グスコーブドリはイーハトーブの森の中で生れた。妹の名はネリといった。ブドリが十歳、ネリが七歳の年、イーハトーブは飢饉に襲われた。翌年もまた飢饉に陥り食物不足は大変深刻なレベルに達した。兄妹の父も母も食物を探し廻ったが二人とも行方不明になり幼い兄妹二人だけが家に残された。仕方なく彼らは二十日ほど、戸棚に備蓄してあった「そば粉(こ)やこならの実」を食べて飢えをしのいだ。そこへ「籠(かご)をしょった目の鋭(するど)い男」がひょっこりやって来た。そしていう。
「『私(わたし)はこの地方の飢饉(ききん)を救(たす)けに来たものだ。さあ何でも喰(た)べなさい』。二人はしばらく呆(あき)れていましたら、『さあ喰べるんだ、食べるんだ』とまた云いました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.251』新潮文庫 一九八九年)
そう言った男は妹のネリを籠の中に入れて風のように逃げ去った。ブドリは後を追ったが森の中で疲れ果てて倒れ意識を失う。ここまでは「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とほぼ同じ。さてブドリの意識が戻るとまた別の見知らぬ男がそばに立っており、<てぐす>(蚕)を育てて糸に加工し売買するため、栗の木にのぼり網を投げかけて捕まえる作業に従事することになる。これまた「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とほぼ同じ。しかしネネムが十年間この作業に従事するのに対しブドリの場合、自分の家がすでに男の所有物に置き換えられている。ブドリが<てぐす>(蚕)を捕獲する作業から家に戻ると、家の戸口には「『イーハトーブ《てぐす》工場』」という看板がかかっている。繭(まゆ)を集めて糸に加工した製品は男がどこかへ売りに行く。ネネムの場合、男との取引は売買契約を取っていた。
「『うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでも払(はら)ってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ』」(宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場・P.160~161』新潮文庫 一九九五年)
しかしブドリの場合そのようなシーンは一切出てこない。男が部下を引き連れて糸を売りに出かけている間、残されたブドリに与えられる形になるのは金銭ではなく「書物」である。
「古いボール紙の函(はこ)を見附けました。中には十冊ばかりの本がぎっしり入って居(お)りました。開いて見ると、てぐすの絵や機械の図がたくさんある、まるで読めない本もありましたし、いろいろな樹や草の図と名前の書いてあるものもありました。ブドリは一生けん命その本のまねをして字を書いたり図をうつしたりしてその冬を暮(くら)しました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.257~258』新潮文庫 一九八九年)
翌年の春、再び<てぐす>(蚕)取りの男が森に戻ってきた。昨年同様の作業に入っていると突然地震が襲ってきた。地面は随分ゆれる。火山が噴火し火山灰をかぶった<てぐす>(蚕)は全滅。商売にならないと思ったのか男は諦めて森を離れることにし、ブドリの家を建て換えて作った工場も放棄して、ブドリを残したままとっととどこかへ行ってしまった。ブドリは「しょんぼりと」みんなの「足痕(あしあと)のついた白い灰をふんで」森の中から野原へ出た。そして町の方角へ半日ほど歩いたところに<沼ばたけ>(稲田)が広がっているのを見た。農民たちはそれぞれ<沼ばたけ>の整備に従事している。どこにでもありがちな喧嘩が風景のうちに溶け込んでおり、そのなかに「赭(あか)い鬚(ひげ)の人」がいた。赭鬚(あかひげ)の人物は「山師」になると息巻いている。周囲はよしたほうがいいと止めようとするが一向に聞かない。こういう。
「『うんにゃ。やめない。花はみんな埋(うず)めてしまったから、こんどは豆玉(まめたま)を六十枚入れてそれから鶏(とり)の糞(かえし)、百駄(だん)入れるんだ。急がしったら何のこう忙(いそが)しくなれば、ささげの蔓(つる)でもいいから手伝いに頼(たの)みたいもんだ』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.260』新潮文庫 一九八九年)
この箇所で「手伝い」という言葉がブドリを引き寄せる。山師志願者の<沼ばたけ>(稲田)でオリザ(稲)を育てることになった。丁寧に苗が立てられた水田は半透明のステンレスを張ったような泥水と相まってとても美しい。ところが或る日、主人(山師)のオリザ(稲)が病気に罹っているのが見つかった。どうにもならない。周囲との悶着の末、主人は水田から水を下の方へ流してしまい、病気にかかったオリザ(稲)の株を刈り取って代わりに蕎麦(そば)播(ま)きを始めた。すると蕎麦は本当に大量に実った。その年、ブドリは蕎麦ばかり食べて過ごした。さらに翌年の春、主人(山師)がいうにはもう<沼ばたけ>(稲作)を止めるとのこと。それは主人の自由だがブドリはどうしたらいいのか。「主人は一ふくろのお金と新らしい紺(こん)で染めた麻(あさ)の服と赤革(あかがわ)の靴(くつ)とをブドリにくれました」。ブドリには以前からこう言ってあった。
