前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
平安時代。仁和寺(にんなじ)は大内裏の北東方向、太秦(うずまさ)の辺りに当たる。仁和寺から東方向へしばらく歩くと高陽川(かうやがわ)を渡ることになる。いつ頃からか、夕暮れになると高陽川(かうやがわ)のほとりに若くて小綺麗な少女がぽつんと立っているのが目撃されるようになった。馬で京の中心地へ向かう人々を見つけると声をかけ、馬の尻に乗せて欲しいと頼む。乗せてやって五百メートルほど進むと突然馬から飛び降り、狐の姿になって「こんこん」と鳴きながら走り去る。それが何度も繰り返し起こるようになり、やがて噂は大内裏にも聞こえてきた。ところで「仁和寺(にんわじ)」、「高陽川(かうやがわ)」だがーーー。
「仁和寺(にんわじ)」は今の京都市右京区御室(おむろ)にある仁和寺(にんなじ)。その東側にあると表記されている「高陽川(かうやがわ)」は京都市北区鷹峯(たかがみね)辺りを南下する「紙屋川(かみやがわ)」のこと。「高陽川(かうやがわ)」=「紙屋川(かみやがわ)」は上京区の北野天満宮付近から「天神川(てんじんがわ)」と名を変え右京区の太秦御池(うずまさおいけ)付近で御室川(おむろがわ)と合流、さらに南区吉祥院(きっしょういん)付近で桂川と合流する。
当時の内裏には天皇の御座所・清涼殿のすぐ北側に滝口所(たきぐちどころ)があった。天皇を始め殿上人の警護に当たる武士の詰所。そこに勤務する一人の武士が名乗り出て捕まえて連れてこようと仲間の前で言った。明日にでもと、翌日出かけた。「高陽川(かうやがわ)」に架かる橋を渡って辺りも見回してみたが人の気配はない。今度は橋を逆に戻って帰ろうとしたところ、例の話に出ていたように、「若キ女(め)ノ童(わらは)ノ見目(みめ)穢気(きたなげ)無キ」が川のほとりに立っている。
「即(すなは)チ打返(うちかへし)テ京ノ方(かた)ヘ来(きた)ルニ、女ノ童立(たて)リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
この滝口(警護職)=男性武士が通り過ぎようとするとその童女が声をかけてきた。京へ行きたいのですが、馬の尻に乗せてくれませんかという。男性が童女の顔を見ると、にこっと笑ってとても感じの良さそうな魅力を湛えている。男性はこれがそうかと思いながら気付かぬ風情で童女を馬に乗せた。そしてあらかじめ準備してきた縄で馬の鞍にしっかり結びつけた。童女はなぜ縄で縛り付けるのですかと問う。男性はいう。夕方になればお前さんを連れ去っておれのところで抱いて寝てやるから、万一にも逃げられないようになと。
「夕(ゆふ)サリ、将行(ゐてゆき)テ抱(いだき)テ寝(ね)ムズレバ、逃(にげ)モゾ為(する)ト思ヘバ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
ちなみに「童女」というのはだいたい十二、三歳。さらに十四、五歳くらいの女性。しかし狐が化ける場合、事情によりけりで狙った相手が成人男性なら十七から二十歳前後の美女と、守備範囲はなかなか幅広い。ともかく馬の鞍に括り付けた童女を男性は早く内裏内の滝口所(警護要員詰所)まで連れ帰らなければならない。しばらくして大内裏の一番北西部「一条通」と「西ノ大宮通」との交差点までやって来た。そこから入ろうとすると他の警備関係者が多数出ていて今から殿上人の通過がありそうな雰囲気である。殿上人の行列の間は下馬の礼を取って待っていなくてはならない。時間がかかる。そこで男性は遠回りになるが次のような順路で大内裏へ入るコースを取った。
上京区一条(いちじょう)通と御前(おんまえ)通との交差点から御前通を中京区二条(にじょう)通まで南下し大内裏の西南端まで行く。そこを東へ曲がり大宮(おおみや)通へ着くと大内裏の東南端に当たる。そこから今度は北上して大宮通と上長者町(かみちょうじゃまち)通との交差点付近にあった土御門門(つちみかどもん)から入城する。そこで滝口(警護要員)を十人ばかり呼んで連れてきた童女の縄を解き滝口詰所まで連行した。「何だこの男に抱きついて離れないような腐り切った腕は?」とか言いながら。
「シヤ肱(かひな)ヲ捕ヘテ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
