バルナバスがKに届けた手紙についてオルガの説明が入る。Kに対して手紙の重要性をことさら強調することはKにとって手紙に関する過大評価をもたらす。すると期待値が上昇するため結果的に手紙の価値は低いものだったとKを落胆させバルナバスに対する疑惑を深めさせることになってしまう。バルナバスはKを騙したとさえ思われかねない事態を招いたに違いない。
「『たとえばですよ、わたしどもに毛頭そういうつもりがなくても、あなたに近づいていくと、フリーダと対立してしまって、そのことであなたの感情を傷つけるかもしれません。そうならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。バルナバスがおとどけした手紙のことになりますが、わたしには、それがあなたの手に渡るまえに、くわしく読んでおきました。もちろん、バルナバスは、読んでいません。使者にはそういうことが許されないのです。この手紙は、最初見たところ、古びたものですし、さして重要なものでないとおもわれたのですが、あなたに村長のところへ行くようにと指示してありますので、重要なものだということがわかりました。ところで、わたしたちは、この手紙のことであなたにたいしてどういう態度をとればよかったのでしょうか。わたしたちがこの手紙の重要さを強調すれば、あきらかに重要でないものを過大に評価し、手紙をとどけるだけが役目のくせにわざとあなたに嘘(うそ)を教え、自分たちの利益ばかり追求して、あなたのことはないがしろにした、と疑いの眼で見られたことでしょう。それどころか、そのことによって、あの手紙が価値の低いものだとあなたに思いこませ、こころならずもあなたをだますようなことになったかもしれません』」(カフカ「城・P.381」新潮文庫 一九七一年)
ところが逆に余計な先入観をもたせたまいと慎重の上にも慎重を期してただ単に手紙をKに届けるだけに限ったとしよう。しかし届けるだけといっても手紙一つをめぐってバルナバスたちは右往左往している。Kが城から招聘された測量師だという話だけでも村中を騒がせるに十分条件を満たしているというのに、手紙がその価値を変えずにありのまま移動するということが可能だろうか。むしろ村民たちは明日にでも自分たちの命運が激変してしまうのではといわんばかりの言動でごった返している。そんな状況の中に埋め込まれた手紙はそもそも始めから純粋無垢な内容のままではいられない。
「『他方、わたしたちがこの手紙にたいした価値をあたえなくても、おなじように疑われたことでしょう。と言いますのは、それならそんなつまらない手紙をとどけるような仕事になぜ汲々(きゅうきゅう)としているのか、なぜ言葉と行動が矛盾したようなことをしているのか、なぜこの手紙の受取人であるあなただけでなく、手紙を託した差出人までもあざむくのか、そもそも差出人が手紙を託したのは、受取人にわざわざ要(い)らぬ説明なんかして、手紙の価値を下げてもらうためではなかったはずだ、ということになってしまうからです。そして、この両極端の中道を歩むこと、つまり、手紙を正しく判断することは、まったく不可能なのです。手紙は、たえずその価値を自分で変えるものです。それがきっかけで、こちらはいろいろと思案をかさねるわけですが、これには際限がありません。思案をどこで打切るかは、偶然によってきまるだけです。したがって、そこから出てきた意見も、偶然のものでしかありません』」(カフカ「城・P.381~382」新潮文庫 一九七一年)
文面は同じでも「手紙は、たえずその価値を自分で変える」とオルガはいう。ではなぜそういうことが生じるのか。読み手によって受け取る意味が異なるという他愛無い事情ではまるでない。第一次世界大戦と第二次世界大戦との<あいだ>には異次元の断層が横たわっている。ヴァレリーは「《精神》-価値」と呼んで次のように論じている。手紙は言語で構成されているが、言語の<価値>はその言語が置かれた社会的位置によって変動する。人間の「《精神》-価値」もまたそうだ。「欲望する諸機械」としての世界の全運動の中で全運動とともにその<価値>を変えていくほかない。
「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。
今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。
《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。
一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。
こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。
大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。
かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫 二〇一〇年)
手紙の文面は同じでもそれが変動相場性とともに移動していく限り、手紙の<価値>は延々と引き延ばされていく過程の内部に組み込まれており、その外部を持たず、言語の<価値=意味>もまた変動しないわけにはいかない。ニーチェのいうように絶対的司祭的基準はもはや死んだ。カフカの時代にはすでに世俗的変動相場制が司祭の仮面を付けて何食わぬ顔で貨幣ならびに言語の<価値>をあれこれ取り換えてわんさと儲けて歩いていたというわけだ。しかしまたフーコーが追求した監視社会も現存しており、今や<パノプティコン>様式を採用した監視社会と<マーケティング、データバンク、変動相場制>によって知らないうちに時事刻々と遂行強化されていく管理社会とが手に手を取りあい、健気なほど貧困な思考停止状態に陥りつつ人間の<諸断片>化をいっそう加速させている。