「『ブドリ、今年は沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほど楽だ。その代りおまえは、おれの死んだ息子(むすこ)の本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと云わせるような立派なオリザを作る工夫(くふう)をして呉(く)れ』。そして、いろいろな本を一山ブドリに渡(わた)しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.267』新潮文庫 一九八九年)
数えてみると山師のところで働いた期間はもう六年になっていた。ブドリは<沼ばたけ>(稲田)に別れを告げてイーハトーボ行きの汽車に乗った。いろいろな書籍に目を通していたブドリはかねて憧れていたクーボー博士の学校へ向かおうと思っていた。「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」に登場する<ばけもの大学校>の<フゥフィーボー博士>は絶大な実力者だったが「グスコーブドリの伝記」では<クーボー博士>がそれに相当する。
フゥフィーボー博士の場合、講義の中でこう語っていた。
「『げにも、かの天にありて濛々(もうもう)たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す』」(宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場・P.168』新潮文庫 一九九五年)
この「あいまいたるばけ物律」とは何かというよりむしろ、法則としての<ばけ物律>の全体的把握なくして「宇宙を支配す」することなどできはしないとする主張が明確にある。なお<ばけ物律>は別の作品の中で別の言葉に置き換えられている。そしてそれが「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」に登場するブルカニロ博士の言葉の主調音をなしている。「ほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる」という思想だ。
「『おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀と塩でできていると云ったり、水銀と硫黄(いおう)でできていると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たがい)ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」『ポラーノの広場・P.375』新潮文庫 一九九五年)
この種の思想は世界中の様々な分野で今なお試行錯誤を繰り返しつつ実験中・実践中なのは言うまでもない。
ところで<イーハトーボ>の<クーボー大博士>は<ばけもの大学校>の<フゥフィーボー博士>がそうであったのと同様にブドリの才能を見出す。そしていう。
「『面白い仕事がある。名刺(めいし)をあげるから、そこへすぐ行きなさい』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.274』新潮文庫 一九八九年)
そういうとクーボー博士は家に帰るため小型の飛行船に乗って灰色の建物の屋上へ着くや中へ入って見えなくなった。一方のブドリ。クーボー博士に紹介された名刺の宛名をたずねて着いたのは「大きな茶いろの建物」。その建物が「イーハトーブ火山局」だった。奥の部屋へ案内されたブドリ。その大テーブルに座って仕事をしている人物から名刺を受け取る。こうある。「イーハトーブ火山局技師ペンネンナーム」。白髪まじりの老技師だ。火山局の仕事について一通り教わることになった。「その建物のなかのすべての器械はみんなイーハトーブ中の三百幾つかの活火山や休火山に」繋がれていて熔岩流や噴煙の様子や内部に蓄積した瓦斯(ガス)の動きなど、すべての火山活動の数値化と図形化などを行う観測所である。ブドリは差し当たり二年間、そこで実習を兼ねた仕事に携わる。そんな或る日、ペンネンナーム老技師が「サンムトリ」という火山の異変に気づいてこういう。
「『ああ、これはもう噴火が近い。今朝の地震(じしん)が刺戟(しげき)したのだ。この山の北十キロのとこりにはサンムトリの市がある。今度爆発(ばくはつ)すれば、多分山は三分の一、北側をはねとばして、牛や卓子(テーブル)ぐらいの岩は熱い灰や瓦斯といっしょに、どしどしサンムトリ市に落ちてくる。どうでも今のうちにこの海に向いた方へボーリングを入れて傷口をこさえて、瓦斯を抜くか熔岩を出させるかしなければならない。今すぐ二人で見に行こう』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.278』新潮文庫 一九八九年)
現場へおもむき他の技師たちに混じって作業にとりかかるブドリ。ペンナン技師は火山活動を安全な方向へ操作しようというのである。装置の設置など何かと忙しい。ペンナン技師はいろいろ計算したあと少しばかり残り時間があることに気づいたようで、「ブドリ君、一つ茶をわかして呑(の)もうではないか。あんまりいい景色だから」と誘う。賢治が位置付けた「ワンダーランドとしての日本岩手県」=<イーハトーブ>とは本来的にそのような場だった。小型の飛行船に乗ってクーボー博士もやって来た。「お茶をよばれに来たよ」とにやにや笑っている。そして激しく揺れる地震を伴いつつこの時の噴火は上手く操作・誘導され、サンムトリ市を壊滅から回避させることに成功した。
それから四年が経った。ブドリは少し出世したようだ。
「ブドリは技師心得になって、一年の大部分は火山から火山と廻(まわ)ってあるいたり、危くなった火山を工作したりしていました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.285』新潮文庫 一九八九年)