童女は泣きながら許して下さいと喚くばかりで困りきった様子だ。男性は他の滝口の者らに命じ、一人だけでは失敗するかもしれないので、皆で一斉に矢を射て「この卑猥この上ない女の尻にぶち込んでやろう」と声を上げる。
「シヤ腰射居(いすゑ)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
そして童女の腰回り目掛けて十人ほどで一挙に矢を射た。と、童女はたちまち狐になって「こんこん」と鳴きながら逃げ失せた。そればかりか、その瞬間まで男性と一緒にいたはずの同僚らの姿もいっぺんに消え失せ、焚いていた火も消えた。周囲はすでに暗闇。従者どもを呼ぶも従者もまた姿形一つ見当たらない。
「其ノ時ニ、女ノ童、狐ニ成(なり)テ、『コウコウ』ト無(なき)テ逃(にげ)ヌ。滝口共ノ立並(たちなみ)タリツルモ、皆掻消様(かきけつやう)ニ失(うせ)ヌ。火モ打消(うちきえ)ツレバ、ツツ暗(やみ)ニ成(なり)ヌ。滝口、手迷(てまどひ)ヲシテ従者共ヲ呼ブニ、従者一人モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
男性は奇怪な思いに駆られながら周囲を見回すと、そこは何と「鳥部野(とりべの)」。東山山麓に広がる巨大墓地。
「見廻(めぐら)セバ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ野中(のなか)ニテ有リ。心迷(まど)ヒ肝騒(さわぎ)テ、怖(おそろ)シキ事無限(かぎりな)シ。生(いき)タル心地(ここち)モ不為(せ)ネドモ、思(おも)ヒ念(ねん)ジテ暫(しばら)ク此(ここ)ヲ見廻(めぐら)セバ、山ノ程、所ノ様(さま)ヲ見ルニ、鳥部野(とりべの)ノ中ニテ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
男性は気力を奪われて三日ほど病み伏せていた。とんだ赤っ恥をかかされたものだ。このままではもう二度と滝口(警護要員詰所)に顔を出すことはできない。げらげら笑われるのは必至だ。隠居するほかない。そこで今度は屈強の者らを従えて「高陽川(かうやがわ)」に架かる橋を渡り、再び逆方向に橋を渡ったところ、川のほとりに若い童女が立っている。前に見た童女とは顔が違っている。だが同じように京に行くなら馬の尻に乗せて下さいと言ってきた。
「打返(うちかへし)ケル度(たび)、川辺(かはべ)ニ女ノ童立(た)テリ。前(さき)ノ女ノ童ノ顔ニハ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172」岩波書店)
男性は童女を馬に乗せると一条通を大内裏の方角へ向けてまっすぐに進めた。童女を乗せた馬の周囲は何人もの武士で厳重に固めさせ、気合いの籠った高声を掛け合いながら土御門の門へ到着した。一切の隙を見せず童女を滝口所まで引っ立てる。「何だこの女郎まがいの髪の毛は?」などと侮辱しつつ。
「シヤ髪(かみ)を取(とり)テ本所様(ほんじよざま)ニ将行(ゐてゆき)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172」岩波書店)
壮絶な拷問が始まる。縛り付けたままの縄を童女の体になおぐいぐい食い込ませる。するとしばらくは人間の姿をしていた狐がとうとう正体を現わした。そこで滝口の者らは松明(たいまつ)の焔を持ち出して狐の体毛がすっかり燃えて無くなるほど突っ付きまわす。遂に矢まで持ち出し狐の体のあちこちを刺し貫く。そして訊う。「きさま、この狐が。今度こんな真似は絶対するな」。そして狐を半殺しにしたところで縄を解いてやった。しかし狐はへとへとで上手く歩くことができない。見ているとそのうちようやく逃げ去った。
「此ノ度(たび)ハ強ク縛(しばり)テ引(ひか)ヘタリケレバ、暫(しばし)コソ人ニテ有(あり)ケレ、痛(いた)ク責メケレバ遂ニ狐ニ成(なり)テ有(あり)ケルヲ、続松(ついまつ)ノ火ヲ以(もつ)テ毛モ無クセセルル焼(やき)テ、矢ヲ以テ度々(たびたび)射テ、『己(おのれ)ヨ、今ヨリ此(かか)ル態(わざ)ナセソ』ト云(いひ)テ、不殺(ころさ)ズシテ放(はなち)タリケレバ、否不歩(えあゆま)ザリケレドモ、漸(やうや)ク逃(にげ)テ去(さり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172~173」岩波書店)
