなふうに。
「私がほんらい『語りかけうる』のは、人間外の世界〔が存在すること〕によってではなく、私と同等な者、《共に在る》-世界と、それが客観化したもの〔が存在すること〕によってである。子どもや、なお子どもじみている成人が、内世界的に存在するーーー直接的にも間接的にもーーー人間的現存在という存在様式をもた《ない》ものに語りかけるかぎりでは、かれらはそのさい世界を、現実に《共に》-生き、《共に》-遊び、耳をかけむける-《べき》周囲世界として理解しているのである。子どもにとって人形は、《共に》語りあう同等な相手である。他方おとなの目からすれば、子どもだけが人形に語りかけているようにみえる」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.243~244」岩波文庫)
またローダは部屋の中にいる限り、どのような生成変化を遂げていたとしても、どこの誰にも知られることはない。まったく危険がないとはいいきれないが。たとえば次のような危険が。
「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)
さて、波の描写。というより、水の描写。この部分は川の流れの描写である。
「合流しては泡立ち、もみ合いながら次第次第に速度を速め、同じ水路を下り落ち、同じ幅広の木の葉を掠めてよぎる、絡み合った渓流さながら」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.107」角川文庫)
ベルクソンのいう持続と大変似ている。もっとも、ウルフがベルクソン哲学に親しんでいたことはよく知られている。
「あたかも或るメロディーの楽音を言わば全部が溶け合ったような状態で想起するときに起こるように、ーーーこれらの楽音は継起しはするが、それでも私たちはそれらを相互に統覚しているわけであって、それら楽音の全体は、その諸部分が、たとえ区別されはしても、それらの緊密な結びつきそのものによって相互に浸透し合うような生き物になぞらえうるとは言えまいか。その証拠に、メロディーの一つの音を不当に強調して調子を乱すようなことがあると、その誤りを告げ知らせるのは、長さとしては度を越したその長さではなく、そのことによって楽節全体にもたらされた質的変化なのである。したがって、区別のない継起というものを考えることができる。しかも、その各々が全体を表し、ただ抽象することのできる思考にとってのみ全体から区別され、分離される諸要素の相互浸透、緊密な結合、内的組織化として考えることができる。このようなものこそ、おそらく、同一でありながら変化する存在者、何ら空間の観念をもたないような存在者が持続について形成するであろう表象である」(ベルクソン「時間と自由・P.122~123」岩波文庫)
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
一つの川の流れを一人の人間の生の営みとして考えるとこうもいえる。
「私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である」(ベルクソン「時間と自由・P.270」岩波文庫)
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
これらを同時に観察する立場からの「見え・眺め」を含めてベルクソンはこう述べている。
「持続は、《そのうちでじぶんが行動するのを観察するさいには》、さらにみずからを観察することが有用である場合ならば、要素がたがいに切りはなされ、並置されている持続である。たほう持続は、《そのなかでみずからが行動するかぎりでは》、私たちの状態がたがいに融合しあっている持続となる」(ベルクソン「物質と記憶・P.364」岩波文庫)
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.429」ちくま学芸文庫)
とはいえ、観察する立場に立てば、それは次のように観察することしかできない。その映像は、認識する主体にとって常に「映画的」だと。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
と、ここまで「川の流れ」について述べてきた。けれども実をいうとこの描写は「鳥たち」が飛び交う描写である。「鳥たち」は「合流して」「渓流」に《なる》。「鳥たち」は空を駆ける「渓流」なのだ。
さて、認識することを諦めないバーナード。「なんにも気にかけない状態」にあるとき、バーナードはまさしく社会的人間の真相に迫っている。