翌年、イーハトーブ火山局は次のようなポスターを町や村に張ってまわった。
「『窒素(ちっそ)肥料を降らせます。今年の夏、雨といっしょに、硝酸(しょうさん)アムモニアをみなさんの沼ばたけや蔬菜(そさい)ばたけに降らせますから、肥料を使う方は、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。雨もすこしは降らせます。旱魃(かんばつ)の際には、とにかく作物の枯(か)れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、今年は心配せずに植え付けてください』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.286』新潮文庫 一九八九年)
ブドリは火山の山頂の小屋でこう思う。
「ブドリはイーハトーブのまん中にあたるイーハトーブ火山の頂上の小屋に居(お)りました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーブ中の火山のいただきが、ちょうど島のように黒く出て居りました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.286』新潮文庫 一九八九年)
「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」のネネムは<ばけもの世界裁判長>として<ばけもの世界>の法を司る。一方「グスコーブドリの伝記」のブドリはイーハトーブ火山の頂上におり雲海の上から下界を見下ろす。そして火山活動から気象条件をもコントロール下に置く。しかしなぜ自伝的作品がこの種の設定を取るのか。明治維新以前はもちろん、近代に入ってからもなおとりわけ過酷な貧困に苦しんだ岩手県で生まれ育った宮沢賢治。夢を夢のまま終わらせる「仕方なさ」に甘んじるわけにはいかず、実現できなければ「ほんとう」ではないとする超越的思想が顔をのぞかせる。この超越性は極めて宗教的なものだが、法華経主義者としての賢治にすればそれこそが実相として開かれるべき世界として脳裡に描かれており、そうでなければ無に等しいとまで考えるところまで信じきっていたふしが見られる。なるほど思想的「優等生」というだけなら世界中に幾らでもいるわけだが、賢治のように過剰=逸脱した宗教的「優等生」の場合、ともすれば過剰=逸脱すればするほどますます自分で自分自身に酔いしれる傾向を顕著化させていくのである。
さて、肥料散布と降雨の実験はとりあえず成功する。こうある。
「その年の農作物の収穫(しゅうかく)は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よく出来ましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励(げきれい)の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きた甲斐(かい)があるように思いました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.289』新潮文庫 一九八九年)
その一方ではこうもある。
「『おい、お前、今年の夏、電気でこやし降らせたブドリだな』と云いました。『そうだ』。ブドリは何気なく答えました。その男は高く叫びました。『火山局のブドリ来たぞ。みんな集れ』。すると今の家(うち)の中やそこらの畑から、七、八人の百姓(ひゃくしょう)たちが、げらげらわらってかけて来ました。『この野郎、きさまの電気のお蔭(かげ)で、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ』一人が云いました。ブドリはしずかに云いました。『倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか』。『何この野郎』。いきなり一人がブドリの帽子(ぼうし)を叩(たた)き落しました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何が何だかわからなくなって倒れてしまいました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.289~290』新潮文庫 一九八九年)
しかしなぜ駄目になったオリザ(稲)があったのか。小説の中では「肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたため」だという新聞記事を読んでほっとしながら笑うブドリの姿が描き込まれている。しかし農業学校教師としての賢治はいろんな肥料を研究し作りもしたが失敗作もあり、行く先々で歓迎されてばかりだとは限らなかった。時になじられ、時にうさん臭がられもした。とすると、「肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師」とは一体誰のことを言っているのか。賢治は自分自身が抱え込むほかなかった苦悩を小説の中でユーモアに変換して自分で自分を慰めるしか方法のない立場に置かれていたし、そもそもその立場に自分を置いたのはほかでもない自分自身だという苦過ぎる逆説を生きていた。
それからさらに五年。ブドリの日常生活はたいそう楽しいものだった。自ら山師を名乗っていた「赤鬚(あかひげ)の主人」の家にも何度となくお礼に行った。かつての赤鬚。寄る年並みに老いを見せてはいても山師稼業を止めたわけではない。
