大衆雑誌の小説は冒険がたっぷり詰まっている。伝説の素材は日常生活にあるが冒険者は大衆雑誌の読者によって生産されるのだ。「つぶれた活字」とあるが、当時の大衆雑誌というのは大抵そういう出版条件に置かれていたし、ジュネたちの場合はさらにそれを回し読みしたり古書店からの盗品であったりすたため、活字はつぶれている。しかしこの「活字のすり減り」は何を意味するだろうか。無限に延長可能な不特定多数の人間らのあいだを生き生きと流通しそこから生まれる冒険の感染者を大量に出現させてきたということではなかったか。大衆小説から生まれた数々の殺人者たちの冒険は読者にまたとない活気を、すなわち自然力としての労働力を、提供してきたのである。
「つぶれた活字の、これらの分厚い本のページのまんなかに、驚異が立ち現れる。まっすぐ伸びた百合のように、若い男たちが出現するのだが、彼らはいささか私のせいで同時に王子であり乞食である」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
ジュネの場合、「まっすぐ伸びた百合」という同性愛の象徴が出現する。ただ象徴的な「百合」は女性の同性愛者のあいだで多く用いられるとか男性同性愛者のあいだで発生したとか議論は様々あって一定しない。以前にも述べた。しかし問題はなぜ「百合」なのかということであって女性か男性かという対立的構造へ持ち込むのは誤りだろう。そもそも近代初期の刑罰で行われていた慣習が起源的だとは言える。特に重罪を犯した受刑者は肌に焼きごてを当てられて罪人としての過去を持つ二度と消えない徴(しるし)を刻印されるのが常だった。受刑者らはそれを「百合」と呼んだ。否定されたものを鮮やかに肯定すること。言語を用いればその作業は一瞬でこと足りる。ジュネは刑務所の中でも外でもこの種の言語的トリックの習得に熟達していく。
そして百合は「まっすぐ伸びた」ものでなければならない。ジュネの場合、それは理想的に勃起した男性器を意味しているわけだが、むしろ注目すべきはその象徴性である。象徴化されている限りでジュネの想像性あるいは創造性もまた実現される可能性を得ているわけであって、条件が異る場合、たとえば女性たちの場合、それは理想的に快感を与えると同時に与えられる象徴であることは疑いがない。「まっすぐ伸びた」象徴とは「理想的」なものを意味するのであって、貨幣のように、あるいは言語のように、仲間たちの共同作業によってその都度俊敏に変化するものでなくてはならない。
なお、「起源的」という限定の必要性は古代のいつ頃から始まったかわからないタトゥーの歴史の「起源」という問題に関わる。「起源」はわからないとしか言いようがない。だがしかしそれは近代化を達成した先進諸国から「未開」とされる他者の領域を見た場合にのみ「野蛮なもの」に見える風習からすでに始まっていることを考えれば、「未開、野蛮、犯罪」というヨーロッパ中心主義的偏見から生まれて実際の刑罰にスライドされ応用されるに至ったたことは確かだ。
たとえばボードレールのように詩人であることが世間から爪弾きされていた時代、ボードレールは自分で自分のことを罪人に喩えたし罪人であると同時に死刑執行人でもある二重性として意識的に振る舞ったことは有名である。その意味でボードレールは欧米全土に向けてこう言ったといえる。詩人ゆえに見抜くのではなく、見抜いている人々はすべて詩(ポエジー)の理解者である。共犯者なのだと。だからといって世界中の読者はすべて共犯者だとほのめかしはしても直接的に弾劾するようなことは言わない。詩人は弾劾しない。弾劾は政治家や法律家や裁判所の職務だ。むしろボードレールは詩人であるとはどういう事態をいうのか、いかなる分裂を能動的に生きることをいうのかについて、僅かばかり踏み込んで述べたに過ぎない。
そしてさらに、「同時に王子であり乞食である」というのは何度か触れたように世界中の諸民族のあいだで伝承されている創世神話はどれも共通して混沌から始まっていることと関係する。混沌としては《同時に一つ》でしかない。関係を上下に立てると両者の関係は「王子と乞食」とに二分割される。創生神話にはすでに人間の手が入っている。だから神話といってもあくまで事後的な人為的作業によって介入された後のエピソードに過ぎない。また関係を上下ではない別の方法で立てることもできるが、そうでないのは諸民族がまだ無数に分割された小さな共同体でしかなく諸民族間での横断的関係がなかったことによる。しかしそれは歴史以前、共同体間の交換の瞬間から始まる。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
契約という問題含みの動作もまたこの瞬間に発生したことは間違いない。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