それから十日ばかりが過ぎた。滝口所の男性は様子を探りにもう一度「高陽川(かうやがわ)」へ出かけた。すると川のほとりに一人の童女が立っている。随分病み疲れた風情だ。男性は前と同じように童女に声をかけてやった。馬の後ろに乗ってみるかい、お嬢さん、と。その子は答えた。乗りたいとは思いますが、火で炙られるのはもうこりごりだから。そう言ってふっと消え失せた。
「前(さき)ノ女ノ童、吉(よ)ク病(やみ)たる者ノ気色ニテ川辺(かはべ)ニ立(た)テリケレバ、滝口、前(さき)ノ様(やう)ニ、『此ノ馬ノ尻ニ乗レ、和児(わこ)』ト云(いひ)ケレバ、女ノ童、『乗ラムトハ思ヘドモ、焼(やき)給フガ難堪(たへがた)ケレバ』ト云(いひ)テ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.173」岩波書店)
さて問題は狐でもなければ滝口所の警備の武士でもない。彼らが移動した場所だ。大内裏を中心に、一方は「高陽川(かうやがわ)」の橋詰。もう一方は鴨川を東側へ渡った鳥部野(とりべの)墓地。どちらも平安京の東西を画する境界線に当たっている。「高陽川(かうやがわ)」の橋を平安京から見ても童女は出現しない。逆に郊外の仁和寺の側から「高陽川(かうやがわ)」の橋を渡って平安京に入ろうとする時、童女に化けた狐が出現する。また、鳥部野(とりべの)墓地は言うまでもなく古代から「轆轤(ろくろ)町・髑髏(どくろ)町」と呼ばれていた東山山麓から鴨川東岸一帯を指す。「河・坂・山林・中洲・刑場・墓地」に代表される無縁の地であり同時に或るテリトリーと他のテリトリーとの境界領域を形成していた。狐にせよ狸にせよ、それらが妖怪〔鬼・ものの怪〕と化して登場するのは内部と外部との境界領域においてである。さらに彼らは外部から飄然と出現するように見えはする。けれどもそもそも彼らの側こそ始めから内部にいた。というより、ずっと以前は内部も外部もなかった。どんどんリゾーム化していく資本主義社会ではもはや外部と内部との境い目がなくなっていくように。
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平安時代。仁和寺(にんなじ)は大内裏の北東方向、太秦(うずまさ)の辺りに当たる。仁和寺から東方向へしばらく歩くと高陽川(かうやがわ)を渡ることになる。いつ頃からか、夕暮れになると高陽川(かうやがわ)のほとりに若くて小綺麗な少女がぽつんと立っているのが目撃されるようになった。馬で京の中心地へ向かう人々を見つけると声をかけ、馬の尻に乗せて欲しいと頼む。乗せてやって五百メートルほど進むと突然馬から飛び降り、狐の姿になって「こんこん」と鳴きながら走り去る。それが何度も繰り返し起こるようになり、やがて噂は大内裏にも聞こえてきた。ところで「仁和寺(にんわじ)」、「高陽川(かうやがわ)」だがーーー。
「仁和寺(にんわじ)」は今の京都市右京区御室(おむろ)にある仁和寺(にんなじ)。その東側にあると表記されている「高陽川(かうやがわ)」は京都市北区鷹峯(たかがみね)辺りを南下する「紙屋川(かみやがわ)」のこと。「高陽川(かうやがわ)」=「紙屋川(かみやがわ)」は上京区の北野天満宮付近から「天神川(てんじんがわ)」と名を変え右京区の太秦御池(うずまさおいけ)付近で御室川(おむろがわ)と合流、さらに南区吉祥院(きっしょういん)付近で桂川と合流する。
当時の内裏には天皇の御座所・清涼殿のすぐ北側に滝口所(たきぐちどころ)があった。天皇を始め殿上人の警護に当たる武士の詰所。そこに勤務する一人の武士が名乗り出て捕まえて連れてこようと仲間の前で言った。明日にでもと、翌日出かけた。「高陽川(かうやがわ)」に架かる橋を渡って辺りも見回してみたが人の気配はない。今度は橋を逆に戻って帰ろうとしたところ、例の話に出ていたように、「若キ女(め)ノ童(わらは)ノ見目(みめ)穢気(きたなげ)無キ」が川のほとりに立っている。
「即(すなは)チ打返(うちかへし)テ京ノ方(かた)ヘ来(きた)ルニ、女ノ童立(たて)リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