「もうよほど年は老(と)っていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長い兎(うさぎ)を千疋(びき)以上飼(か)ったり、赤い甘藍(かんらん)ばかり畑に作ったり、相変らずの山師はやっていましたが、暮(くら)しはずうっといいようでした」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.292』新潮文庫 一九八九年)
そしてブドリが二十七歳の年。またもや大規模な異変発生の兆候が見えた。
「どうもあの恐(おそ)ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北の方の海の氷の様子からその年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだん本当になってこぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもう、この前の凶作(きょうさく)を思い出して生きたそらもありませんでした」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.293』新潮文庫 一九八九年)
ブドリの脳裡には幼かった頃に父母を亡くした飢饉の記憶が生々しく蘇る。あの年のおぞましい飢饉を回避する方法について集中するブドリ。そこで或る考えにたどり着く。クーボー博士のもとを訪ねて相談してみる。一つの火山島を人為的に爆発させて周辺の気温を一挙に上昇させれば気候の「大循環」が発生する。そうすれば人工的な気候変動が可能ではないかと。現場は「カルボナード火山島」。クーボー博士は答える。
「『それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても遁(に)げられないのでね』。『先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようお詞(ことば)を下さい』。『それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはそうはない』。『私のようなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.294~295』新潮文庫 一九八九年)
露骨な自己犠牲の精神。この点は「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」に出てこなかったものだ。まったく別種の精神的態度であり、むしろ作品「烏の北斗七星」の次の箇所へ一挙に舞い戻っている印象が強い。引いておこう。
「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)
その三日後、ブドリたち技師は船でカルボナード島へ渡る。通信・観測・コントロール装置などの設置を終えると他の技師をみんな船で火山局へ帰し、ブドリは一人島に残った。翌日、イーハトーブの人々は空の色が銅(あかがね)色に染まったのを見た。三、四日すると気候変動が始まり温度は上昇、秋にはほとんど例年通りの稲が実った。結果的に「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の回帰とは違い、死んだはずの者たちの蘇りとなって「たくさんのブドリのお父さんやお母さん」や「たくさんのブドリやネリ」たちがイーハトーブの冬を暖かく迎えるシーンが回帰してくる。発表翌年の一九三三年(昭和八年)、三十七歳で賢治は死ぬ。ゆえに「伝記」と銘打ったこの回想がプルースト作品に極めて似た「回帰」の構造を取っていることは何ら不思議でない。
明治維新から近代の日本で国策として精力的かつ大々的に押し進められた富国強兵戦略は水力発電を始めとして全国各地に電力供給網を張り巡らせていくことに成功する。あちこちで電信電話網が整備されていく。しかし多くの地方都市で人々の日常生活の中に電灯が灯ったのはいつのことか。つい最近、大正時代も半ばを過ぎた頃であり、昭和に入ると電源開発は主に軍事大国日本としての需要を賄う方向へ進路を取る。地方の農山漁村は電灯のついた暮らしに悦びを感じたのも束の間、数年後には帝国主義日本の電力統制のもとにがんじがらめにされてしまう。相変わらず貧困は打ち続いているのだという動かしようのない現実が足元から公然と明るみに出る。そして戦後、電源の主力は原発へと移る。アメリカの「ニューディール政策」、ソ連でいう「五ヶ年計画」はいずれも大規模な水力発電が主流だった。そこへとうとう原発が登場してきた。ヘーゲルのいうように「量から質へ」<転化>した。追い求めていたものは次のような過程を経て逆のものへと転倒した。
(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)
(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)
(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)
(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)
(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)
(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)
(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)
(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)
(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)
