EUは資本主義の未来の先取りとして成立した。たとえばフランスにとってはフランスの快楽追求意志の過程であり、まだまだ過程でしかない。にもかかわらず、すでに放棄されようとしている。ルペン率いる極右政党の躍進はほんのいっときの感情的時間による支配でしかない。なるほど民主主義的見地からいえば極右政党はあってよい。しかしその拡大化と排他主義的傾向がもたらす貿易面での不利な状況は中長期的スパンで見た場合、フランスの貿易すなわち経済的諸関係にとって余計に不利な状況を拡大再生産するばかりであって、けっして有利な要因を呼び込むことにはならない。資本主義は孤立主義を徹底的に嫌う。むしろ逆に世界の多面的融合をどんどん推し進める。労働力の相互乗り入れを浸透させるように動く。今このときも休みなく相互乗り入れを浸透させようとしており、後退することを知らない。後になってフランスの景気動向と諸勢力の力関係が揺れ動き変化したとき、極右政党が打ち出した政治政策がどれだけネックとなって立ちはだかってしまうか、まだ誰にもわからない。しかし言葉だけが調子良く一人歩きしている。
フランスはテクストの国だ。他者との向き合い方もテクストである。テクストは快楽だ。他者との出会いは快楽でありテクストである。バルトはいう。
「テクストの快楽とテクストの制度の間にどんな関係があり得るだろうか。ほんの僅かな関係しかない。テクストの理論は悦楽を想定しているけれど、将来制度となる可能性はほとんどない。それが基礎づけるもの、厳密に実現するもの、仮定するものは、実践(作家の実践)であって、科学や方法や研究や教育法ではない。その原理からいって、この理論は理論家か実践家(書く人)しか生めず、専門家(批評家、研究者、教師、学生)は全然生めない。テクストの快楽の記述を妨げているのは、あらゆる制度的な研究の、宿命的にメタ言語的にならざるを得ない性格だけではない。われわれが、現在、真の生成の科学(それだけがわれわれの快楽を、道徳的な後見を添えずに引き取ってくれるだろう)を構想できないからでもある。『ーーーわれわれは、《生成》の、おそらく、《絶対的な流れ》を知覚するほど《精緻》ではない。《永続するもの》は、物事を常識的な平面に要約し、還元する、われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物も《この形では》存在しないのである。木は瞬間毎に新しいものである。われわれが《形》を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである』(ニーチェ)」(バルト「テクストの快楽・P.113~114」みすず書房)
バルトのいうテクストは、日本の大学でいう「テキスト」(教科書)とは何の関係もない。逆にテクストは「制度」ではない。さらに、ただ単に「読む」ということを意味しているわけでもない。むしろ「制度」を乗り越えていく斬新でなおかつ複数の「行為」である。そこから快楽が生じると同時にそれ自体が快楽であるテクスト。不断に生成していくこと。それが快楽自身であること。テクストはいつも複数の快楽であり行為であるほかない。すぐれて《実践的》な複数の行為である。なお、バルトがニーチェから引用している部分。以下。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)
世界は本来的に「絶対的流動」であり、ただ単なる「持続」ではない。ここで「持続」というのは、ベルクソンのいう持続とは違っている。むしろベルクソンのいう「持続」はニーチェのいう「絶対的流動」に相当する。それは「質的多様性」であり「絶対的異質性」である。
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
ではニーチェが批判する「持続」とは何か。それはたとえば「樹木」が現実的には各瞬間ごとにまったく異なる様相を呈し変化に富んだ諸局面を経巡っているにもかかわらず、その現実を無視して言語だけで成立した「樹木」という言葉が引き続き「同じ樹木」として「持続」されていることに対する大いなる疑問である。誰の目にも明らかな変化が確かに認められるのに、しかしなぜ、「同じ樹木」が「持続」していると考えるのかという根本的問い。各瞬間ごとに違う或る種の「樹木」なのではないか。すべての樹木は常に既に生成変化のうちにあるのではないか。そうニーチェは主張する。それを受けてバルトは、テクストを生成変化として捉えているわけだ。
テクストはたった一つの書物を読むわけではない。むしろ読むことは読者が改めて書くということなのであり、書くことのうちで書物も読者も生成変化していく過程の中に身を置くという行為である。だからテクストはいつもすでに変化のただなかを疾走していくという行為のうちにしかない。この疾走は無数に枝分かれしつつ多様な生成変化をフュージョンするがゆえに疾走自体が快楽なのだ。
さらにEUはフュージョンである。同時にこのフュージョンは一度始まったら終わるということを知らない。資本主義はそういうふうにできている。資本主義はあくまで自己目的なのでありフランスという一国家がどうであれ、その国民がどのように考えるにせよ、資本主義はまた別様に考える。あるいは何も考えない。ただひたすら自己目的を追求する快楽する諸機械でしかない。そのためにはどんな暴力装置をも手配するし自分で動かす。貿易については一国内での自己満足的な取引を許さず(旧ソ連が実例だ)諸外国とのダイナミックな取引を優先させて競争させるし、剰余価値の追求のためには臆することなく殺人的行為を実行する。そういう意味ではマルクスの時代から何らの変化もない。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
また、移民反対とか労働力商品の流動性阻止とかいう反資本主義的な言動が幅を効かせるようになり資本主義的自然法則が崩れかけてくると、資本主義はその発生の頃の様式へ自分で自分自身を巻き戻し、国家権力を暴力的に発動して割安な労働力商品の形成を容赦なく貫徹する。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