この滝口(警護職)=男性武士が通り過ぎようとするとその童女が声をかけてきた。京へ行きたいのですが、馬の尻に乗せてくれませんかという。男性が童女の顔を見ると、にこっと笑ってとても感じの良さそうな魅力を湛えている。男性はこれがそうかと思いながら気付かぬ風情で童女を馬に乗せた。そしてあらかじめ準備してきた縄で馬の鞍にしっかり結びつけた。童女はなぜ縄で縛り付けるのですかと問う。男性はいう。夕方になればお前さんを連れ去っておれのところで抱いて寝てやるから、万一にも逃げられないようになと。
「夕(ゆふ)サリ、将行(ゐてゆき)テ抱(いだき)テ寝(ね)ムズレバ、逃(にげ)モゾ為(する)ト思ヘバ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
ちなみに「童女」というのはだいたい十二、三歳。さらに十四、五歳くらいの女性。しかし狐が化ける場合、事情によりけりで狙った相手が成人男性なら十七から二十歳前後の美女と、守備範囲はなかなか幅広い。ともかく馬の鞍に括り付けた童女を男性は早く内裏内の滝口所(警護要員詰所)まで連れ帰らなければならない。しばらくして大内裏の一番北西部「一条通」と「西ノ大宮通」との交差点までやって来た。そこから入ろうとすると他の警備関係者が多数出ていて今から殿上人の通過がありそうな雰囲気である。殿上人の行列の間は下馬の礼を取って待っていなくてはならない。時間がかかる。そこで男性は遠回りになるが次のような順路で大内裏へ入るコースを取った。
上京区一条(いちじょう)通と御前(おんまえ)通との交差点から御前通を中京区二条(にじょう)通まで南下し大内裏の西南端まで行く。そこを東へ曲がり大宮(おおみや)通へ着くと大内裏の東南端に当たる。そこから今度は北上して大宮通と上長者町(かみちょうじゃまち)通との交差点付近にあった土御門門(つちみかどもん)から入城する。そこで滝口(警護要員)を十人ばかり呼んで連れてきた童女の縄を解き滝口詰所まで連行した。「何だこの男に抱きついて離れないような腐り切った腕は?」とか言いながら。
「シヤ肱(かひな)ヲ捕ヘテ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.170」岩波書店)
童女は泣きながら許して下さいと喚くばかりで困りきった様子だ。男性は他の滝口の者らに命じ、一人だけでは失敗するかもしれないので、皆で一斉に矢を射て「この卑猥この上ない女の尻にぶち込んでやろう」と声を上げる。
「シヤ腰射居(いすゑ)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
そして童女の腰回り目掛けて十人ほどで一挙に矢を射た。と、童女はたちまち狐になって「こんこん」と鳴きながら逃げ失せた。そればかりか、その瞬間まで男性と一緒にいたはずの同僚らの姿もいっぺんに消え失せ、焚いていた火も消えた。周囲はすでに暗闇。従者どもを呼ぶも従者もまた姿形一つ見当たらない。
「其ノ時ニ、女ノ童、狐ニ成(なり)テ、『コウコウ』ト無(なき)テ逃(にげ)ヌ。滝口共ノ立並(たちなみ)タリツルモ、皆掻消様(かきけつやう)ニ失(うせ)ヌ。火モ打消(うちきえ)ツレバ、ツツ暗(やみ)ニ成(なり)ヌ。滝口、手迷(てまどひ)ヲシテ従者共ヲ呼ブニ、従者一人モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
男性は奇怪な思いに駆られながら周囲を見回すと、そこは何と「鳥部野(とりべの)」。東山山麓に広がる巨大墓地。
「見廻(めぐら)セバ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ野中(のなか)ニテ有リ。心迷(まど)ヒ肝騒(さわぎ)テ、怖(おそろ)シキ事無限(かぎりな)シ。生(いき)タル心地(ここち)モ不為(せ)ネドモ、思(おも)ヒ念(ねん)ジテ暫(しばら)ク此(ここ)ヲ見廻(めぐら)セバ、山ノ程、所ノ様(さま)ヲ見ルニ、鳥部野(とりべの)ノ中ニテ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.171」岩波書店)
男性は気力を奪われて三日ほど病み伏せていた。とんだ赤っ恥をかかされたものだ。このままではもう二度と滝口(警護要員詰所)に顔を出すことはできない。げらげら笑われるのは必至だ。隠居するほかない。そこで今度は屈強の者らを従えて「高陽川(かうやがわ)」に架かる橋を渡り、再び逆方向に橋を渡ったところ、川のほとりに若い童女が立っている。前に見た童女とは顔が違っている。だが同じように京に行くなら馬の尻に乗せて下さいと言ってきた。