そう考えると「グスコーブドリの伝記」は異様な緊張感を孕みつつ今なお読み直し、むしろ<学び直すべき>循環し回帰する作品だといえるかも知れない。
BGM1
BGM2
BGM3
「『私(わたし)はこの地方の飢饉(ききん)を救(たす)けに来たものだ。さあ何でも喰(た)べなさい』。二人はしばらく呆(あき)れていましたら、『さあ喰べるんだ、食べるんだ』とまた云いました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.251』新潮文庫 一九八九年)
そう言った男は妹のネリを籠の中に入れて風のように逃げ去った。ブドリは後を追ったが森の中で疲れ果てて倒れ意識を失う。ここまでは「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とほぼ同じ。さてブドリの意識が戻るとまた別の見知らぬ男がそばに立っており、<てぐす>(蚕)を育てて糸に加工し売買するため、栗の木にのぼり網を投げかけて捕まえる作業に従事することになる。これまた「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とほぼ同じ。しかしネネムが十年間この作業に従事するのに対しブドリの場合、自分の家がすでに男の所有物に置き換えられている。ブドリが<てぐす>(蚕)を捕獲する作業から家に戻ると、家の戸口には「『イーハトーブ《てぐす》工場』」という看板がかかっている。繭(まゆ)を集めて糸に加工した製品は男がどこかへ売りに行く。ネネムの場合、男との取引は売買契約を取っていた。
「『うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでも払(はら)ってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ』」(宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場・P.160~161』新潮文庫 一九九五年)
しかしブドリの場合そのようなシーンは一切出てこない。男が部下を引き連れて糸を売りに出かけている間、残されたブドリに与えられる形になるのは金銭ではなく「書物」である。
「古いボール紙の函(はこ)を見附けました。中には十冊ばかりの本がぎっしり入って居(お)りました。開いて見ると、てぐすの絵や機械の図がたくさんある、まるで読めない本もありましたし、いろいろな樹や草の図と名前の書いてあるものもありました。ブドリは一生けん命その本のまねをして字を書いたり図をうつしたりしてその冬を暮(くら)しました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.257~258』新潮文庫 一九八九年)
翌年の春、再び<てぐす>(蚕)取りの男が森に戻ってきた。昨年同様の作業に入っていると突然地震が襲ってきた。地面は随分ゆれる。火山が噴火し火山灰をかぶった<てぐす>(蚕)は全滅。商売にならないと思ったのか男は諦めて森を離れることにし、ブドリの家を建て換えて作った工場も放棄して、ブドリを残したままとっととどこかへ行ってしまった。ブドリは「しょんぼりと」みんなの「足痕(あしあと)のついた白い灰をふんで」森の中から野原へ出た。そして町の方角へ半日ほど歩いたところに<沼ばたけ>(稲田)が広がっているのを見た。農民たちはそれぞれ<沼ばたけ>の整備に従事している。どこにでもありがちな喧嘩が風景のうちに溶け込んでおり、そのなかに「赭(あか)い鬚(ひげ)の人」がいた。赭鬚(あかひげ)の人物は「山師」になると息巻いている。周囲はよしたほうがいいと止めようとするが一向に聞かない。こういう。
「『うんにゃ。やめない。花はみんな埋(うず)めてしまったから、こんどは豆玉(まめたま)を六十枚入れてそれから鶏(とり)の糞(かえし)、百駄(だん)入れるんだ。急がしったら何のこう忙(いそが)しくなれば、ささげの蔓(つる)でもいいから手伝いに頼(たの)みたいもんだ』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.260』新潮文庫 一九八九年)
この箇所で「手伝い」という言葉がブドリを引き寄せる。山師志願者の<沼ばたけ>(稲田)でオリザ(稲)を育てることになった。丁寧に苗が立てられた水田は半透明のステンレスを張ったような泥水と相まってとても美しい。ところが或る日、主人(山師)のオリザ(稲)が病気に罹っているのが見つかった。どうにもならない。周囲との悶着の末、主人は水田から水を下の方へ流してしまい、病気にかかったオリザ(稲)の株を刈り取って代わりに蕎麦(そば)播(ま)きを始めた。すると蕎麦は本当に大量に実った。その年、ブドリは蕎麦ばかり食べて過ごした。さらに翌年の春、主人(山師)がいうにはもう<沼ばたけ>(稲作)を止めるとのこと。それは主人の自由だがブドリはどうしたらいいのか。「主人は一ふくろのお金と新らしい紺(こん)で染めた麻(あさ)の服と赤革(あかがわ)の靴(くつ)とをブドリにくれました」。ブドリには以前からこう言ってあった。
「『ブドリ、今年は沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほど楽だ。その代りおまえは、おれの死んだ息子(むすこ)の本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと云わせるような立派なオリザを作る工夫(くふう)をして呉(く)れ』。そして、いろいろな本を一山ブドリに渡(わた)しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.267』新潮文庫 一九八九年)