ここではまだ共同体あるいは契約で済ますことができる。だが、この種の交換関係はいったん成就されると加速的になおかつ横断的に拡大していく不断の傾向を不可避的に持つ。と同時に一般的にいう「社会」が発生する。すると契約はたちまちただ単なる約束事の次元を越えて「社会的契約」となり、人間によって創設されながらも人間社会の上に立って社会とその構成員たる人間を見えない鎖に拘束しておく桎梏(しっこく)として、国家的装置として、機能するようになる。ジュネが否定されたのはそのような社会からである。孤児という条件がフランス国家からの否定として受け止められるのが常識とされていたということ。ジュネは一九一〇年生まれである。先進諸国といえども二十世紀がいかに過酷な世紀であったか。そしてこの過酷さは十九世紀すでにあからさまに発揮されていたことはどこの国の歴史教科書にも載っている。ところがジュネは世界から否定された否定者としての自分を肯定することで生き延びていく方法を身に付けた。ジュネはその理論化に成功した稀有な事例だと言える。
「私が自分をディヴィーヌに変えるとすれば、私は彼らを彼女の愛人に変える。ノートルダム、ミニョン、ガブリエル、アルベルト、冷血漢となって口笛を吹く少年たちだが、彼らの頭の上には、よく見れば後光となった王冠を見ることができるだろう」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
このような作業は何によってなされたか。言語によってである。言語の両義性によって、そのパルマコン(医薬/毒薬)性によって、である。かといって「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての汚辱を着飾ったわけではない。「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としては「こう書くほか思いもよらない」という必然性を言語化したに過ぎない。ジュネは事実を偽りの衣装で着飾るというような見えすいた嘘を述べたりしない。こうであるとしか思えないがゆえにそう書くのである。
「私は、横顔のなかの正面を向いた目や、血まみれの心臓といった残忍なデッサンと記号がすべてに染み込んだ、ヴェネツィアやロンドンの空のように灰色のページをした安価な小説へのノスタルジーを彼らに抱かさずにはおかない」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
大衆小説は宝石箱だ。それに目を通しそれを記憶装置の中へ保存しておくのが得意なジュネにとって。何度も繰り返し反復に耽ることのできる刑務所こそ何よりの学校だった。記憶装置の見取図については次の通り。321頁図5参照。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
まさしくジュネはベルクソンのいうように「それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるように」行動したといえる。言うまでもなく膨大な犠牲が払われているわけだが。だがジュネはそれを犠牲とは言わないだろう。もっとも、犠牲と書くこともしばしばなのだが、そのときは常にそれを「捧げ物」として、国家への「奉仕」として、述べていることは自明であり実際にそう断った上で書かれているか、あるいはそう注釈したいがためにわざわざそう書くのである。キリスト教と一体化したフランス国家を勃起させ、それを自分の尻の穴へ突入させ律動させ死へと導く。国家が払った力は尻の穴を通してジュネへと移動する。「移動の力/力の移動」はこれほどにも簡単なことなのだ。嗜好によりけりではあるが。
ところで、二十世紀末までははっきり見えていた国家的桎梏(しっこく)は、しかし、消えたといえるだろうか。急速に目に見えなくなってきたことは確かだ。そのぶん国家的桎梏(しっこく)は「それだけますます狡猾に」生き延びるというのが実状ではなかったろうか。ネット社会は何を保存しさらに拡張させることに成功したかという問題を焦点化してみよう。こう言える。
「現代の神話は、不連続的である。それはもはや、構成された大きな物語としてではなく、ただ単に《ディスクール》(言説。英語でいう“discourse”=論説、講演)として言表される。それはせいぜい《作文》であり、文(ステレオタイプ=紋切型)の集合体である。神話は消えていくが、それだけますます狡猾に、《神話的なもの》は残る」(バルト「対象そのものを変えること」『物語の構造分析・P.164』みすず書房)
バルトのいう「神話的なもの」とは何だろう。極めて現実的なものだ。たとえば破棄できるとしても破棄できないような「契約」という制度がそうだ。このような「契約」は人間の目に見える次元でなく目に見えなくなればなるほどより狡猾でなおかつ必然的に人間を鎖に繋ぎ止める。
