二転三転するシャルリュスの言動。<私>を馬車で家まで送り届けるという。その後は「ブーローニュの森へ月見にでも行くとするか」とふいに思いついたかのようなことを口にする。同時にシャルリュスは「磁気をおびたような二本の指で私の顎(あご)をつまんだが、その指は、いっとき自制したあと、理髪師の指のように私の耳のところまで上がってきた」。
「『いや、やっぱり馬車に乗ることにしよう。すばらしい月だ、あなたを送りとどけたあとは、ブーローニュの森へ月見にでも行くとするか。おやおや!あなたは髭(ひげ)のそりかたも知らんようだな、晩餐に出かける夜だというのに剃り残しがあるとは』。そう言って男爵はまるで磁気をおびたような二本の指で私の顎(あご)をつまんだが、その指は、いっとき自制したあと、理髪師の指のように私の耳のところまで上がってきた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.481」岩波文庫 二〇一四年)
同性愛的性欲の高まりを抑えることができないらしい。とともにまたもや<私>に対する評価を反転させる。「淋しげに『あなたはやっぱり優しい人だし、だれよりも優しくなれる人だから』と父親のように私の肩に触れながら言い添える」と。
「『さぞ楽しいでしょうな、あなたのような人とブーローニュの森で<青き月明かり>を眺めるのは』と氏は、意識してかせずか急にしんみりしてそう言うと、それから淋しげに『あなたはやっぱり優しい人だし、だれよりも優しくなれる人だから』と父親のように私の肩に触れながら言い添える、『以前は、じつを言うと、あなたのことをとるに足りぬ人間だと思っていたが』。今でもそう思っているのだろう、と私は考えるべきだった。それには、ほんの三十分前、氏が怒りに駆られて私になにをまくし立てたかを想い出すだけで充分であった。にもかかわらず私は、現在のその気持は本心であり、いまや氏の優しい心が、傷つきやすく高慢で半狂乱にも見えた状態を凌駕しているような気がした。馬車はすでに私たちの目の前に来ていたが、氏はなおも会話をひき延ばそうとした」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.481~482」岩波文庫 二〇一四年)
だが同性愛であろうと異性愛であろうとプルーストが報告しているように上流社交界の中で同性愛は何ら珍しくはないし、異性愛の場合にしてもラクロ「危険な関係」で描かれているように不倫、強姦、略奪愛などはほとんど日常茶飯事だった。どこにでも転がっているその種の性的関係についてわざわざプルーストが同じ意味の反復を行う必然性はまるでない。なぜならプルーストがここで言わんとしていることは「氏の優しい心が、傷つきやすく高慢で半狂乱にも見えた状態を凌駕しているような気がした」という点。断片化され言語的に分類された様々な強度が入れ換わり立ち換わりするという分裂状態こそシャルリュスの特徴であって、なおかつこの特徴は何もシャルリュスただ一人だけに限った特徴ではなく、<私>を含むすべての人々が多少なりとも持つ人格の<多数性>ということではないかという問いかけだからである。前回も引いた。
「とはいえ氏が自分のありとあらゆる憎悪をどんな美辞麗句で飾ろうとも、氏のことばの裏にはときに傷つけられた誇りがあり、ときに裏切られた恋があり、恨みやサディスムやからかいや、固定観念なども存在していて、この男は人を殺(あや)めかねず、しかも論理と美辞麗句を駆使してそんな殺人行為を正当化しかねず、それでも自分は兄や義姉より格段に優れた人間であると言いくるめかねない人間だと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.465」岩波文庫 二〇一四年)
単一だと思われている一人の人間の中に、実はどれほど多数の人格が共存しているか。プルーストは「単一」という概念を「錯覚」として退けている。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
ニーチェはいう。
「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)
日本では早くから漱石が論じている。
「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(「文芸の哲学的基礎」『漱石文芸論集・P.48』岩波文庫 一九八六年)
さらにシャルリュスは<私>と別れるに際して「別れは音楽でいう完璧な三和音を奏でるのがいい」と述べる。だがシャルリュスにとって「和音」はいつも「和解」の象徴として取り扱われる。ゆえに<私>は思う。「ふたりが二度と会うことはないと厳かに宣言したにもかかわらず、私が見るところシャルリュス氏は、さきについ我を忘れて逆上したことを悔い、私を苦しめたことに心を痛めていて、私にもう一度会うことも厭わないだろうと思われた」と。