数えてみると山師のところで働いた期間はもう六年になっていた。ブドリは<沼ばたけ>(稲田)に別れを告げてイーハトーボ行きの汽車に乗った。いろいろな書籍に目を通していたブドリはかねて憧れていたクーボー博士の学校へ向かおうと思っていた。「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」に登場する<ばけもの大学校>の<フゥフィーボー博士>は絶大な実力者だったが「グスコーブドリの伝記」では<クーボー博士>がそれに相当する。
フゥフィーボー博士の場合、講義の中でこう語っていた。
「『げにも、かの天にありて濛々(もうもう)たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す』」(宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」『ポラーノの広場・P.168』新潮文庫 一九九五年)
この「あいまいたるばけ物律」とは何かというよりむしろ、法則としての<ばけ物律>の全体的把握なくして「宇宙を支配す」することなどできはしないとする主張が明確にある。なお<ばけ物律>は別の作品の中で別の言葉に置き換えられている。そしてそれが「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」に登場するブルカニロ博士の言葉の主調音をなしている。「ほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる」という思想だ。
「『おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀と塩でできていると云ったり、水銀と硫黄(いおう)でできていると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たがい)ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」『ポラーノの広場・P.375』新潮文庫 一九九五年)
この種の思想は世界中の様々な分野で今なお試行錯誤を繰り返しつつ実験中・実践中なのは言うまでもない。
ところで<イーハトーボ>の<クーボー大博士>は<ばけもの大学校>の<フゥフィーボー博士>がそうであったのと同様にブドリの才能を見出す。そしていう。
「『面白い仕事がある。名刺(めいし)をあげるから、そこへすぐ行きなさい』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.274』新潮文庫 一九八九年)
そういうとクーボー博士は家に帰るため小型の飛行船に乗って灰色の建物の屋上へ着くや中へ入って見えなくなった。一方のブドリ。クーボー博士に紹介された名刺の宛名をたずねて着いたのは「大きな茶いろの建物」。その建物が「イーハトーブ火山局」だった。奥の部屋へ案内されたブドリ。その大テーブルに座って仕事をしている人物から名刺を受け取る。こうある。「イーハトーブ火山局技師ペンネンナーム」。白髪まじりの老技師だ。火山局の仕事について一通り教わることになった。「その建物のなかのすべての器械はみんなイーハトーブ中の三百幾つかの活火山や休火山に」繋がれていて熔岩流や噴煙の様子や内部に蓄積した瓦斯(ガス)の動きなど、すべての火山活動の数値化と図形化などを行う観測所である。ブドリは差し当たり二年間、そこで実習を兼ねた仕事に携わる。そんな或る日、ペンネンナーム老技師が「サンムトリ」という火山の異変に気づいてこういう。
「『ああ、これはもう噴火が近い。今朝の地震(じしん)が刺戟(しげき)したのだ。この山の北十キロのとこりにはサンムトリの市がある。今度爆発(ばくはつ)すれば、多分山は三分の一、北側をはねとばして、牛や卓子(テーブル)ぐらいの岩は熱い灰や瓦斯といっしょに、どしどしサンムトリ市に落ちてくる。どうでも今のうちにこの海に向いた方へボーリングを入れて傷口をこさえて、瓦斯を抜くか熔岩を出させるかしなければならない。今すぐ二人で見に行こう』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.278』新潮文庫 一九八九年)
現場へおもむき他の技師たちに混じって作業にとりかかるブドリ。ペンナン技師は火山活動を安全な方向へ操作しようというのである。装置の設置など何かと忙しい。ペンナン技師はいろいろ計算したあと少しばかり残り時間があることに気づいたようで、「ブドリ君、一つ茶をわかして呑(の)もうではないか。あんまりいい景色だから」と誘う。賢治が位置付けた「ワンダーランドとしての日本岩手県」=<イーハトーブ>とは本来的にそのような場だった。小型の飛行船に乗ってクーボー博士もやって来た。「お茶をよばれに来たよ」とにやにや笑っている。そして激しく揺れる地震を伴いつつこの時の噴火は上手く操作・誘導され、サンムトリ市を壊滅から回避させることに成功した。
それから四年が経った。ブドリは少し出世したようだ。
「ブドリは技師心得になって、一年の大部分は火山から火山と廻(まわ)ってあるいたり、危くなった火山を工作したりしていました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.285』新潮文庫 一九八九年)
翌年、イーハトーブ火山局は次のようなポスターを町や村に張ってまわった。