「相対的剰余人口(どの労働者も、彼の半分しか就業していないとか、またはまったく就業していない期間は、相対的剰余人口に属する)または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.241」国民文庫)
しかし事情は変化するし変化した。とりわけ、かつては目に見えていた事態が徐々に目に見えない次元へ移動したことに注目したい。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
そしてまた「おおい隠されている」といっても、何が「おおい隠」す側として作用しているのか。賃金体系そのものが、である。労賃というもの自体が恣意的「契約」の謎を「労賃」を用いて「おおい隠」す。ニーチェが言語について述べているように。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
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さて、アルトー。前回、タラウマラの地では「神」という言葉はないと述べた。「言語には存在しない」とアルトーはいう。
「タラウマラ族は神を信じてはいない。『神』という言葉は、彼らの言語には存在しない」(アルトー『タラウマラ・P.103』河出文庫)
神という言語はない。しかし人間を言い表す言語はある。では「神」は言語の外にあるのだろうか。そうではない。この地上。タラウマラの地。それ自身が自然として考えられており、奇妙な表現に聞こえるかもしれないが、タラウマラ族は自然界から「生えてきた」というほかない。
「彼らは自然の超越的な一原理に崇拝をささげており、この原理とは《当然ながら》、<雄>と<雌>なのである。そして彼らは秘儀を伝授される古代エジプト王のように、この原理を頭上にたずさえている」(アルトー『タラウマラ・P.103~104』河出文庫)
とすれば「ヘリオガバルス」のことが思い起こされる。原理とは何か。社会的文法である。しかし間違っても近代社会の到来とともに輸入された欧米由来の社会的文法ではない。資本主義以前的社会、すなわちただ単なる共同体だった頃の原理である。それは例えば日本でいう「春夏秋冬」に当たる。ところが正確にいえば「春夏秋冬」はもはやない。茄子(なすび)が年中市場に出回り出したのはいつ頃からだろうか。少なくとも江戸時代にはそんなことはなかった。だからといって徳川幕藩体制は良かったなどと考えるとしたらとんでもなく稚拙な推測だ。徹底的管理主義と拷問監視と身分差別とに貫かれた殺人的社会体制を復活させることなど思いも寄らない。今や本来の茄子(なすび)は俳句の季語としてしか存在しない。何度も繰り返し反復可能な代理物へと変化した。食物としても同時にシュミラクル(模倣、見せかけ)としてしか存在しない。もはやオリジナルという観念自体がシュミラクル(模倣、見せかけ)へと取って代わったのである。その意味で「タラウマラの地」はそのオリジナリティを失っている。だが「タラウマラの地」はシュミラクル(模倣、見せかけ)へ転倒したことで、逆説的に、いつどこにでも出現可能となった。問題はどちらがオリジナルかなのではなく、オリジナルの消滅と同時に進行した多国籍企業による脱コード化の運動である。国家が多国籍企業を所有するのでなく、逆に多国籍企業が国家を所有するという転倒が固定化したことに留意したいとおもう。だから幅広く諸外国へ展開している多国籍大手メーカーの動向次第でこれほど世界が恐慌状態におちいるという事態を招き込むことになったのである。パンデミックの条件は多国籍企業の歴史と重なっている事実に注目しないとわかるものもわからない。そう言われるのはリゾーム化する今後の世界に向けて、世界の中で、幾つもの危機の到来を示唆していた人々がすでに一九七〇年代にはいたからである。あれから半世紀。世界の中で日本は何をやって何をやってこなかったか。検証作業はまだこれからしか始められないのは確かだとしても、しかしなぜ、これまでに手を打っておかなかったかという問いはいつまでも残されるのである。
さて事実上、タラウマラの儀式で用いられていたペヨトル抽出物はなるほどオリジナルとシュミラクル(模倣、見せかけ)との違いを不分明にするドラッグカルチャーへと回収されてしまった。かつてはついつい自己の領分を越えるという悪質行為を犯しがちな人間の意識の暴力を阻止し、非現実の世界へ乱入しないための薬草として厳格な配慮のもとで、なおかつ彼らの儀式においてのみ用いられていたわけだが、ドラッグカルチャーとして商品化されブランド化されるやいなやペヨトル自身が何か犯罪的なものででもあるかのように取り扱われるようになった。そこでだが、国家的司法によって回収されたペヨトルはどこへ行ったのだろうか。資本主義とドラッグカルチャーとは同い年だということを思い出そう。ペヨトルの抽出物をたっぷり摂取してペヨトル化したのはほかでもない脱コード化の運動を止めるに止められない資本主義市場原理なのだ。要するに商品化された原理なき原理が世界的文法として出現したわけである。新自由主義とはそういうことだ。もはやヘリオガバルスはすべての人間を貫通しているにもかかわらず人々はそれにさっぱり気づいていないと言わねばならない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「つぶれた活字の、これらの分厚い本のページのまんなかに、驚異が立ち現れる。まっすぐ伸びた百合のように、若い男たちが出現するのだが、彼らはいささか私のせいで同時に王子であり乞食である」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