「『さあ』と氏はふと言う、『乗りたまえ、五分もすればお宅に着く。そこでさよならを言って、それっきり私たちの関係は永久に終わりだ。永久に別れるのだから、別れは音楽でいう完璧な三和音を奏でるのがいい』。このようにふたりが二度と会うことはないと厳かに宣言したにもかかわらず、私が見るところシャルリュス氏は、さきについ我を忘れて逆上したことを悔い、私を苦しめたことに心を痛めていて、私にもう一度会うことも厭わないだろうと思われた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.482」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスの身振りはこのように一見したところ矛盾に見えていて、その実、矛盾ではなくパラドックスとして時間的かつ空間的に展開していく。また、時間的に見れば連続的に継起して見えているものが、実を言うと、空間的には常に同時に流動する諸形態に分散して置かれているということに気づいていたのはマルクスも同様である。
「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。どの形態も他の形態のあとに続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な緒契機をなしているだけである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.177~178」国民文庫 一九七二年)
その意味でシャルリュスは一個の身体でありながら無数の<問い>を演じていると見ることができるだろう。
なお、選挙後最初の月曜日のマスコミ報道について。余りにもお粗末。どの局もステレオタイプ(紋切型)発言ばかり連発していて電気料金が無駄になってしまった。なかでも政治専門のコメンテーター発言などは呆れるほどありきたり。何かといえば強者にすりより弱者を見捨てる戦後マスコミの弱点が開き直った形でよく出ていたように思われる。
とはいえ野党批判にももっともな点が少なくない。というより、野党サイドはあちこち駄目な部分を温存したまま野合的に振る舞っているばかりで、これまた声なき声を拾えているとは到底いいがたい。与党はたちまち改憲論議を推し進める構えなのだが、一方、野党ならそうならないというわけではまるでなく、内容はともかく同じように改憲論議を回避するわけにはいかない。引き延ばせば引き延ばすほど有権者の懐疑はますます高まる。なぜなら与野党逆転という事態になったとしても「日米同盟」という<鉄の掟>が日本全土を包囲しているからである。その認識の上で始めて批判政党の存在意義が出てくるというのに。
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「『いや、やっぱり馬車に乗ることにしよう。すばらしい月だ、あなたを送りとどけたあとは、ブーローニュの森へ月見にでも行くとするか。おやおや!あなたは髭(ひげ)のそりかたも知らんようだな、晩餐に出かける夜だというのに剃り残しがあるとは』。そう言って男爵はまるで磁気をおびたような二本の指で私の顎(あご)をつまんだが、その指は、いっとき自制したあと、理髪師の指のように私の耳のところまで上がってきた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.481」岩波文庫 二〇一四年)
同性愛的性欲の高まりを抑えることができないらしい。とともにまたもや<私>に対する評価を反転させる。「淋しげに『あなたはやっぱり優しい人だし、だれよりも優しくなれる人だから』と父親のように私の肩に触れながら言い添える」と。
「『さぞ楽しいでしょうな、あなたのような人とブーローニュの森で<青き月明かり>を眺めるのは』と氏は、意識してかせずか急にしんみりしてそう言うと、それから淋しげに『あなたはやっぱり優しい人だし、だれよりも優しくなれる人だから』と父親のように私の肩に触れながら言い添える、『以前は、じつを言うと、あなたのことをとるに足りぬ人間だと思っていたが』。今でもそう思っているのだろう、と私は考えるべきだった。それには、ほんの三十分前、氏が怒りに駆られて私になにをまくし立てたかを想い出すだけで充分であった。にもかかわらず私は、現在のその気持は本心であり、いまや氏の優しい心が、傷つきやすく高慢で半狂乱にも見えた状態を凌駕しているような気がした。馬車はすでに私たちの目の前に来ていたが、氏はなおも会話をひき延ばそうとした」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.481~482」岩波文庫 二〇一四年)