「『窒素(ちっそ)肥料を降らせます。今年の夏、雨といっしょに、硝酸(しょうさん)アムモニアをみなさんの沼ばたけや蔬菜(そさい)ばたけに降らせますから、肥料を使う方は、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。雨もすこしは降らせます。旱魃(かんばつ)の際には、とにかく作物の枯(か)れないぐらいの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかった沼ばたけも、今年は心配せずに植え付けてください』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.286』新潮文庫 一九八九年)
ブドリは火山の山頂の小屋でこう思う。
「ブドリはイーハトーブのまん中にあたるイーハトーブ火山の頂上の小屋に居(お)りました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーブ中の火山のいただきが、ちょうど島のように黒く出て居りました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.286』新潮文庫 一九八九年)
「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」のネネムは<ばけもの世界裁判長>として<ばけもの世界>の法を司る。一方「グスコーブドリの伝記」のブドリはイーハトーブ火山の頂上におり雲海の上から下界を見下ろす。そして火山活動から気象条件をもコントロール下に置く。しかしなぜ自伝的作品がこの種の設定を取るのか。明治維新以前はもちろん、近代に入ってからもなおとりわけ過酷な貧困に苦しんだ岩手県で生まれ育った宮沢賢治。夢を夢のまま終わらせる「仕方なさ」に甘んじるわけにはいかず、実現できなければ「ほんとう」ではないとする超越的思想が顔をのぞかせる。この超越性は極めて宗教的なものだが、法華経主義者としての賢治にすればそれこそが実相として開かれるべき世界として脳裡に描かれており、そうでなければ無に等しいとまで考えるところまで信じきっていたふしが見られる。なるほど思想的「優等生」というだけなら世界中に幾らでもいるわけだが、賢治のように過剰=逸脱した宗教的「優等生」の場合、ともすれば過剰=逸脱すればするほどますます自分で自分自身に酔いしれる傾向を顕著化させていくのである。
さて、肥料散布と降雨の実験はとりあえず成功する。こうある。
「その年の農作物の収穫(しゅうかく)は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よく出来ましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励(げきれい)の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きた甲斐(かい)があるように思いました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.289』新潮文庫 一九八九年)
その一方ではこうもある。
「『おい、お前、今年の夏、電気でこやし降らせたブドリだな』と云いました。『そうだ』。ブドリは何気なく答えました。その男は高く叫びました。『火山局のブドリ来たぞ。みんな集れ』。すると今の家(うち)の中やそこらの畑から、七、八人の百姓(ひゃくしょう)たちが、げらげらわらってかけて来ました。『この野郎、きさまの電気のお蔭(かげ)で、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ』一人が云いました。ブドリはしずかに云いました。『倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか』。『何この野郎』。いきなり一人がブドリの帽子(ぼうし)を叩(たた)き落しました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何が何だかわからなくなって倒れてしまいました」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.289~290』新潮文庫 一九八九年)
しかしなぜ駄目になったオリザ(稲)があったのか。小説の中では「肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたため」だという新聞記事を読んでほっとしながら笑うブドリの姿が描き込まれている。しかし農業学校教師としての賢治はいろんな肥料を研究し作りもしたが失敗作もあり、行く先々で歓迎されてばかりだとは限らなかった。時になじられ、時にうさん臭がられもした。とすると、「肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師」とは一体誰のことを言っているのか。賢治は自分自身が抱え込むほかなかった苦悩を小説の中でユーモアに変換して自分で自分を慰めるしか方法のない立場に置かれていたし、そもそもその立場に自分を置いたのはほかでもない自分自身だという苦過ぎる逆説を生きていた。
それからさらに五年。ブドリの日常生活はたいそう楽しいものだった。自ら山師を名乗っていた「赤鬚(あかひげ)の主人」の家にも何度となくお礼に行った。かつての赤鬚。寄る年並みに老いを見せてはいても山師稼業を止めたわけではない。
「もうよほど年は老(と)っていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長い兎(うさぎ)を千疋(びき)以上飼(か)ったり、赤い甘藍(かんらん)ばかり畑に作ったり、相変らずの山師はやっていましたが、暮(くら)しはずうっといいようでした」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.292』新潮文庫 一九八九年)