「『我々は無理に生きている、と思われる。それから又、なんにも気にかけない状態が来る。行き交う車の叫びや、こちらへ、あちらへと、同じような顔をした人の行き来が僕を麻酔させて眠らせる。あの顔、この顔から、鼻や眼や耳や口を剥ぎ取ってしまう。人々が僕を通り抜けて歩いているらしい』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.110」角川文庫)
社会的人間は自分で自分自身が「こちらへ、あちらへ」と「行き来」を繰り返すことで「あの顔、この顔」から「鼻や眼や耳や口を剥ぎ取」られていく。透明人間のようにバーナードの身体を「通り抜けて歩いてい」く。そのとき、バーナードは自分を「通り抜けて歩いてい」くすべての人間を自分で自分自身が演じていることに気づいていない。おそらくもっと大量の人間がバーナードの身体を、バーナードの仮面を一時的に借りて、「通り抜け」ているし、今後も「通り抜け」ていくに違いない。社会的人間、いわゆる「社会化された人間」はいつどのような場合でも他のものと交換可能な諸項のうちの一つの項でしかなくなっている。
「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)
だがテクノロジーの発展の結果、労働は必要なくなると言い出す人々が出てきた。そんなことがありうるだろうか。むしろテクノロジーの発展はこれまでの労働時間を短縮させるが、他方、短縮されて開いた時間に他の労働力を投入して機械自体を作動させることは幾らでも可能である。だから労働時間の短縮は解決ではなく逆に新しい問題として出現する。一方で労働から解放された労働者は、他方の労働者が労働に従事している間に消費することを促され、他方の労働者が労働から解放されている時間帯には、一方の労働者が労働現場へ帰ってきて労働力商品として作動している間に消費することを促される。資本主義機械は他人のことなど考えない。自分のことしか考えない。資本主義は自己目的なのだ。こうした過程を反復するうちにイギリスでは速くも個々人に特有の面貌というものは抹消されつつあった。ただ「のっぺらぼう」な顔ばかりがあちこちを行き来するようになっていた。だから作品「船出」では、人と話すとき、あたかも「肩書」と話しているようでつまらないという意味の文章がすでに述べらていたわけだが。ちなみに「のっぺらぼう」の対極にあるのは何だろう。たとえばゴッホの自画像は。バーナードが「剥ぎ取」られていると考えた「眼、鼻、口、あるいは髭、そして実際に切り落とされてなくなった耳」でできているといえないだろうか。たぶん現代人はゴッホの自画像に「眼、鼻、口、あるいは髭、そして実際に切り落とされてなくなった耳」の量感的実在を発見して驚愕しているのだ。それは現代人がすでに放棄せざるを得なかったかけがえのないものの突然の出現でもあるからに違いない。それは現代人の浮薄性を無言のうちに告発することで観察し認識しようとする側をたじろがせる。
さてバーナードは、自分自身が「夢想的な、うつつならぬ進展」であるとして思考の進行に乗っていく。
「『本当に、流れの表面の下を運ばれて行かれるような、僕の夢想的な、うつつならぬ進展は、自然に湧き出る勝手違いの色々な感動によって邪魔され、引き裂かれ、突き刺され、引きもがれる。眠っている時のような奇妙な、貪欲な、物欲しそうな、無責任な感動で。ーーー行動する人間にとっては不可能なことだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.111」角川文庫)
ところが、「邪魔され」「引き裂かれ」「突き刺され」「引きもがれ」なくては、それこそただ単なる「のっぺらぼう」なバーナードでしかなくなってしまう。というのは、この「邪魔」になる「勝手違いの色々な感動」があってこそ、バーナードが単純な持続自体と化して流れの中に完全に埋没してしまうことを阻止する装置として機能しているからだ。それは交響曲の中で時々アクセントを付けて浮かび上がるティンパニのような存在意義を持つ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
始まりもなければ終わりもない持続する流れの中で、バーナードが一つの波あるいは震動として瞬間的に浮かび上がることができるのは、世界の中にそういう事情が介在しているからにほかならない。また、「行動する人間にとっては不可能」とある。「夢想的な、うつつならぬ進展」のただなかでは不可能だということなのだが、それをどう表現するべきか。表現できるだろうか。ちなみにベルクソンはこう述べた。行動に最も近い点を頂点Sとし、頂点Sが可動平面Pと接触するところが「私の現在」だと。P.301図4参照。