ジュネの場合、「まっすぐ伸びた百合」という同性愛の象徴が出現する。ただ象徴的な「百合」は女性の同性愛者のあいだで多く用いられるとか男性同性愛者のあいだで発生したとか議論は様々あって一定しない。以前にも述べた。しかし問題はなぜ「百合」なのかということであって女性か男性かという対立的構造へ持ち込むのは誤りだろう。そもそも近代初期の刑罰で行われていた慣習が起源的だとは言える。特に重罪を犯した受刑者は肌に焼きごてを当てられて罪人としての過去を持つ二度と消えない徴(しるし)を刻印されるのが常だった。受刑者らはそれを「百合」と呼んだ。否定されたものを鮮やかに肯定すること。言語を用いればその作業は一瞬でこと足りる。ジュネは刑務所の中でも外でもこの種の言語的トリックの習得に熟達していく。
そして百合は「まっすぐ伸びた」ものでなければならない。ジュネの場合、それは理想的に勃起した男性器を意味しているわけだが、むしろ注目すべきはその象徴性である。象徴化されている限りでジュネの想像性あるいは創造性もまた実現される可能性を得ているわけであって、条件が異る場合、たとえば女性たちの場合、それは理想的に快感を与えると同時に与えられる象徴であることは疑いがない。「まっすぐ伸びた」象徴とは「理想的」なものを意味するのであって、貨幣のように、あるいは言語のように、仲間たちの共同作業によってその都度俊敏に変化するものでなくてはならない。
なお、「起源的」という限定の必要性は古代のいつ頃から始まったかわからないタトゥーの歴史の「起源」という問題に関わる。「起源」はわからないとしか言いようがない。だがしかしそれは近代化を達成した先進諸国から「未開」とされる他者の領域を見た場合にのみ「野蛮なもの」に見える風習からすでに始まっていることを考えれば、「未開、野蛮、犯罪」というヨーロッパ中心主義的偏見から生まれて実際の刑罰にスライドされ応用されるに至ったたことは確かだ。
たとえばボードレールのように詩人であることが世間から爪弾きされていた時代、ボードレールは自分で自分のことを罪人に喩えたし罪人であると同時に死刑執行人でもある二重性として意識的に振る舞ったことは有名である。その意味でボードレールは欧米全土に向けてこう言ったといえる。詩人ゆえに見抜くのではなく、見抜いている人々はすべて詩(ポエジー)の理解者である。共犯者なのだと。だからといって世界中の読者はすべて共犯者だとほのめかしはしても直接的に弾劾するようなことは言わない。詩人は弾劾しない。弾劾は政治家や法律家や裁判所の職務だ。むしろボードレールは詩人であるとはどういう事態をいうのか、いかなる分裂を能動的に生きることをいうのかについて、僅かばかり踏み込んで述べたに過ぎない。
そしてさらに、「同時に王子であり乞食である」というのは何度か触れたように世界中の諸民族のあいだで伝承されている創世神話はどれも共通して混沌から始まっていることと関係する。混沌としては《同時に一つ》でしかない。関係を上下に立てると両者の関係は「王子と乞食」とに二分割される。創生神話にはすでに人間の手が入っている。だから神話といってもあくまで事後的な人為的作業によって介入された後のエピソードに過ぎない。また関係を上下ではない別の方法で立てることもできるが、そうでないのは諸民族がまだ無数に分割された小さな共同体でしかなく諸民族間での横断的関係がなかったことによる。しかしそれは歴史以前、共同体間の交換の瞬間から始まる。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
契約という問題含みの動作もまたこの瞬間に発生したことは間違いない。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