これら資本主義に内在的な掟に逆らう勢力の台頭は、それが小さなうちは目をつむり寛容な態度を見せておくけれども、一定の程度を越えて成長してくる場合、資本主義はそれらを自動的に叩き潰すことにしているし言うまでもなくこれまでもそうしてきた。そのようなわけだ。したがって、資本主義がフランスやイギリスだけを大目に見てやるという手厚い慈悲の心を持っているなどと、いったいどこの誰がおもうだろうか。全世界をシャッフルさせること。今の資本主義が目指しているのはそういうことだ。しかしなぜフランスはその程度のこともわかろうとしないのだろうか。強情の行方はなかなか辛いものがあるとおもわれるわけだが。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
BGM
フランスはテクストの国だ。他者との向き合い方もテクストである。テクストは快楽だ。他者との出会いは快楽でありテクストである。バルトはいう。
「テクストの快楽とテクストの制度の間にどんな関係があり得るだろうか。ほんの僅かな関係しかない。テクストの理論は悦楽を想定しているけれど、将来制度となる可能性はほとんどない。それが基礎づけるもの、厳密に実現するもの、仮定するものは、実践(作家の実践)であって、科学や方法や研究や教育法ではない。その原理からいって、この理論は理論家か実践家(書く人)しか生めず、専門家(批評家、研究者、教師、学生)は全然生めない。テクストの快楽の記述を妨げているのは、あらゆる制度的な研究の、宿命的にメタ言語的にならざるを得ない性格だけではない。われわれが、現在、真の生成の科学(それだけがわれわれの快楽を、道徳的な後見を添えずに引き取ってくれるだろう)を構想できないからでもある。『ーーーわれわれは、《生成》の、おそらく、《絶対的な流れ》を知覚するほど《精緻》ではない。《永続するもの》は、物事を常識的な平面に要約し、還元する、われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物も《この形では》存在しないのである。木は瞬間毎に新しいものである。われわれが《形》を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである』(ニーチェ)」(バルト「テクストの快楽・P.113~114」みすず書房)
バルトのいうテクストは、日本の大学でいう「テキスト」(教科書)とは何の関係もない。逆にテクストは「制度」ではない。さらに、ただ単に「読む」ということを意味しているわけでもない。むしろ「制度」を乗り越えていく斬新でなおかつ複数の「行為」である。そこから快楽が生じると同時にそれ自体が快楽であるテクスト。不断に生成していくこと。それが快楽自身であること。テクストはいつも複数の快楽であり行為であるほかない。すぐれて《実践的》な複数の行為である。なお、バルトがニーチェから引用している部分。以下。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)
世界は本来的に「絶対的流動」であり、ただ単なる「持続」ではない。ここで「持続」というのは、ベルクソンのいう持続とは違っている。むしろベルクソンのいう「持続」はニーチェのいう「絶対的流動」に相当する。それは「質的多様性」であり「絶対的異質性」である。
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
ではニーチェが批判する「持続」とは何か。それはたとえば「樹木」が現実的には各瞬間ごとにまったく異なる様相を呈し変化に富んだ諸局面を経巡っているにもかかわらず、その現実を無視して言語だけで成立した「樹木」という言葉が引き続き「同じ樹木」として「持続」されていることに対する大いなる疑問である。誰の目にも明らかな変化が確かに認められるのに、しかしなぜ、「同じ樹木」が「持続」していると考えるのかという根本的問い。各瞬間ごとに違う或る種の「樹木」なのではないか。すべての樹木は常に既に生成変化のうちにあるのではないか。そうニーチェは主張する。それを受けてバルトは、テクストを生成変化として捉えているわけだ。
テクストはたった一つの書物を読むわけではない。むしろ読むことは読者が改めて書くということなのであり、書くことのうちで書物も読者も生成変化していく過程の中に身を置くという行為である。だからテクストはいつもすでに変化のただなかを疾走していくという行為のうちにしかない。この疾走は無数に枝分かれしつつ多様な生成変化をフュージョンするがゆえに疾走自体が快楽なのだ。
さらにEUはフュージョンである。同時にこのフュージョンは一度始まったら終わるということを知らない。資本主義はそういうふうにできている。資本主義はあくまで自己目的なのでありフランスという一国家がどうであれ、その国民がどのように考えるにせよ、資本主義はまた別様に考える。あるいは何も考えない。ただひたすら自己目的を追求する快楽する諸機械でしかない。そのためにはどんな暴力装置をも手配するし自分で動かす。貿易については一国内での自己満足的な取引を許さず(旧ソ連が実例だ)諸外国とのダイナミックな取引を優先させて競争させるし、剰余価値の追求のためには臆することなく殺人的行為を実行する。そういう意味ではマルクスの時代から何らの変化もない。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
また、移民反対とか労働力商品の流動性阻止とかいう反資本主義的な言動が幅を効かせるようになり資本主義的自然法則が崩れかけてくると、資本主義はその発生の頃の様式へ自分で自分自身を巻き戻し、国家権力を暴力的に発動して割安な労働力商品の形成を容赦なく貫徹する。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
これら資本主義に内在的な掟に逆らう勢力の台頭は、それが小さなうちは目をつむり寛容な態度を見せておくけれども、一定の程度を越えて成長してくる場合、資本主義はそれらを自動的に叩き潰すことにしているし言うまでもなくこれまでもそうしてきた。そのようなわけだ。したがって、資本主義がフランスやイギリスだけを大目に見てやるという手厚い慈悲の心を持っているなどと、いったいどこの誰がおもうだろうか。全世界をシャッフルさせること。今の資本主義が目指しているのはそういうことだ。しかしなぜフランスはその程度のこともわかろうとしないのだろうか。強情の行方はなかなか辛いものがあるとおもわれるわけだが。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
BGM