「打返(うちかへし)ケル度(たび)、川辺(かはべ)ニ女ノ童立(た)テリ。前(さき)ノ女ノ童ノ顔ニハ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172」岩波書店)
男性は童女を馬に乗せると一条通を大内裏の方角へ向けてまっすぐに進めた。童女を乗せた馬の周囲は何人もの武士で厳重に固めさせ、気合いの籠った高声を掛け合いながら土御門の門へ到着した。一切の隙を見せず童女を滝口所まで引っ立てる。「何だこの女郎まがいの髪の毛は?」などと侮辱しつつ。
「シヤ髪(かみ)を取(とり)テ本所様(ほんじよざま)ニ将行(ゐてゆき)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172」岩波書店)
壮絶な拷問が始まる。縛り付けたままの縄を童女の体になおぐいぐい食い込ませる。するとしばらくは人間の姿をしていた狐がとうとう正体を現わした。そこで滝口の者らは松明(たいまつ)の焔を持ち出して狐の体毛がすっかり燃えて無くなるほど突っ付きまわす。遂に矢まで持ち出し狐の体のあちこちを刺し貫く。そして訊う。「きさま、この狐が。今度こんな真似は絶対するな」。そして狐を半殺しにしたところで縄を解いてやった。しかし狐はへとへとで上手く歩くことができない。見ているとそのうちようやく逃げ去った。
「此ノ度(たび)ハ強ク縛(しばり)テ引(ひか)ヘタリケレバ、暫(しばし)コソ人ニテ有(あり)ケレ、痛(いた)ク責メケレバ遂ニ狐ニ成(なり)テ有(あり)ケルヲ、続松(ついまつ)ノ火ヲ以(もつ)テ毛モ無クセセルル焼(やき)テ、矢ヲ以テ度々(たびたび)射テ、『己(おのれ)ヨ、今ヨリ此(かか)ル態(わざ)ナセソ』ト云(いひ)テ、不殺(ころさ)ズシテ放(はなち)タリケレバ、否不歩(えあゆま)ザリケレドモ、漸(やうや)ク逃(にげ)テ去(さり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.172~173」岩波書店)
それから十日ばかりが過ぎた。滝口所の男性は様子を探りにもう一度「高陽川(かうやがわ)」へ出かけた。すると川のほとりに一人の童女が立っている。随分病み疲れた風情だ。男性は前と同じように童女に声をかけてやった。馬の後ろに乗ってみるかい、お嬢さん、と。その子は答えた。乗りたいとは思いますが、火で炙られるのはもうこりごりだから。そう言ってふっと消え失せた。
「前(さき)ノ女ノ童、吉(よ)ク病(やみ)たる者ノ気色ニテ川辺(かはべ)ニ立(た)テリケレバ、滝口、前(さき)ノ様(やう)ニ、『此ノ馬ノ尻ニ乗レ、和児(わこ)』ト云(いひ)ケレバ、女ノ童、『乗ラムトハ思ヘドモ、焼(やき)給フガ難堪(たへがた)ケレバ』ト云(いひ)テ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十一・P.173」岩波書店)
さて問題は狐でもなければ滝口所の警備の武士でもない。彼らが移動した場所だ。大内裏を中心に、一方は「高陽川(かうやがわ)」の橋詰。もう一方は鴨川を東側へ渡った鳥部野(とりべの)墓地。どちらも平安京の東西を画する境界線に当たっている。「高陽川(かうやがわ)」の橋を平安京から見ても童女は出現しない。逆に郊外の仁和寺の側から「高陽川(かうやがわ)」の橋を渡って平安京に入ろうとする時、童女に化けた狐が出現する。また、鳥部野(とりべの)墓地は言うまでもなく古代から「轆轤(ろくろ)町・髑髏(どくろ)町」と呼ばれていた東山山麓から鴨川東岸一帯を指す。「河・坂・山林・中洲・刑場・墓地」に代表される無縁の地であり同時に或るテリトリーと他のテリトリーとの境界領域を形成していた。狐にせよ狸にせよ、それらが妖怪〔鬼・ものの怪〕と化して登場するのは内部と外部との境界領域においてである。さらに彼らは外部から飄然と出現するように見えはする。けれどもそもそも彼らの側こそ始めから内部にいた。というより、ずっと以前は内部も外部もなかった。どんどんリゾーム化していく資本主義社会ではもはや外部と内部との境い目がなくなっていくように。
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