ここではまだ共同体あるいは契約で済ますことができる。だが、この種の交換関係はいったん成就されると加速的になおかつ横断的に拡大していく不断の傾向を不可避的に持つ。と同時に一般的にいう「社会」が発生する。すると契約はたちまちただ単なる約束事の次元を越えて「社会的契約」となり、人間によって創設されながらも人間社会の上に立って社会とその構成員たる人間を見えない鎖に拘束しておく桎梏(しっこく)として、国家的装置として、機能するようになる。ジュネが否定されたのはそのような社会からである。孤児という条件がフランス国家からの否定として受け止められるのが常識とされていたということ。ジュネは一九一〇年生まれである。先進諸国といえども二十世紀がいかに過酷な世紀であったか。そしてこの過酷さは十九世紀すでにあからさまに発揮されていたことはどこの国の歴史教科書にも載っている。ところがジュネは世界から否定された否定者としての自分を肯定することで生き延びていく方法を身に付けた。ジュネはその理論化に成功した稀有な事例だと言える。
「私が自分をディヴィーヌに変えるとすれば、私は彼らを彼女の愛人に変える。ノートルダム、ミニョン、ガブリエル、アルベルト、冷血漢となって口笛を吹く少年たちだが、彼らの頭の上には、よく見れば後光となった王冠を見ることができるだろう」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
このような作業は何によってなされたか。言語によってである。言語の両義性によって、そのパルマコン(医薬/毒薬)性によって、である。かといって「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての汚辱を着飾ったわけではない。「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としては「こう書くほか思いもよらない」という必然性を言語化したに過ぎない。ジュネは事実を偽りの衣装で着飾るというような見えすいた嘘を述べたりしない。こうであるとしか思えないがゆえにそう書くのである。
「私は、横顔のなかの正面を向いた目や、血まみれの心臓といった残忍なデッサンと記号がすべてに染み込んだ、ヴェネツィアやロンドンの空のように灰色のページをした安価な小説へのノスタルジーを彼らに抱かさずにはおかない」(ジュネ「花のノートルダム・P.311」河出文庫)
大衆小説は宝石箱だ。それに目を通しそれを記憶装置の中へ保存しておくのが得意なジュネにとって。何度も繰り返し反復に耽ることのできる刑務所こそ何よりの学校だった。記憶装置の見取図については次の通り。321頁図5参照。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
まさしくジュネはベルクソンのいうように「それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるように」行動したといえる。言うまでもなく膨大な犠牲が払われているわけだが。だがジュネはそれを犠牲とは言わないだろう。もっとも、犠牲と書くこともしばしばなのだが、そのときは常にそれを「捧げ物」として、国家への「奉仕」として、述べていることは自明であり実際にそう断った上で書かれているか、あるいはそう注釈したいがためにわざわざそう書くのである。キリスト教と一体化したフランス国家を勃起させ、それを自分の尻の穴へ突入させ律動させ死へと導く。国家が払った力は尻の穴を通してジュネへと移動する。「移動の力/力の移動」はこれほどにも簡単なことなのだ。嗜好によりけりではあるが。
ところで、二十世紀末までははっきり見えていた国家的桎梏(しっこく)は、しかし、消えたといえるだろうか。急速に目に見えなくなってきたことは確かだ。そのぶん国家的桎梏(しっこく)は「それだけますます狡猾に」生き延びるというのが実状ではなかったろうか。ネット社会は何を保存しさらに拡張させることに成功したかという問題を焦点化してみよう。こう言える。
「現代の神話は、不連続的である。それはもはや、構成された大きな物語としてではなく、ただ単に《ディスクール》(言説。英語でいう“discourse”=論説、講演)として言表される。それはせいぜい《作文》であり、文(ステレオタイプ=紋切型)の集合体である。神話は消えていくが、それだけますます狡猾に、《神話的なもの》は残る」(バルト「対象そのものを変えること」『物語の構造分析・P.164』みすず書房)
バルトのいう「神話的なもの」とは何だろう。極めて現実的なものだ。たとえば破棄できるとしても破棄できないような「契約」という制度がそうだ。このような「契約」は人間の目に見える次元でなく目に見えなくなればなるほどより狡猾でなおかつ必然的に人間を鎖に繋ぎ止める。
「相対的剰余人口(どの労働者も、彼の半分しか就業していないとか、またはまったく就業していない期間は、相対的剰余人口に属する)または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.241」国民文庫)
しかし事情は変化するし変化した。とりわけ、かつては目に見えていた事態が徐々に目に見えない次元へ移動したことに注目したい。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