「頂点Sは、あらゆる瞬間に私の現在をかたどって、たえず前進しており、不断にまた可動平面Pと接触している。Pがあらわすものは、宇宙にかんする私の現勢的な表象なのである。Sには、身体のイマージュが集中してあらわれる。さらにこの身体のイマージュは、平面Pの一部をかたちづくっているのだから、その役割はさまざまな作用を受容し、送りかえすことにかぎられる。ここで作用は、平面を構成するイマージュのいっさいから発出してくるものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.302」岩波文庫)
だから、頂点Sに近づけば近づくほど知覚は身体の皮膚感覚に近くなる。したがって行為するとき人間はいつも、程度の違いはあるものの、逆円錐の奥から出てきて頂点Sに近づいているのだ。にもかかわらずバーナードはなかなか行動へ移らない。認識しようとする。
「『歩いていて、僕は奇妙な心の動揺や同情に充ちた震動に顫えてはいないか。それらは、今の僕のように個人的な存在から解き放たれて、これらの心を奪う群々を僕に抱擁させようとするのだ。これらの見つめる人やぶらぶら歩いている連中を』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.111」角川文庫)
個人的存在から解放されて全体的な流れとして見知らぬ周囲の人々との一体化を望む。欲望の一元論が成立するとすればそれはバーナードが考える通りだ。しかしその内実はそれほど単純ではない。様々に分裂した多種多様な諸力が反発し合い融合し合う質的多様性のたわむれとしての流れであるほかない。そのような事情を頭の中だけで認識しようとすればするほど逆に頭の中はぼうっとしてくることがないだろうか。今のバーナードがそうだ。同じ思考を堂々巡りする。
「『僕の特別な天稟とか特質とか、さては我が身に帯びている特徴、目や鼻や口などは思いも及ばぬ。僕は、この瞬間には、僕ではない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.112」角川文庫)
バーナードは「この瞬間には、僕ではない」とおもう。僕でありたい、という意味なのだろうか。その場合、僕とは何か。それを見極めるには外部の力を借りる必要があると思いいたる。外部の力とは鏡の効果を指す。
「『自分であるためには(僕は書き留める)他人の眼の燦めきが必要なのだ。そんなわけで自分がなんであるのか、自分ながらしかとはわからない。信ずるにたるものは、ルイスのように、ローダのように、全くの孤独に存在しているのだ。彼等は燦めく照明を、反復を、憤慨する。彼等はひとたび描かれた彼等の絵を、顔を下にして野原に投げ捨てる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.113」角川文庫)
ルイスやローダは「燦めく照明」を得て一時の個別性を獲得する。けれどもそうして得られた個別性を惜しげもなく「野原に投げ捨てる」。変身への意志は速やかだ。しかしバーナードはルイスやローダといった仲間たち〔他人の眼の燦めき〕の前に戸惑っている。バーナードは自分自身に備わるはずの個別的で輪郭のはっきりした顔を欲望しながら、しかし欲望を埋めにくる他人の眼の燦めきを恐れている。バーナードの欲望は依然として欠如態のままにある。それを埋めるものは何か。ラカンによればそれは対象「a」であり、対象「a」の機能を果たすものであれば何でも構わない。差し当たり「眼差し」が上げられる。ルイスやローダが不意に付与する「眼差し」。しかし対象「a」の系列にはもっと他に幾つかの対象を上げることができる。ラカンはいう。
「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店)
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)
それらはバーナードが欲しているものなのか。少なくともそれなしにはバーナードは自分自身に固有の顔を取り戻ることはできない。おとなになればなるほど人間は単なる映像ではなく言語を重視するようになる。そして他人の顔について語るとき、顔について語るのではなく、顔を指し示す言語にのみ信用を置く。バーナードは一刻も速くルイスやローダによる「眼差し」によって自己の顔を、しかし永遠に失われてしまった「目や鼻や口など」のある顔ではなく、差し当たり社会的に通用する仮面を準備しておかなくてはならない。
BGM