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「『たとえばですよ、わたしどもに毛頭そういうつもりがなくても、あなたに近づいていくと、フリーダと対立してしまって、そのことであなたの感情を傷つけるかもしれません。そうならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。バルナバスがおとどけした手紙のことになりますが、わたしには、それがあなたの手に渡るまえに、くわしく読んでおきました。もちろん、バルナバスは、読んでいません。使者にはそういうことが許されないのです。この手紙は、最初見たところ、古びたものですし、さして重要なものでないとおもわれたのですが、あなたに村長のところへ行くようにと指示してありますので、重要なものだということがわかりました。ところで、わたしたちは、この手紙のことであなたにたいしてどういう態度をとればよかったのでしょうか。わたしたちがこの手紙の重要さを強調すれば、あきらかに重要でないものを過大に評価し、手紙をとどけるだけが役目のくせにわざとあなたに嘘(うそ)を教え、自分たちの利益ばかり追求して、あなたのことはないがしろにした、と疑いの眼で見られたことでしょう。それどころか、そのことによって、あの手紙が価値の低いものだとあなたに思いこませ、こころならずもあなたをだますようなことになったかもしれません』」(カフカ「城・P.381」新潮文庫 一九七一年)
ところが逆に余計な先入観をもたせたまいと慎重の上にも慎重を期してただ単に手紙をKに届けるだけに限ったとしよう。しかし届けるだけといっても手紙一つをめぐってバルナバスたちは右往左往している。Kが城から招聘された測量師だという話だけでも村中を騒がせるに十分条件を満たしているというのに、手紙がその価値を変えずにありのまま移動するということが可能だろうか。むしろ村民たちは明日にでも自分たちの命運が激変してしまうのではといわんばかりの言動でごった返している。そんな状況の中に埋め込まれた手紙はそもそも始めから純粋無垢な内容のままではいられない。
「『他方、わたしたちがこの手紙にたいした価値をあたえなくても、おなじように疑われたことでしょう。と言いますのは、それならそんなつまらない手紙をとどけるような仕事になぜ汲々(きゅうきゅう)としているのか、なぜ言葉と行動が矛盾したようなことをしているのか、なぜこの手紙の受取人であるあなただけでなく、手紙を託した差出人までもあざむくのか、そもそも差出人が手紙を託したのは、受取人にわざわざ要(い)らぬ説明なんかして、手紙の価値を下げてもらうためではなかったはずだ、ということになってしまうからです。そして、この両極端の中道を歩むこと、つまり、手紙を正しく判断することは、まったく不可能なのです。手紙は、たえずその価値を自分で変えるものです。それがきっかけで、こちらはいろいろと思案をかさねるわけですが、これには際限がありません。思案をどこで打切るかは、偶然によってきまるだけです。したがって、そこから出てきた意見も、偶然のものでしかありません』」(カフカ「城・P.381~382」新潮文庫 一九七一年)
文面は同じでも「手紙は、たえずその価値を自分で変える」とオルガはいう。ではなぜそういうことが生じるのか。読み手によって受け取る意味が異なるという他愛無い事情ではまるでない。第一次世界大戦と第二次世界大戦との<あいだ>には異次元の断層が横たわっている。ヴァレリーは「《精神》-価値」と呼んで次のように論じている。手紙は言語で構成されているが、言語の<価値>はその言語が置かれた社会的位置によって変動する。人間の「《精神》-価値」もまたそうだ。「欲望する諸機械」としての世界の全運動の中で全運動とともにその<価値>を変えていくほかない。
「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。
今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。
《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。
一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。
こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。
大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。
かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫 二〇一〇年)
手紙の文面は同じでもそれが変動相場性とともに移動していく限り、手紙の<価値>は延々と引き延ばされていく過程の内部に組み込まれており、その外部を持たず、言語の<価値=意味>もまた変動しないわけにはいかない。ニーチェのいうように絶対的司祭的基準はもはや死んだ。カフカの時代にはすでに世俗的変動相場制が司祭の仮面を付けて何食わぬ顔で貨幣ならびに言語の<価値>をあれこれ取り換えてわんさと儲けて歩いていたというわけだ。しかしまたフーコーが追求した監視社会も現存しており、今や<パノプティコン>様式を採用した監視社会と<マーケティング、データバンク、変動相場制>によって知らないうちに時事刻々と遂行強化されていく管理社会とが手に手を取りあい、健気なほど貧困な思考停止状態に陥りつつ人間の<諸断片>化をいっそう加速させている。
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