そしてまた「おおい隠されている」といっても、何が「おおい隠」す側として作用しているのか。賃金体系そのものが、である。労賃というもの自体が恣意的「契約」の謎を「労賃」を用いて「おおい隠」す。ニーチェが言語について述べているように。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
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さて、アルトー。前回、タラウマラの地では「神」という言葉はないと述べた。「言語には存在しない」とアルトーはいう。
「タラウマラ族は神を信じてはいない。『神』という言葉は、彼らの言語には存在しない」(アルトー『タラウマラ・P.103』河出文庫)
神という言語はない。しかし人間を言い表す言語はある。では「神」は言語の外にあるのだろうか。そうではない。この地上。タラウマラの地。それ自身が自然として考えられており、奇妙な表現に聞こえるかもしれないが、タラウマラ族は自然界から「生えてきた」というほかない。
「彼らは自然の超越的な一原理に崇拝をささげており、この原理とは《当然ながら》、<雄>と<雌>なのである。そして彼らは秘儀を伝授される古代エジプト王のように、この原理を頭上にたずさえている」(アルトー『タラウマラ・P.103~104』河出文庫)
とすれば「ヘリオガバルス」のことが思い起こされる。原理とは何か。社会的文法である。しかし間違っても近代社会の到来とともに輸入された欧米由来の社会的文法ではない。資本主義以前的社会、すなわちただ単なる共同体だった頃の原理である。それは例えば日本でいう「春夏秋冬」に当たる。ところが正確にいえば「春夏秋冬」はもはやない。茄子(なすび)が年中市場に出回り出したのはいつ頃からだろうか。少なくとも江戸時代にはそんなことはなかった。だからといって徳川幕藩体制は良かったなどと考えるとしたらとんでもなく稚拙な推測だ。徹底的管理主義と拷問監視と身分差別とに貫かれた殺人的社会体制を復活させることなど思いも寄らない。今や本来の茄子(なすび)は俳句の季語としてしか存在しない。何度も繰り返し反復可能な代理物へと変化した。食物としても同時にシュミラクル(模倣、見せかけ)としてしか存在しない。もはやオリジナルという観念自体がシュミラクル(模倣、見せかけ)へと取って代わったのである。その意味で「タラウマラの地」はそのオリジナリティを失っている。だが「タラウマラの地」はシュミラクル(模倣、見せかけ)へ転倒したことで、逆説的に、いつどこにでも出現可能となった。問題はどちらがオリジナルかなのではなく、オリジナルの消滅と同時に進行した多国籍企業による脱コード化の運動である。国家が多国籍企業を所有するのでなく、逆に多国籍企業が国家を所有するという転倒が固定化したことに留意したいとおもう。だから幅広く諸外国へ展開している多国籍大手メーカーの動向次第でこれほど世界が恐慌状態におちいるという事態を招き込むことになったのである。パンデミックの条件は多国籍企業の歴史と重なっている事実に注目しないとわかるものもわからない。そう言われるのはリゾーム化する今後の世界に向けて、世界の中で、幾つもの危機の到来を示唆していた人々がすでに一九七〇年代にはいたからである。あれから半世紀。世界の中で日本は何をやって何をやってこなかったか。検証作業はまだこれからしか始められないのは確かだとしても、しかしなぜ、これまでに手を打っておかなかったかという問いはいつまでも残されるのである。
さて事実上、タラウマラの儀式で用いられていたペヨトル抽出物はなるほどオリジナルとシュミラクル(模倣、見せかけ)との違いを不分明にするドラッグカルチャーへと回収されてしまった。かつてはついつい自己の領分を越えるという悪質行為を犯しがちな人間の意識の暴力を阻止し、非現実の世界へ乱入しないための薬草として厳格な配慮のもとで、なおかつ彼らの儀式においてのみ用いられていたわけだが、ドラッグカルチャーとして商品化されブランド化されるやいなやペヨトル自身が何か犯罪的なものででもあるかのように取り扱われるようになった。そこでだが、国家的司法によって回収されたペヨトルはどこへ行ったのだろうか。資本主義とドラッグカルチャーとは同い年だということを思い出そう。ペヨトルの抽出物をたっぷり摂取してペヨトル化したのはほかでもない脱コード化の運動を止めるに止められない資本主義市場原理なのだ。要するに商品化された原理なき原理が世界的文法として出現したわけである。新自由主義とはそういうことだ。もはやヘリオガバルスはすべての人間を貫通しているにもかかわらず人々はそれにさっぱり気づいていないと言わねばならない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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