そしてブドリが二十七歳の年。またもや大規模な異変発生の兆候が見えた。
「どうもあの恐(おそ)ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北の方の海の氷の様子からその年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだん本当になってこぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもう、この前の凶作(きょうさく)を思い出して生きたそらもありませんでした」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.293』新潮文庫 一九八九年)
ブドリの脳裡には幼かった頃に父母を亡くした飢饉の記憶が生々しく蘇る。あの年のおぞましい飢饉を回避する方法について集中するブドリ。そこで或る考えにたどり着く。クーボー博士のもとを訪ねて相談してみる。一つの火山島を人為的に爆発させて周辺の気温を一挙に上昇させれば気候の「大循環」が発生する。そうすれば人工的な気候変動が可能ではないかと。現場は「カルボナード火山島」。クーボー博士は答える。
「『それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても遁(に)げられないのでね』。『先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようお詞(ことば)を下さい』。『それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはそうはない』。『私のようなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.294~295』新潮文庫 一九八九年)
露骨な自己犠牲の精神。この点は「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」に出てこなかったものだ。まったく別種の精神的態度であり、むしろ作品「烏の北斗七星」の次の箇所へ一挙に舞い戻っている印象が強い。引いておこう。
「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)
その三日後、ブドリたち技師は船でカルボナード島へ渡る。通信・観測・コントロール装置などの設置を終えると他の技師をみんな船で火山局へ帰し、ブドリは一人島に残った。翌日、イーハトーブの人々は空の色が銅(あかがね)色に染まったのを見た。三、四日すると気候変動が始まり温度は上昇、秋にはほとんど例年通りの稲が実った。結果的に「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の回帰とは違い、死んだはずの者たちの蘇りとなって「たくさんのブドリのお父さんやお母さん」や「たくさんのブドリやネリ」たちがイーハトーブの冬を暖かく迎えるシーンが回帰してくる。発表翌年の一九三三年(昭和八年)、三十七歳で賢治は死ぬ。ゆえに「伝記」と銘打ったこの回想がプルースト作品に極めて似た「回帰」の構造を取っていることは何ら不思議でない。
明治維新から近代の日本で国策として精力的かつ大々的に押し進められた富国強兵戦略は水力発電を始めとして全国各地に電力供給網を張り巡らせていくことに成功する。あちこちで電信電話網が整備されていく。しかし多くの地方都市で人々の日常生活の中に電灯が灯ったのはいつのことか。つい最近、大正時代も半ばを過ぎた頃であり、昭和に入ると電源開発は主に軍事大国日本としての需要を賄う方向へ進路を取る。地方の農山漁村は電灯のついた暮らしに悦びを感じたのも束の間、数年後には帝国主義日本の電力統制のもとにがんじがらめにされてしまう。相変わらず貧困は打ち続いているのだという動かしようのない現実が足元から公然と明るみに出る。そして戦後、電源の主力は原発へと移る。アメリカの「ニューディール政策」、ソ連でいう「五ヶ年計画」はいずれも大規模な水力発電が主流だった。そこへとうとう原発が登場してきた。ヘーゲルのいうように「量から質へ」<転化>した。追い求めていたものは次のような過程を経て逆のものへと転倒した。
(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)
(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)
(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)
(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)
(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)
(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)
(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)
(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)
(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)
そう考えると「グスコーブドリの伝記」は異様な緊張感を孕みつつ今なお読み直し、むしろ<学び直すべき>循環し回帰する作品だといえるかも知れない。
BGM1
BGM2
BGM3