だが同性愛であろうと異性愛であろうとプルーストが報告しているように上流社交界の中で同性愛は何ら珍しくはないし、異性愛の場合にしてもラクロ「危険な関係」で描かれているように不倫、強姦、略奪愛などはほとんど日常茶飯事だった。どこにでも転がっているその種の性的関係についてわざわざプルーストが同じ意味の反復を行う必然性はまるでない。なぜならプルーストがここで言わんとしていることは「氏の優しい心が、傷つきやすく高慢で半狂乱にも見えた状態を凌駕しているような気がした」という点。断片化され言語的に分類された様々な強度が入れ換わり立ち換わりするという分裂状態こそシャルリュスの特徴であって、なおかつこの特徴は何もシャルリュスただ一人だけに限った特徴ではなく、<私>を含むすべての人々が多少なりとも持つ人格の<多数性>ということではないかという問いかけだからである。前回も引いた。
「とはいえ氏が自分のありとあらゆる憎悪をどんな美辞麗句で飾ろうとも、氏のことばの裏にはときに傷つけられた誇りがあり、ときに裏切られた恋があり、恨みやサディスムやからかいや、固定観念なども存在していて、この男は人を殺(あや)めかねず、しかも論理と美辞麗句を駆使してそんな殺人行為を正当化しかねず、それでも自分は兄や義姉より格段に優れた人間であると言いくるめかねない人間だと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.465」岩波文庫 二〇一四年)
単一だと思われている一人の人間の中に、実はどれほど多数の人格が共存しているか。プルーストは「単一」という概念を「錯覚」として退けている。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
ニーチェはいう。
「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)
日本では早くから漱石が論じている。
「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(「文芸の哲学的基礎」『漱石文芸論集・P.48』岩波文庫 一九八六年)
さらにシャルリュスは<私>と別れるに際して「別れは音楽でいう完璧な三和音を奏でるのがいい」と述べる。だがシャルリュスにとって「和音」はいつも「和解」の象徴として取り扱われる。ゆえに<私>は思う。「ふたりが二度と会うことはないと厳かに宣言したにもかかわらず、私が見るところシャルリュス氏は、さきについ我を忘れて逆上したことを悔い、私を苦しめたことに心を痛めていて、私にもう一度会うことも厭わないだろうと思われた」と。
「『さあ』と氏はふと言う、『乗りたまえ、五分もすればお宅に着く。そこでさよならを言って、それっきり私たちの関係は永久に終わりだ。永久に別れるのだから、別れは音楽でいう完璧な三和音を奏でるのがいい』。このようにふたりが二度と会うことはないと厳かに宣言したにもかかわらず、私が見るところシャルリュス氏は、さきについ我を忘れて逆上したことを悔い、私を苦しめたことに心を痛めていて、私にもう一度会うことも厭わないだろうと思われた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.482」岩波文庫 二〇一四年)
シャルリュスの身振りはこのように一見したところ矛盾に見えていて、その実、矛盾ではなくパラドックスとして時間的かつ空間的に展開していく。また、時間的に見れば連続的に継起して見えているものが、実を言うと、空間的には常に同時に流動する諸形態に分散して置かれているということに気づいていたのはマルクスも同様である。
「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。どの形態も他の形態のあとに続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な緒契機をなしているだけである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.177~178」国民文庫 一九七二年)
その意味でシャルリュスは一個の身体でありながら無数の<問い>を演じていると見ることができるだろう。
なお、選挙後最初の月曜日のマスコミ報道について。余りにもお粗末。どの局もステレオタイプ(紋切型)発言ばかり連発していて電気料金が無駄になってしまった。なかでも政治専門のコメンテーター発言などは呆れるほどありきたり。何かといえば強者にすりより弱者を見捨てる戦後マスコミの弱点が開き直った形でよく出ていたように思われる。
とはいえ野党批判にももっともな点が少なくない。というより、野党サイドはあちこち駄目な部分を温存したまま野合的に振る舞っているばかりで、これまた声なき声を拾えているとは到底いいがたい。与党はたちまち改憲論議を推し進める構えなのだが、一方、野党ならそうならないというわけではまるでなく、内容はともかく同じように改憲論議を回避するわけにはいかない。引き延ばせば引き延ばすほど有権者の懐疑はますます高まる。なぜなら与野党逆転という事態になったとしても「日米同盟」という<鉄の掟>が日本全土を包囲しているからである。その認識の上で始めて批判政党の存在意義が出てくるというのに。
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